本項では、熊本県の歴史(くまもとけんのれきし)を概説する。九州の中央部に位置する熊本県は、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」が前後二分された際の東側、旧国名のいわゆる肥後国が占めた領域とほぼ一致する。これは、近世江戸時代の幕藩体制期において球磨郡の一部などが別藩の領土とされるなど、また逆に肥後国天草郡に属していた長島が現在では鹿児島県に編入されているなどの一部例外はあるが、府県制施行によって置かれた九州各県のうち宮崎県(日向国)とともに伝統的な国制をほぼ維持した例にあたる。熊本県の風土的特色は、菊池川・白川流域を中心とし阿蘇山を含む県北部域、人吉盆地を主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別することができる。この区分はそれぞれ熊本藩・人吉藩・天領天草という幕藩体制下の三つの区域と対応しており、それぞれ個別の特色を持つ。熊本県の歴史をかいつまむと、多くの遺跡や古墳に見られる豊かな自然環境とそれを一変させる火山活動、律令制下から武士の勃興。南北朝を経て国衆割拠そして加藤清正の入部、細川忠利の入部を経て幕末の動乱から西南戦争、戦後の公害問題までが大まかな流れとなる。そして全体を通して、大和朝廷の成立後、周辺の位置にあった肥後国そして熊本県の歴史は、常に中央政権からの影響を受けつつ綴られた。日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上が熊本県で発見されている。しかし、発掘調査は数ヶ所でしか行われていない。多くは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置するが、水俣市の石飛分校遺跡や天草下島の内ノ原遺跡なども発掘され、その分布は県下全域に及ぶ。最も古いものは熊本市平山町の石の本遺跡から出土した石器類であり、炭素C14測定から30000年以上前のものと推測されている。出土数は4000点にのぼり、安山岩の破片から作られた小刀類や局部磨製石斧も見つかっている。これらや、九州が比較的自然環境に恵まれた土地であったことから、古代熊本は豊かな狩猟採集社会生活の舞台だったと推測される。しかしながら、九州は多くの火山噴火がもたらす環境の激変に何度も襲われた土地でもあった。阿蘇山・姶良山・鬼界カルデラの爆発は火山灰地層を複数形成し、特に石器時代中期に見られる姶良Tn火山灰層の上下に見られる出土品の比較や、石飛分校遺跡の同層上部から見つかった細石器や土器の破片などの分析を通じて火山活動が及ぼした環境や社会生活への影響が研究されている。その一方で、当時の火砕流から形成された阿蘇溶岩は、後に良質かつ豊富な石材となって肥後の石工を支えた。続く縄文時代、熊本県下で発見された早期の遺構は、爪形文土器が発掘された人吉市の白鳥平B遺跡などわずかな例しかない。これは、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発によって九州全土が壊滅的な打撃を受けたためと考えられている。しかし縄文中期には下益城郡城南町の御領貝塚・黒橋貝塚が見られ、後期になると東日本や朝鮮半島との共通点も見られる土器文化が発展した。熊本平野で発見された約13箇所の貝塚はそのほとんどが後期にあたり、現在の海抜5mあたりに位置している。宇土市の曽畑貝塚からはドングリ貯蔵の痕跡も見られ、また出土した曽畑式土器は同型のものが沖縄諸島や朝鮮半島からも発見されている。城南町の阿高貝塚と黒橋貝塚から見つかったイタホガキ製貝面や阿高式土器は、佐賀県腰岳の黒曜石とともに、韓国釜山市東三洞(トンサムドン)貝塚からも出土している。逆に、天草市の大矢遺跡からは朝鮮半島の形式である石製結合釣り針が見つかっている。土器や生活様式はその後も進歩を見せ、独自の黒色磨研土器が発達した。また、熊本市の上の原(うえのばる)遺跡からは竪穴式住居の遺構から炭化した米と大麦が発見された。当時、大部分が海であった熊本平野が海退現象や河川堆積物によって埋まり、採取のみに頼った食料確保から原始的な畑作への転換が始まっていたことを示している。このような農耕の痕跡はこの他にも数箇所から見つかっている。さらに上南部遺跡(熊本市)からは土偶や磨製石器の石刀などの特殊遺物が数多く出土している。県下の縄文時代遺跡は約770ヶ所を数える。これらの生活遺構は弥生期になると場所を変え、海岸線から離れた台地上に環濠集落を形成するようになった。甕や壷・石斧など典型的な弥生時代遺物が発見される遺跡はやがて熊本平野全域におよび、広い範囲で稲作が行なわれたことを示している。一方、沿岸部にも同時代の小規模な貝塚が発見されている。宇城市三角町の文蔵貝塚では焼いた小さな巻貝の殻が多数見つかった。これはホンダワラを焼く製塩法の名残りであり、『万葉集』で歌われた「藻塩焼き」が行なわれていた証拠とされる。さらに時代が下ると、阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域からも製鉄の遺構が発見された。鏃や槍鉋、農具である鋤鍬先や鎌・鉄斧、また端切れと考えられる三角形や棒状などの鉄片なども見つかっている。二子塚遺跡(熊本市)からは炉跡を中心に焼土ブロックや木炭、熱を受け錆が付着した台石など、製鉄の痕跡が出土している。また、青銅器も熊本市の徳王遺跡や泗水町の古閑原遺跡から出土した銅鏡などがある。弥生時代遺跡数約740は日本国内の13%を占める。初期のヤマト王権は、服属化させた地方に「県」(あがた)を置き、その地の豪族を県主に任じたと『日本書紀』にある。同紀や『筑後国風土記』には、熊本に置かれた3つの「県」が見られる。球磨県はその名称が現在も引き継がれ、閼宗県(あそけん)は阿蘇地方に対応する。八代県は現在の宇土地方を含むより広い領域を含んでいたと考えられる。緑川と氷川に挟まれた宇土半島基部では塚原古墳群に代表される120前後の前方後円墳が発掘されているが、この中のひとつ向野田古墳(宇土市松山町)には30代と推定される未婚女性が埋葬されていた。