韓服(かんふく、かんぷく、ハンボッ)は、朝鮮半島地域の民族衣装の韓国での呼び方。女性用のチマチョゴリが有名である。現在は揃える衣装の種類が増えてきた。男性の韓服の場合、チョゴリ(上衣)とパジ(下衣)にチョッキあるいはマゴジャ(馬褂子/重ね着する上着)を着る。さらにトゥルマギ(周莫衣/外套の一種)を着れば、外出着から礼服としても通用する服装となる。チョゴリ(赤古里、襦、)とは上半身の衣服であり、男女とも共通。下半身の衣服は女性用はチマ(裳)、男性用はバジと呼ばれている。そして、頭に冠帽を載せ、腰に帯を巻き、そして靴または履(ぞうり)を履く。この上にトゥルマギ(外套の一種)を着用すれば耐寒性に優れた胡服系統の衣服となる。チョゴリあるいはチマチョゴリと呼ばれることが多いが、韓国では女性のチマチョゴリ()、男性のパジチョゴリ()、子供のセクトンチョゴリ()なども含めて民族衣装全体を広く韓服(、ハンボ)と呼び、北朝鮮では同様に朝鮮服(、チョソノッ)と呼んでいる。いずれも民族衣装である。現在の韓国では、袖の柔らかな曲線、全体を引き締める白地のトンジョン(半襟)、合わせ着のように着る形が、「民族衣装韓服の3大美」という人もいる。北方アジアの遊牧民が着ていた、胡服の流れを汲んでいると言われ、それに中国など外国の影響が加わって成立した衣服である。モンゴル帝国の支配下に入ると上流階級はモンゴル文化を受け容れ、韓服もその影響を受けた。パジやチョゴリの丈が変わったり小物が移入されるなど、その影響は無視できない。ちなみにモンゴルの服も北方騎馬民族の胡服の流れを汲んでいる。モンゴルの影響でチョゴリが短くなり腰の帯が消えて、オッコルム(服の結び紐)ができた。エルンスト・ヤーコプ・オッペルト(Oppert、EJ)は、彼の「朝鮮紀行 Ein Verschlossenes Land、Reisen nachKorea」で「服は男性も女性も多白である。」と述べており、ラゲリー(Laguerie、V.de)も「ゆっくりとどっしりに歩いてすべての人が白い服を着ている。」と述べている。朝鮮の両班のみが、色付きや柄付きの服を着ることを許されていた。1895年李氏朝鮮時代には、全国に変服令(변복령)と断髪令が降りると、これに抗議する断髪令騒動が起こったことは、あまりにも有名である。その後、日本統治時代以降も白衣を着る習俗に変化は見られなかった。また、日本統治時代が終わった後の朝鮮戦争時代の韓国人の服を見ても、やはり多くの人々は白衣を着ている。李氏朝鮮時代は両班が特権をかさに自らは全く働かず庶民を奴隷以下に置き、彼らに対する略奪・強姦・拷問などの暴政を行い権力を牛耳っていたが、日本統治時代になっても朝鮮人両班の性向は一向に改まらず、相変わらず庶民に対し横柄な態度を取り続けている事案が見受けられた。 高麗、李氏朝鮮の朝廷は時折、白衣が喪服の色であることを理由に禁令を出すこともあった。ただし女性のチマはこの限りでは無く、一部の少女と未婚女性および花嫁は赤いチマ、既婚女性や中年女性は藍色のチマ、老女はあさぎ色や灰色のチマを着用することもあったという。普段は一般的に生成りの漂白されていないチマとチョゴリを主に着用した。日本では韓国・朝鮮について、長年この装いが強くイメージされ,その象徴とされることも多かった。その背景には、韓国料理店の看板にこれを着用した女性が描かれていたり、その人形が韓国からの土産物になっていることなどが挙げられる。しかし現在では、常時着用する習慣は慶尚南道河東郡(智異山麓)にある青鶴洞のみで見られ、一般的には常用されない。ただし、チマチョゴリ常用の習慣は1960年代まではあったともいわれている。一方、日本国内にある朝鮮学校では、中級部(中学校)・高級部(高等学校)の女子生徒の制服としてチマチョゴリの様式を取り入れている(→朝鮮学校#制服の項参照)。これは白いチョゴリと黒いチマを着用するものだが、北朝鮮ではこの色彩のチマチョゴリが女性の正装になっている。なお、韓国ではこの色彩のチマチョゴリは見られない。韓国では最近、「改良韓服」(、ケリャンハンボ)というものが登場している。これは韓服を現代生活の中で手軽に着られるようにアレンジしたもので、「生活韓服」ともいう。活動しやすいよう丈が短めであったり、ドレスのようにオーガンジーなど華やかな素材を使ったものがあるが、これも日常的に着ているのは少数である。なお、最近、やなど一部の学校で、改良韓服を制服として採用した。
出典:wikipedia
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