墨汁一滴(ぼくじゅういってき)は、石ノ森章太郎(歴史的には1984年までのペンネーム表記は正しくは「石森章太郎」であり、その後にペンネームを変更して石ノ森章太郎とした。本名は小野寺章太郎。)が創刊した漫画の同人誌。1953年から1960年にかけて10回発行された。命名は正岡子規の随筆にちなむ。宮城県の石ノ森萬画館内には同名のグッズショップがあり、復刻版の『墨汁一滴』が販売されている。石ノ森章太郎(当時の筆名は石森章太郎、以下同様)は、中学生時代(1950年度-1952年度)に近所の子ども達と「東日本漫画研究会」を結成。研究会誌として『墨汁一滴』を計画した。しかし、仲間の原稿が仕上がらない為、完成した『墨汁一滴』は石ノ森の作品が大部分を占めていた(後に、「研究会誌ではなく個人誌」と述べている)。これは第2号で廃刊となった。石ノ森は方針を転換。「近所の漫画好き(読者)」とではなく、「既に投稿家として活動している人物」と手を組む事を考える。『毎日中学生新聞』、『漫画少年』に投稿していた3名と連絡を取り、会員となる承諾を得た。3名とも青森県に住んでおり、彼ら同士の住所も近かった事に、石ノ森は驚きを感じている(彼らの住居からは、馬場のぼるの生家も近かった)。「会員が4名では、まだ少ない」と考えた石ノ森は、『漫画少年』で会員を募集する。100通以上の申し込みがきたが、その大半は東北地方の在住者ではなかった(石ノ森は「東日本漫画研究会」とは明記したが、「会員は東日本在住者のみ」とは告知していなかった)。その結果、全国規模への拡大を決意したものの、「肉筆回覧誌」(「生原稿をそのまま綴じた物」を回覧する形態の同人誌)という性質を考慮し、人数の制限を設定した(理想は20名程度、上限は30名、と考えた)。そこで、「入会希望者には作品を送らせ、その技術水準で会員に相応しいかどうか判断する」という入試を実施する(落とされた中には、後年、漫画家となった人物も複数人いる)。高校1年の夏、石ノ森は『墨汁一滴』を新創刊する為、集まった原稿を手にして青森県の会員宅を訪問。2、3日で編集を済ませる予定だったが、十数日の滞在となる。編集された『墨汁一滴』創刊号は小包として郵送され、北海道の会員を皮切りに順次南下。九州の後で東京都に送られ、『漫画少年』編集部や手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄(当時は同一ペンネーム)らを巡り、批評を仰いだ。翌年の春、手塚から電報でアシスタントを依頼されている。高校3年の夏、『墨汁一滴』を編集する為に一旦上京。東京の会員(赤塚不二夫、長谷邦夫)と会合し、学童社(『漫画少年』編集部)、手塚宅を訪問する。高校卒業後に上京、トキワ荘時代にも『墨汁一滴』は継続していたが、多忙の為、終了する。岡田史子らが所属していた同人会「奇人クラブ」も、1966年頃から『墨汁一滴』という名の肉筆回覧誌を発行していた。石ノ森の『墨汁一滴』との関係は不明。
出典:wikipedia
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