これは卑弥呼に代表され、『豊後国風土記』の「比佐津媛」や『日本書紀』の「神夏磯媛」と同様に地域を統治していた巫女の存在を示すと考えられている。宇土半島基部の遺跡は、装飾文様が施された国越古墳や氷川流域の丘陵部に形成された野津古墳群などに代表され、この地域は火君(ひのきみ)発祥の地とされている。火君は地域を代表する豪族であり、『古事記』では神八井耳命(かみやいみみのみこと)の後裔として、『日本書紀』や『肥前国風土記』では熊襲討伐を果たした景行天皇一行が不思議な火に誘われて至った地で土蜘蛛退治に活躍した者の子孫として記されている。そして、この故事から「火の国」の名称が生まれたとされる。江田船山古墳から出土した大刀銘文から、火君など火の国の豪族は既に近畿の大伴・物部氏と関係を持っていたことが明らかになっている。豪族のひとつ建部君(たけべのきみ)は、その名が大和朝廷から軍事的部民として名を下賜された一族で、現在は熊本市黒髪・子飼本町に相当する中世までの地名武部・竹部・建部あたりを本拠としていたと思われる。菊池川流域で発掘される古墳群は少々時代が下り、竜王山古墳(山鹿市)・山下古墳(玉名市)・院塚古墳(岱明町)が知られ、これらは日置部君(ひおきべのきみ)一族の地とみなされる。阿蘇一宮町にある中通古墳は阿蘇君(あそのきみ)の築造とされる。これらの墳墓から発掘される貝輪などは、当時の豪族がさかんな交易を行なっていたことを示している。さらに、阿蘇溶結凝灰岩から作られた舟形石棺が瀬戸内海沿岸や近畿地方の古墳にも用いられていることから、この交易は相当広範囲にわたる規模のもので、豪族たちの権勢を支えていたと推測される。県全体で確認された古墳は約1300程を数え、これは国内の24%に当たる。磐井の乱以後、九州への支配体制を強化した大和朝廷は、当地の軍事力の再編成や屯倉の設置など支配力を強化した。この一連の中で、火の国には大伴氏の部民が多く配された。これらは、『万葉集』巻5、『和名類聚抄(和名抄)』、東大寺出土木簡などの記述から見いだせる。『日本書紀』にある火の国の春日部屯倉(熊本市春日町)は九州中南部の豪族反乱へ睨みを利かす朝廷の出先機関という性格を有し、軍事的かつ経済的拠点としても機能した。『隋書』の中に阿蘇山噴火を記した下りがある。これは遣隋使が行われた推古天皇期に伝えられた情報と考えられており、火の国が大和朝廷にとって重要な拠点のひとつだったことを示す傍証にもなっている。令制国「肥後国」が史書に初めて記されたのは、『日本書紀』持統十年四月戊戌紀にある白村江の戦いで捕虜となり33年ぶりに帰国した兵士「肥後国皮石郡(合志郡)人の壬生諸石(みぶのもろいし)」について記述した箇所に見られる。朝廷は、帰国した彼と家族の労苦に対し水田や物品を与え、また税の免除などを以って報いたとある。日本書紀の次に編纂された「続日本紀」文武二年五月二十五日条に、鞠智城繕治の件を載せている。これは唐・新羅連合軍来寇に備え、大宰府を防衛する大野城・基肄城と同時期に現在の山鹿市(旧菊鹿町)に建設されたものである。ただし鞠智城は武器や兵糧の供給または防人が控える支援基地としての性格が強かった。律令制においては肥後国にも国府が置かれ、その場所は『和名類聚抄』には益城郡、『伊呂波字類抄』には飽田郡、鎌倉時代の『拾芥抄』では益城・飽田郡のふたつが併記されている。一方で地名としての「国府」は託麻郡(熊本市国府)にあり、『日本霊異記』宝亀年間頃の説話には「託麻国分寺」という記述がある。発掘が行なわれたところ熊本市国府から9世紀中ごろの遺構が発見されたが、これには洪水による破壊の痕跡が見られた。この発見から、当初は託麻にあった国府が水害を被り、益城・飽田の何れかに移転したものと考えられている。ただし、これを裏付ける遺跡や遺物の発見には未だ至っていない。一方で官職「肥後守(ひごのかみ)」は『懐風藻』に五音詩「秋宴」を載せた作者「正五位下肥後守道公首名(ひごのかみみちのきみおびとな)」に見られる。道公首名は663年に北陸の道君一族に生まれ、新羅大使や筑後守を経て兼任肥後守に就任した。『続日本紀』には首名の系譜や生涯などと優れた業績を記録した「卒伝」があり、治水灌漑のための溜池「味生池(あじうのいけ)」(現:熊本市立池上小学校北側一帯)を築いた事例などが載せられている。続日本紀では通常「卒伝」は僧侶を除き律令官位制五位以下の者は記録しないが、正五位の道公首名だけは生前の伝記に当たる「卒伝」が詳細に記録されている。これは、首名の地方行政が律令下の範たるものであったことに加え、天智天皇と道君一族の越道君伊勢羅都売(こしのみちのきみいらつめ)の間に生まれた志貴皇子が光仁天皇の父であり、『続日本紀』編纂期の天皇と血縁にあったことも影響していると考えられる。肥後の国司には、この道公首名の他に紀夏井、藤原保昌らも赴任し、平安時代の国司・清原元輔と肥後の女歌人・檜垣嫗との交流についてはさまざまな説話が残されている。飛鳥時代から導入された律令の調庸のうち、肥後から納められる特徴的な品目に繭綿と絹織物があった。これは『和名類聚抄』および『続日本紀』中に、貢進される数量の多さとともに記されている。また、紫草も多く貢上され、これらは平城京跡や大宰府から出土した木簡にある記述に裏付けられている。この他にも、朝廷の正月節会料のための「腹赤魚(はらか)」など海産物の献上記録などが残されている。肥後国の納税能力は高く、『弘仁(主税)式』に記録された出挙稲数では、九州総計459万束のうち123万束を肥後国が占めている。そのため公営田制導入において肥後国は、延暦14年(795年)には国等級区分が「上国」から「大国」へと昇格され、その中心を担う一国に据えられた。これら租税徴収および軍事など地方行政を遂行するため、肥後国にも条里制が布かれ、郡家(郡衙)や駅路・車路(くるまじ)が整備された。ただし、記録に残る条里制の区域は、一部阿蘇カルデラ内を除き菊池川流域および熊本平野に集中し、「コ」の字形に配列された掘立柱が特徴的に見られる郡衙遺構もそれらの中心を占める形で発掘されている。路は筑紫国から下り、熊本平野を南北に貫いて馬屋である益城駅に続く。現在の熊本市北部(旧地名「子飼町」)には、繭綿輸送の中継点であった「蚕養駅(こかいえき)」が設置された。肥後国はまた、朝廷や駅馬・伝馬に用いられる馬を供給する「牧」を担い、『延喜式』には二重牧(ふたえまき、阿蘇外輪山を挟み阿蘇町と大津町に跨る)と波良牧(はらまき、小国町一帯と推測される)、さらに『日本三代実録』には大宅牧(おおやけまき、宇土半島)が記録されている。また山鹿市に残る昔話に、大田畑を誇る米原長者がやはり大地主の駄の原長者と宝くらべを行い、金銀財宝を積み上げた米原長者に対し凛々しい子息らと美しい子女らを並べた駄の原長者に民衆が軍配を上げる話がある。この駄の原長者は数百頭の牛馬を持ち、官道への駅馬供給を担った実力者であったと推測されている。神護景雲元年(768年)、肥後国葦北郡から白い亀が朝廷に献上された。3年後にも同じ例があるが、こちらは歴史に大きく関与した。神護景雲4年(771年)8月に葦北郡と益城郡の二箇所から白亀が献上されたが、同月は称徳天皇が没した月と重なり、天智系の光仁天皇が即位した時でもあった。大瑞を示す亀の出現を受けて10月に元号が「宝亀」に改められ、権勢を誇った道鏡は失墜した。この二度目の白亀献上は、『続日本紀』によると国司である肥後守・大伴宿禰益立が行った。宝亀3年(773年)にはまたも白亀を献上した肥後国は、瑞祥を示すことで天武系から天智系への転換を後押しし、そこには大伴氏の関与があったものと推測されている。ただし、藤原種継暗殺計画に関与したとして大伴家持の一族が処罰されると、肥後国司の系列に大伴の名は見られなくなり、藤原氏系列がその職を得ることとなった。平安時代後期、日本各地で武士が勃興し勢力を確立してゆく。これは肥後国においても同様に見られ、有力な武士団が形成された。しかし、いずれも肥後一国を支配下に置く「一国棟梁」に至った者は生まれず、これは豊臣秀吉の登場を待たなければならなかった。肥後を代表する武士団は菊池・阿蘇の両氏であり、緑川流域の木原氏や諸島部の天草氏、人吉や球磨川流域に拠した関東下向系の相良氏、戦国時代に名を馳せた隈部氏なども知られている。肥後に限らず九州の武士は府官すなわち大宰府に所属する仕官を源流とするものが多く、刀伊の入寇時に戦いに当たった諸氏の記録に名が見られる。菊池氏は、その初代・菊池則隆が、刀伊の入寇において大宰権帥藤原隆家の配下で活躍した藤原系の郎党・政則(蔵規)を父に持つとされる。当時、九州の有力豪族は権威を保持拡大するために大宰府との接触を持ったが、菊池氏もこの例に則していた。ただし、太宰小弐・対馬守に任命された政則に対し、則隆やその子・政隆(西郷太郎)は郡司家系列の「肥後国住人」ともされていた事から、両者には必ずしも血筋の繋がりあったとは限らず、本来は主従関係にあったともする考えもある。もうひとつ、中世肥後の有力武士団となる阿蘇氏(宇治姓)は特異な性質を持っていた。阿蘇氏は、阿蘇国造の系列を称し、また古代の火山神と地域の農業神を習合した阿蘇神社の神官を世襲する豪族であった。保延年間には、阿蘇山麓に開発した田地を中院右大臣家(源雅定)を領家、安楽寿院を本家とする荘園として寄進し、開発領主から本所へと地位を固めた。さらに健軍社(健軍神社)・甲佐社(甲佐神社)・郡浦社(郡浦神社)を傘下とし、白川・緑川流域に当たる肥後国中央部を勢力下に置いた。阿蘇神社は肥後国一宮となり、宮の造営などの経費は一国平均の役で賄われるなど、権威を拡大した。これらの権勢を背景に、阿蘇氏は武士団を形成した。それは、保延3年(1137年)の資料に初見される、宇治惟宣(阿蘇惟宣)が神官の長が武士団の長を兼ねる際に用いる「大宮司」を称したことを始まりとしている。なお、阿蘇氏は名の通り阿蘇を出自とするものの、全盛期は、阿蘇の南外輪山・現在の山都町にあったとされる「浜の館」時代であった。当時は阿蘇よりも矢部の方が生産性が高く地の利が良かったようで、「岩尾城」「愛藤寺城、別名矢部城」など要害の地に立つ堅牢な山城を築城して勢力を誇った。平安時代後期には、地方で勃興する武士勢力による小規模な争いが見られた。またそこに、白河上皇に始まる院政を背景とした国司支配が絡まり、複雑な模様を呈した。肥後に限らず九州では、鎮西総追捕使を称した源為朝(鎮西八郎為朝)が乱暴を重ねたという記述を『保元物語』に見ることができ、各所に伝承が残っている。下益城郡富合町にある木原山は別名を雁回山というが、これは同山に砦を置いた鎮西八郎の弓の腕前を恐れ雁がこの山を避けて飛んだという逸話を由来としている。しかし『高野山文書』にある久安2年(1146年)の訴状によると、当地で反体制の騒乱を起こしたのは地方武士・木原広実であったとされ、源為朝がこの山に篭った証拠は無い。この訴状には他にも、現在の上益城郡甲佐町に拠した菊池氏系の田口経延・行季親子が国衙を襲撃した事件を載せているが、この舞台となった山手村にも鎮西八郎が武威を示すため白い旗を立てたという伝説があり、現在では白旗という地名になっている。このように、九州一円に残る鎮西八郎伝説は、当時多くの地方武士勢力が局地的争乱を起こし、これらが源為朝の所業に集約され残されたと考えられている。保元の乱以降、平清盛が大宰大弐に就任すると、肥後国を含む九州には平家の影響力が強く及び始めた。院政権力と結び、王領荘園の領家や預所職を一族で占め、また受領として国衙の行政権を掌握した。この動きに地方の武士団は、平家の軍門に下るか、もしくは反抗を試みるかの二者択一を迫られた。当時の菊池氏棟梁・隆直が選んだのは後者の道だった。治承4年(1180年)、菊池隆直は大宮司阿蘇惟安や木原次郎盛実など肥後の有力武将と組み立ち上がった。この鎮西反乱は、『玉葉』では「筑紫の反乱」と、終結した年号から「養和の内乱」とも呼ばれる。数万の兵を以って一時は大宰府にまで攻め入った肥後勢ではあったが、平家側の働きかけにより朝廷は原田種直に反乱分子を意味する「鎮西の賊」菊池隆直追討の宣旨を下し、平貞能を追討使として九州に派遣した。押され始めた肥後一党は本拠を攻め込まれ、養和2年(1182年)4月には降伏、肥後の武士団は平家方に組み込まれた。『吾妻鏡』・『平家物語』・『源平盛衰記』また『歴代鎮西要略』では、この「鎮西反乱」は勃興と同年伊豆で挙兵した源頼朝に呼応したものとされるが、実態は異なり地方勢力の反乱であった。それどころか、寿永2年(1183年)に安徳天皇を奉じて九州に落ち延びた平家に従った菊池隆直を、鎌倉幕府は平家に組した「張本の輩」と断じた。ただし、菊池氏は鎌倉時代も御家人として存続した点から「鎮西反乱」が源氏方にも考慮された可能性は否定できない。また、当時既に球磨地方の多良木荘に拠った相良氏も平家方として活動したが、幕府成立後に謝意を示して許されたとされる。しかし、これは逆に罰を受けて氏族本拠の遠江国相良荘を追放された結果との説もある。阿蘇氏・木原氏という有力武士団を配下に反乱を起こした菊池隆直は当時「一国棟梁」に最も近い位置にいたが、結果「養和の内乱」は中央の武家権力による肥後支配を呼び込む役割を担ってしまった。また、球磨一郡を範囲としていた球磨荘が平家没官領とみなされて鎌倉幕府によって解体され、その一部であった人吉荘は後に相良氏に与えられることになった。熊本県やその近郊には、平家の落ち人伝説が残る。その場所としては、八代市泉町五家荘、隣接する宮崎県椎葉村などが知られている。文治の勅許によって守護・地頭が設置されると、平家方にあった肥後国では東国武士が多く惣地頭の職を占めた。「張本の輩」とされた菊池氏は、後鳥羽上皇の院宣に始まる承久の乱に菊池隆能が上皇方に加わったこともあり所領を没収されたが、多くの肥後在郷武士は惣地頭の「所堪」(指導統制)に服す小地頭に組み込まれた。熊本市北部にあった有名な荘園「鹿子木荘」は、訴状資料として作成された『鹿子木荘条々事書』で主張された開発領主の権限の強さを示す事例で知られていた。しかし、後にこの訴状で開発領主とされた沙弥寿妙が実際には受領であったことが判明し、開発領主の権限「職権留保・上分寄進」には疑問が呈されている。また実際に、安泰を目指し領地を寄進した地方武士が、引き換えに得た代官職をやがて失なったり、または訴訟で敗れ喪失する例などもあった。文永5年(1268年)と8年(1271年)に修好を迫る元の使者を追い返した幕府は、来寇を覚悟し、多くの武士を博多に集結させた。文永11年(1274年)10月19日、対馬・壱岐などを経由した蒙古軍の船が博多湾に押し寄せ、いわゆる元寇は始まった。この役には菊池・詫間・相良氏など肥後の武士も多く馳せ参じた。集団戦で優位に立ち大宰府に近い水城まで戦線を進めた蒙古軍だったが、一旦軍船に退却したところ暴風雨が襲い多くが難破してしまい、元軍は敗退した。しかし再襲必至と睨んだ幕府は、旧習を破る令を発した。それまでは御家人のみを対象としていた原則を拡大し、「本所一円地の住人」すなわち非御家人までにも幕府は出陣を求め、軍功には恩賞で報いると告知した。また、先手を打つ高麗への遠征計画を練り、兵力の注進を守護に命じた。このうち、肥後北部の武士名簿を綴った報告書の一部は、後に裏面を用いて『筥崎八幡宮御神宝記』が作られたため、その内容を今日も知ることが出来る。ここに見られる武士の中には、井芹西向(いせりさいこう)のように惣地頭の横暴のため領地を失った者もいた。高麗遠征は博多湾岸の石築地設営に注力するため取りやめられたが、召集された兵力は警備に向けられ、肥後武士たちも生の松原に詰めた。弘安4年(1281年)6月3日、蒙古軍はふたたび博多湾に来襲したが警備の武士と石築地に阻まれ一旦退却。江南の軍と合流し7月27日に鷹島沖に到着したが、今度は台風に当たり難破船が続出した。武士団は残軍に掃討をかけ、肥後武士も奮闘した。この二度の戦役(文永の役・弘安の役)で戦った肥後武士の一人・竹崎季長は、後に戦役の模様などを伝える『蒙古襲来絵詞』を編纂した。菊池氏の庶流とされる竹崎氏は、豊福荘竹崎(現在の宇城市松橋町竹崎)に在した国御家人であった。その中で季長は訴訟に敗れ一族からも孤立していた。そのような時に起こった文永の役は彼にとって千載一遇の好機であり、わずか5騎を引き連れて参戦した。死を恐れず挑み一番駆けの功を挙げたが、注進に漏れ恩賞に与れなかった。翌年彼は馬具などを売り払って旅費を工面し、中間2人だけを伴って鎌倉まで赴いて、建治2年(1276年)恩賞奉行の安達泰盛に謁見し訴え出た。泰盛は功を認め、季長に東海郷(現在の宇城市小川町)の地頭職を与えた。弘安の役でも活躍を見せた竹崎季長は、後に東海郷経営に手腕を発揮した。これは置文『海東郷社 定置条々事』の内容や、霜月騒動で滅した恩人・安達泰盛を偲び発案したともされる『蒙古襲来絵詞』作成に充分な財力を得ていたところからも推測される。訴え出た竹崎季長は最終的に恩賞を得たが、彼のように武功を挙げながら何ら褒章を受けられなかった者は多く、御家人の貧窮化が進んだ。さらに寛元4年(1246年)執権に就任した北条時頼は幕府権力の掌握と反北条氏勢力の排除を強め、元寇という外患も利用し、北条一門による専制体制を固めた。肥後国に与えた影響も大きく、弘安徳政で事の是正を試みた安達泰盛が廃された霜月騒動以後の守護職は得宗または北条氏族が独占し、一国平均の役で課される税の徴収など本来国司が持つ権限も守護が担うようになった。得宗領とされた荘園も多く、菊池荘や熊本平野の各荘園・八代や球磨郡および天草・寛元2年(1244年)に相良氏から奪った人吉荘北方など、肥後国内全域に及んだ。所領を奪われたり、安堵・自立を脅やかされるなど矛盾を含んだ政治は多くの不満不平を生じ、反体制勢力である「悪党」の発生に繋がってゆく。永承7年(1052年)は仏教で言う末法の元年とされ、救済を求める宗教運動は肥後でも見られた。最初の例は永保元年(1081年)に建立された現在の御船町にある玉虫の如法経塔であり、著名なものは久安元年の現:山鹿市凡導寺にある滑石製経筒がある。これらの背景には肥後武士団勃興による争乱があったものと推測される。法然に始まり、衆生救済を掲げた浄土宗の肥後伝播は、安貞2年(1228年)白川沿いの往生院で開かれた弁阿の別時念仏に始まるとされる。同年宇土西光院でも念仏を修した弁阿は、鎌倉時代に浄土宗が肥後国で広く浸透する端緒を開いた。多く建立された浄土宗阿弥陀堂の中でも、人吉・球磨地方に名刹が多く残っている。これは、鎌倉初期以降相良氏が当地を支配し、それが明治まで一貫して続いたことが大きい。湯前町にある熊本県下最古の建造物である城泉寺(現:明導寺)や多良木町の青蓮寺はその代表であり、仏教建築や阿弥陀三尊像、法華経を収めた銅製経筒などが伝わっている。後醍醐天皇の討幕運動に呼応し 護良親王が発した北条高時討伐の令旨は、九州の各武士団にも届いた。元弘3/正慶2年(1333年)初頭、当時の菊池氏棟梁・武時は、筑後の少弐貞経・豊後の大友貞宗とともに鎮西探題を攻撃する密約を交わし、その準備にかかった。しかし、この計画は探題の北条英時に漏れ、英時は彼らに博多への出頭を命じた。同年3月12日菊池武時は阿蘇惟直らを従い向かったが、探題から遅参を責められた。計画漏洩を察した武時は決起を働きかけたが少弐・大友両氏はこれを拒絶した。3月13日早朝、菊池武時・阿蘇惟直らは決意を固め手勢150騎で探題の館に攻め込んだ。しかし少弐・大友両氏は裏切って探題側に付き、激戦となる。菊池勢は武時以下ことごとく討ち死にする中、嫡男・菊池武重はかろうじて肥後へ逃れることができた。1978年、福岡市地下鉄工事の際、博多区祇園町東長寺前からおよそ110の頭蓋骨が発見された。分析の結果14世紀のものとみられ、博多合戦で敗れさらし首にされた菊池一党の武士のものと見なされている。北条英時は肥後国守護の北条高政に菊池・阿蘇氏の討伐を命じた。規矩高政らが率いる討伐軍に本拠地を攻め込まれた両氏は現在の五ヶ瀬町にあったと推測される日向国鞍岡城に逃げ込むも攻め入られ、鞍岡山に逃れた一部を除き多くが討死した。この一連の事件によって、菊池氏は少弐・大友両氏に対し、拭い難い程深い恨みを持つこととなった。このように九州での倒幕運動は一度は失敗に帰したが、中央では足利尊氏が、鎌倉でも新田義貞が反旗を翻した。少弐・大友両氏も倒幕に転じ、鎮西探題を攻め落とした。こうして鎌倉幕府は倒壊し、隠岐から京都へ戻った後醍醐天皇の下、公卿や楠木正成ら武士が輔弼した天皇親政が始まった。新政府は政権交替の論告において、肥後武士を高く評価した。菊池氏嫡男・武重は肥後守の官職を得、武敏(掃部頭)・武茂・武澄(肥前守)ら兄弟も要職を授けられ顕彰された。阿蘇氏もまた、北条氏に奪われていた大宮司任命権を『官社開放令』によって取り戻し、勢力の回復に繋がった。これらは、多くの郎党が無念の死を遂げた肥後武士団の溜飲を下げ、彼らをして後に「南朝一辺倒」と言われる程の宮方(南朝方)傾倒に駆り立てる動機となった。天皇親政下の政策は、拙速な改革や朝令暮改、恩賞の不公平や新課税など多くの問題をはらんだもので、親政権は急速にその支持を失っていった。建武2年(1335年)足利尊氏は鎌倉で反親政に乗り出し、後醍醐天皇は新田義貞を討伐に差し向けた。天皇に近侍していた菊池武重・武吉兄弟は「菊池千本槍」を携え、また阿蘇惟時・惟直親子も共に新田軍に加わって、箱根・竹ノ下の戦いに参戦した。この時、阿蘇親子に向けた「後醍醐天皇綸旨」が「阿蘇家文書」として現存している。しかし新田方は破れ、京都までの退却をも追われた。菊池武重は殿軍として足利直義を退ける活躍を見せ、建武3年/延元元年(1336年)には京都・大渡橋の戦いでも尊氏軍を迎撃した。その後武重は比叡山に逃れた後醍醐天皇に付き従い、そのまま軟禁された。足利尊氏は京都で北畠顕家に敗北し、態勢建て直しのために九州へ逃れた。この際、九州の有力武士団に軍勢催促状を送り、武家政権復活に期待を寄せる少弐頼尚らはこれに従った。しかし、菊池・阿蘇氏は南朝への義理に服した。武重不在を守る菊池武敏や阿蘇大宮司惟直と惟成兄弟は軍を率いて北上し、優勢な戦力を背景に多々良浜の戦いに臨んだがこれに敗れ、尊氏の再決起をみすみす許した。建武3年4月3日、九州北部に一色範氏(道猷)を、南部に畠山直顕を置き、少弐頼尚や大友氏泰らを率いて尊氏は大船団で京へ出発した。その途上、迎え撃つ天皇方を湊川の戦いで撃破し、敗れた楠木正成とともに菊池武吉は切腹して果てた。この後、尊氏と、これを避けて吉野に逃れた後醍醐天皇による、南北の両統が迭立する南北朝時代が始まった。足利尊氏ら本勢力が九州を離れると、肥後武士団は抵抗を強めた。尊氏出発直後の4月13日の安楽寺(現:玉名市)や16日の鳥栖原(現:西合志町)で戦い、今川助時が尊氏方として肥後国国府に入ると唐川(現:菊陽町)で合戦を挑んだ。幽閉状態を脱し菊池武重が肥後に戻ると、建武4年(1337年)に挙兵。阿蘇惟時の娘婿・阿蘇惟澄や八代で地頭職に就いていた名和氏とも協調し、犬塚原(現:御船町)で一色頼行を破るなどの行動を見せた。その行動において「南朝一辺倒」とも評される肥後武士ではあったが、実態は必ずしも一枚岩ではなかった。この時期は、所領を嫡男に一括相続させる慣習が広まり、一見遺産の分散を防ぐこの方法は反面一族内の争いを強めてしまった。阿蘇氏は一族が南北朝に割れたが、惟直の死後大宮司に復帰していた阿蘇惟時は中立の態度を貫くことで一族の分裂を防いだ。菊池氏も同じ問題を抱えていたが、菊池武重は氏族を纏める理念を外部に求め、曹洞宗の僧・大智を聖護寺に招いて「菊池家憲」を創った。延元3年(1338年)7月25日の日付が記されたこの家訓には血判が押され、日本最初の血判起請文とされる。これによると、重要な政治的決断は惣領が下すが、政道は寄合衆(内談衆)とよばれる一族の集団が決定するとある。しかし、翌年武重は亡くなり、後を継いだ弟の菊池武士は任に耐えられず程無く引退。さらには本拠を北朝方の合志幸隆に占領されてしまった。これは阿蘇惟澄の協力を得た庶子の菊池武光が奪還したが、菊池氏の勢力は衰退を見せていた。この状況にさらに混沌をもたらす二つの存在が肥後国に向かっていた。一人目は南朝の征西大将軍・懐良親王であった。親王は伊予・薩摩を経て、貞和4年/正平3年(1348年)肥後の宇土に着いた。迎えた惣領を継いだ菊池武光を伴い、阿蘇惟澄の所領を通過して菊池氏の隈府山に入った。そして二人目は足利直冬。足利尊氏の庶子ながら父に疎まれる、叔父足利直義の養子になっていた。高師直・師泰兄弟と対立していた直義は、貞和5年/正平4年(1349年)直冬を中国探題に任命し、中国地方に影響力を及ぼそうとした。しかし師直は、配下に直義を攻めさせた。この時、直義を助けたのが肥後武士・河尻幸俊だった。河尻氏は、源高明の孫・実明を源流とし、飽田南郷川尻(現:熊本市)にあった国衙役人の系統にある清和源姓の一族とされる。鎌倉時代中期には、河尻泰明が寒巌義尹を招いて大慈寺を開山し、朝廷や北条氏との関係を設けて勢力を伸ばした。肥後国の中では北朝に属していた。河尻幸俊に招かれ肥後に入った足利直冬は、幕府の威を借りて九州の武士団に指揮下に集結する呼びかけを行い、また所領安堵などを与えた。その一方で肥後の探題方に与する勢力を攻略し、観応元年(1350年)大宰府に入った。足利尊氏や高師直らは直冬討伐令を発した。そして、菊池には南朝の懐良親王が在した。こうして、元号でも正平・観応・貞和(足利直義が用いた)の三つが並ぶ、肥後版観応の擾乱を特色づける三勢力の鼎立状態に突入した。観応2年(1351年)2月高師直・師泰が権力闘争に敗れ殺されると、足利直義は権力を掌握し、直冬方は勢いを得た。直冬は鎮西探題に、河尻幸俊は肥後国守護に就任した。一色氏は宮方と一時協定を結び、菊池武光らは筑後に進んで直冬方と激しく戦った。しかし同年正平一統が成り、翌年に直義が殺害されると、同様に勢いを失墜した足利直冬は九州から逃れ、三つ巴の状態は終わった。直冬逃亡によって再び南北朝対峙の状態に戻った九州では、探題方対佐殿方の内紛を尻目に宮方は勢いを強めていた。懐良親王の威光に加え、合戦を指揮した菊池武光のカリスマ性もあり、肥後はふたたび「南朝一辺倒」となった。文和2年/正平8年(1353年)筑前に攻め入った宮方は観応の擾乱で一色直氏軍を破り、翌々年には博多を攻略した。一色範氏・直氏親子は九州を脱した。こうなると、少弐氏や大友氏など九州探題の一色氏と対立していた旧守護派は宮方と手を結ぶ必要が無くなり、再び対立するようになった。延文3年/正平13年(1358年)大友氏時は挙兵し、少弐頼尚も呼応して菊池氏本拠を目指した。菊池武光は五条頼光などを集めて北上し、頼尚も龍造寺氏・深堀氏・松浦党などと結集しこれを迎え、翌年両軍は筑後川の戦いで激突した。7月19日に始まった戦闘は、8月6日宮方の夜襲で決した。双方かなりの痛手を負ったが、少弐軍は敗退して以後衰退し、菊池氏は博多合戦の恨みを晴らした。康安元年/正平16年(1361年)、懐良親王は宇土到着から18年を経て大宰府に入り、征西府を置いて北部九州を掌握した。その政治機構は、父・少弐頼尚に背いて南朝方に着いていた少弐頼澄を筆頭とする12人の府官によって成ったが、実際は肥後守護となった菊池武光ら菊池一族が握った。この頃には中央での南朝勢力は衰えていたため、征西府は幕府から独立した軍事政権の様相を帯びた。これは明や高麗との国交において顕著で、貿易権の掌握や、倭寇取締りを求める明からの使節が征西府に赴いたところや、明が「良懐」すなわち懐良親王を「日本正君」に冊封したところからも窺える。当然の成り行きながら足利幕府は征西府を認めず、肥後守護に大友氏時を任じ、そして後任に阿蘇惟澄を推すなど南朝方の内部瓦解を画策するなどの行動を取っていた。そして応安3年/建徳元年(1370年)幕府は実効的な手を打ち、今川貞世(了俊)を九州探題に任命し、中国地方の武士団を引き連れ、九州でかつての北朝勢力をも懐柔して大宰府に攻め込んだ。大友氏や松浦党などを配下に収めた貞世の、多方面からの攻撃を受けた懐良親王・菊池武光らの征西府は応安5年/文中元年(1372年)墜ちた。この後二年間は筑後川流域を戦場に争ったが、武光そして菊池武政が亡くなり、宮方は肥後まで押し戻された。武政が築いたとも言われる本拠・菊池城に篭った宮方は、今川貞世に完全に取り囲まれていた。さらに貞世は九州三人衆と呼ばれた島津氏久・大友親世・少弐冬資にも参戦を命じ、菊池氏の殲滅を図った。しかしここで不可解なことが起こる。当初消極的な態度を見せた少弐冬資が島津氏久に説得されて参陣すると、貞世は冬資を殺害する挙に出た(水島の変)。氏久は怒り、以後反貞世に態度を転じた。このような混乱は宮方でも起こっていた。懐良親王は亡き武政の嫡男・菊池武朝と意見が衝突し、征西将軍職を辞した。武朝は後任の良成親王を奉じて肥前に攻め込んだが敗退。肥後の臼間野・大水(玉名郡南関町)でも大敗した。反抗を見せる島津氏を、薩摩の国人に一揆を起こさせ封じた今川貞世は、菊池氏との争いに決着をつけるべく戦力を結集した。永和4年/天授4年(1378年)、中国勢も従え隈本・藤崎に陣を構えた貞世は菊池への兵糧攻めを行った。奇襲に討って出た菊池武朝は詫麻原の戦いに勝利するも焼け石に水。永徳元年/弘和元年(1381年)には菊池城や木野城など菊池氏勢力下の各城が落ち、武朝は南へ逃れた。貞世は軍を進めて河尻・宇土を次々に占領し、明徳2年/元中8年(1391年)には名和氏の八代を攻略した。そして翌年、中央で明徳の和約が成ったことを契機に武朝は降伏し、今川貞世の肥後制圧は完了した。今川貞世は菊池氏の本領を安堵し武朝を肥後国守護代に任命するなど九州勢力の掌握に努めたが、かえってこれは征西府再現を狙っているのではという将軍足利義満の嫌疑を生み、応永2年(1395年)貞世は罷免された。今川貞世が去り渋川満頼が九州探題に就くと、菊池氏はまたも反逆の姿勢を顕わにした。しかし、続く断続的な戦乱の中菊池氏は段々と衰え、代わって詫磨満親が勢力を伸ばした。しかしこれも一時期なもので、南北朝時代に名を馳せた河尻氏とともに応永年間には目立った活躍を見せなくなった。菊池氏は一時的に勢いを取り戻す。菊池兼朝は肥後守護職に任ぜられたものの、阿蘇氏や相良氏の勢力圏にまでは守護の権力を及ぼすことはできず、一国を支配するだけの権力を打ち立てられず、菊池氏の歴代守護を悩ませることになった。永享3年(1431年)菊池持朝の代になると親幕府の態度を表し、筑後・肥後の守護に任じられた。菊池城下は隈本に代わり守護所(隈府)となった。次代の為邦は日朝貿易に乗り出し、また城下に玉祥寺や碧巌寺を建立するなど、その富と徳は褒め称えられた。しかし後半生には筑後守護職を大友氏に奪われて日朝貿易が不可能となり、相良氏の八代進出にも無策のままで終わった。これが菊池氏衰退の始まりとされる。次代菊池重朝は守護職も継承し、公権力を用いた菊池城下の整備を行い、菊池五山や城下町の形成がこの頃行われた。重朝はまた、文化人としての業績も残した。重臣の隈部忠直とともに建立し、招かれた桂庵玄樹が詠んだ漢詩に残される孔子堂。藤崎八旛宮の造営。また連歌の会も多く催した。文明13年(1481年)8月に興行した万句連歌は、後に書写されたものが伝わり、会の参加者を知ることが出来る。それによるとほとんどが肥後北部の者で、菊池氏系の有力庶氏は加わっていない。また、半数は菊池氏の直臣の名が見られ、特に隈部氏からは多くの出席が見られる。この頃、菊池氏勢力下の政務は隈部氏・赤星氏・城氏(藤原性)が家老家として執り行い、かつて「菊池家憲」で定められた合議制は影も形も無かった。重朝が亡くなった明応2年(1493年)、菊池惣領は嫡子能運が継いだが、彼が最後の菊池本家嫡流となった。一方、阿蘇氏は一族分断の危機に晒されていた。阿蘇惟澄は一時北朝にも付いた嫡男・惟村に大宮司を継がせたが、弟の惟武はこれを不服として征西府に訴え出て認められ、貞治6年/正平22年(1367年)大宮司の補任を受けた。この時から阿蘇一族はふたつの系列に分かれて対立を始めた。阿蘇惟村 – 惟郷 – 惟忠は矢部に本拠を置き九州探題や大友氏の支持を得ていたが、阿蘇神社領を配下に置き菊池氏に支援された惟武 – 惟政 – 惟兼を抑えられなかった。応永11年(1404年)には惟郷が攻め入り、同族での合戦となった。この時には幕府が仲裁に入った。その後も争いは続いたが、宝徳3年(1451年)一族長老らの決議により惟兼の子・惟歳を惟忠の養子として両統の一本化を図った。しかし、惟忠は実権を手放さなかったため、文明17年(1485年)惟歳とその子・大宮司惟家は相良氏の助力を受け、一方の惟忠と子・惟憲は守護菊池重朝の支援を取り付けて幕の平(現:上益城郡山都町杉木・山田)で激突した。戦いは惟忠と惟憲側の勝利(幕の平合戦)に終わった。南北朝時代、球磨地方の相良氏は多良木の上相良と人吉の下相良に分かれ、阿蘇氏のような対立を繰り返していた。この膠着状態に決着をつけ当地の統一を成したのは、文安5年(1448年)上相良を滅ぼした相良(永留)長続だった。だがこの実態は庶家による下克上とみなされている。長続は守護・菊池為邦から葦北郡の領有権を獲得し、寛正4年(1463年)には名和顕忠助力の引き換えに、高田郷(現:八代市南部)も領地に加えた。相良氏の援助を受け八代城に戻った名和顕忠は、しかし高田郷を惜しみ、文明8年(1476年)薩摩の牛屎院へ出兵した相良氏の隙を突いて高田郷に攻め込んだ。長続の嫡子相良為続は天草領主を味方に引き込み防いだ。文明14年(1482年)ふたたび顕忠が攻めると、またも天草衆と共同して為続はこれを撥ね返すと、そのまま八代を攻撃し2年後には制圧に成功した。勢いを借りて豊福(現:宇城市、旧松橋町)まで進出した。だが、明応8年(1499年)には菊池能運の助力を得た名和氏に敗退し、松橋・八代を手放して球磨へ引き戻った。天草地方の武士団は、ほぼ島々ごとに群拠した。鎌倉時代前期には、天草下島西北部の菊池氏系とされる地頭職志岐氏、本砥島(下島の中南部)の大蔵氏系とされる天草氏、『蒙古襲来絵詞』にその活躍を記された大矢野島の大矢野氏が知られる。志岐氏が地頭職を得たのは元久2年(1205年)に始まるとされ、当地では新興の勢力であったため、北条氏や探題・一色氏と結ぶなど、その時々の権力者との繋がりを得て勢力維持に努めた。天草氏は、承平天慶の乱で活躍した大蔵春実の末裔とされ、貞永2年(1233年)原田種直の女子・播磨局が本砥島の地頭職を継承したことに始まる。大蔵氏系とされる大矢野氏は、元寇での記録以降、その活動は不明だった。室町中期には、天草地方を舞台とする騒乱が始まる。名和顕忠を挟み展開した菊池氏と相良氏の争いは天草諸武士を巻き入れ、菊池方として活躍した天草上島の栖本氏の記録が残る。またこの頃には天草氏の勢力が強まり、志岐氏や上津浦氏を圧迫した。これは守護・菊池能運の仲裁で一旦鎮まったが、戦国期にはふたたび戦乱を起こすこととなる。日本の戦国時代は明応の政変(1493年)あるいは応仁の乱(1467年)を始期とするが、肥後国では菊池能運が死去した永正元年(1504年)に始まるとされる。阿蘇氏の内部紛争である馬門原の戦い(別名、幕の平合戦 場所:山都町杉木付近)に菊池重朝が介入して破れてから、菊池氏の支配域減少と指導性低下は顕著だった。家督を継いだ重朝の子・能運は直臣の反抗に遭い、文亀元年(1501年)島原に亡命、一族は合議の末宇土為光を守護に据えた。2年後能運は阿蘇氏や相良氏らと連携し、天草氏らの支援も取り付けて隈府奪回に成功したが、戦傷が元で翌年死去した。能運には子がおらず、相続争いが勃発した。その後、阿蘇氏は矢部を拠点に勢力を拡大。隆盛を極めていく。能運の遺言に基づき菊池重安の子政隆が当主となったが、これに反発する一族は、菊池氏に代わって勢力をつけてきた阿蘇氏・大宮司阿蘇惟長(菊池武経)を後継・守護職に推した。永正3年(1506年)、惟長の背後から肥後掌握を画策していた大友氏が兵を率いて直接介入し、菊池城に入った阿蘇惟長は大宮司を弟の惟豊に譲り、菊池武経を名乗り当主の座についた。政隆は逃亡し玉名や島原で抵抗を続けるが3年後に捕縛され、久米安国寺(菊池郡泗水町)で自害した。しかし、惟長改め菊池武経は驕慢で、家臣からの支持を受けられずわずか3年で地位を解かれた。この背景には、黒幕大友親治の意向に添えなかったためとの説や大友氏が菊池家乗っ取りと肥後を支配するために惟長(武経)を使い捨てにするつもりだったとする説がある。菊池惣領には、詫磨氏から菊池武包が擁立されたが、これは形ばかりのものだった。菊池氏正系断絶の際に策略を巡らした大友親治・義鑑らの目的は、菊池家乗っ取りと肥後支配にあった。永正17年(1520年)義鑑の弟大友義武が菊池姓を名乗り家督を継いだ。しかし隈府には入らず、隈本城を本拠とした、彼を輔弼したのは、鹿子木親員・本郷長賢・田島重賢など飽田・詫麻郡の武士だった。特に鹿子木親員は国内の紛争調停に活躍し、また藤崎宮再建の奏請や連歌師との交流など、文人武将としての能力も発揮した。大友氏が目指す肥後支配の一環だった菊池義武は、やがて独自色を強めていった。これは、天文2年(1533年)九州北部を狙う大内義隆が提示した筑後守護職に誘われ出兵したことで明白となり、大友本家当主の兄・義鑑の激怒を買った。義鑑は肥後に攻め入り、義武は島原を経て相良晴広の下へ逃げ込んだ。義鑑は大内氏との和睦に応じた後、天文12年(1543年)には肥後守護職に就き、肥後の大方を支配した。しかし天文19年(1550年)2月に義鑑が二階崩れの変で殺害されると、義武は勢いを取り戻し、かつての重臣や名和氏・相良氏らの協力を取り付けて隈本に戻った。だがこれも、阿蘇氏や城氏を引き入れた義鑑の嫡子・義鎮(宗麟)に攻め込まれ、これに抗し難く島原へ逃亡、再び相良家を頼る。相良晴広は薩摩の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどして、大友義鎮に菊池義武との和を請い続けたが合意には至らず、義武は天文23年(1554年)義鎮の再三の帰還の命に覚悟を決め豊後へと帰還する。しかしその道中で大友勢に取り囲まれ已む無く自害して果てた。ここに肥後武士の雄・菊池氏は滅んだ。大友氏は肥後北部を掌握し、政治の実務は旧菊池家臣団に任せる政策を採った。一旦は平安を見た大友氏による支配は程なくほころびを生じ、肥後は諸勢力による草刈場の様相を呈し始める。永禄2年(1559年)、現在の菊鹿町で、それぞれが国人として独自性を持ち出した旧菊池家臣の権力争いが激化し始めた。赤星親家は合勢川の戦いで隈部親永に敗れると、その子・赤星統家は大友氏を頼り、対抗して隈部氏は肥前の龍造寺隆信に助力を請いた。事態は天正6年(1578年)11月、耳川の戦いでの大友宗麟敗北によって動き出した。龍造寺氏はこれを好機と捉え南下を開始し、2年後には肥後に迫った。筒ヶ嶽城(荒尾市)の小池親伝を下し、さらに次男江上家種を大将とする軍は隈部氏と共同戦線を張り、長坂城(山鹿市)に進め赤星方の星子中務廉正を攻略した。翌年には嫡子・政家を大将に据えて再び軍を進めた。赤星統家は人質を出して降伏し、菊池城を退去した。その後には隈部親永が入り、肥後北部の支配権は大友氏から龍造寺氏へ移った。一方、隈本城を守る城親賢は龍造寺・隈部連合への対抗として、大友氏ではなく薩摩の島津氏と結んだ。国境を接し、永禄5年(1562年)に北原氏の領地回復の為に島津貴久と盟約を結んでいた相良氏であったが、翌年に日向国の伊東氏と結び島津氏の大明神城(大明司塁)を落城させる。それにより両者の関係は悪化し、貴久の後を継いだ島津義久は永禄12年(1569年)菱刈氏の援軍として大口に居した相良勢を追い出した。島津氏はそれ以後、天正6年(1578年)までに薩摩国、大隅国、日向国と立て続けに統一、さらに耳川の戦いで大友氏を破り、北進の足場を固めていた。天正8年(1580年)城氏の求めに応じて島津義久は佐多久政・川上忠智を肥後へ派遣し、隈本城を拠点に大友方につく矢崎城(三角町)の中村惟冬を攻め落とし、さらに合志親為が篭る竹迫城をも攻略した。しかし、これら島津氏の遠征は相良氏の領地である葦北・八代を海路で越えるものであり、この時には本格化するには至らなかった。期せずして肥後の防波堤となった相良氏であったが、九州制覇を目指す島津氏に激しく攻められることとなる。天正8年9月、島津方は新納忠元を将に据えた軍で水俣城を攻撃し、一年の攻防の末に落とすと、相良義陽は葦北七浦割譲を条件に和睦を結んだ。島津氏は、相良氏に阿蘇氏攻略の先鋒を命じ、義陽はかつて盟友の間柄でもあった阿蘇方の甲斐親直(宗運)と響野原の戦いで矛を交えざるを得なくなった。この戦いで義陽は戦死する。龍造寺配下にあった肥前の有馬晴信は、島津氏に通じた。天正12年(1584年)初め、裏切りに龍造寺隆信は懲罰の兵を島原に向け、島津義久はこれを好機と捉えた。3月、大将・島津家久以下の大軍を肥前に進め、龍造寺氏との決戦(沖田畷の戦い)に臨んだ島津方は激戦の末勝利を掴み、肥後の覇権を手中にした。よもや肥後武士は反抗の態度を示さず、9月8日には島津義弘が八代に到着し、12日には隈本城に入った。隈部親泰ら肥後北部の国人らも恭順の意を示す中、唯一大友氏との繋がりを持つ阿蘇氏だけが従わなかった。しかしこれも、阿蘇方の智将甲斐親直が天正13年(1585年)7月3日に没すると島津氏は攻撃を始め、御船の田代快尊・宗傳父子など、阿蘇方勢力下の城を次々を攻め落とし、翌年には阿蘇本拠の矢部を落とし、肥後制圧を完全なものとした。島津氏は鹿児島・種子島に伝来した鉄砲を有力な武器として、九州各地の戦いで圧倒した。島津氏は八代を拠点に、各要所に配下の番衆を置いて肥後支配を始めた。しかし、既に占拠した日向国のように地頭職に家臣を就け、その配下に地域の武士団を納めて軍事組織化するには至らなかった。これは、異なる統治手法を用いようとしたのではなく、尾張国に発した新たな時代の奔流が猶予を与えなかったためである。戦国期は天草にも訪れ、各氏族は争いを繰り返していた。この状況に一石を投じたのは永禄3年(1560年)、栖本氏を攻める上津浦氏を支援した松浦隆信が導入した鉄砲隊の威力だった。天草諸氏はその有効性を認め、導入のためポルトガル宣教師のキリスト教布教を許した。永禄9年(1566年)志岐鎮経は口之津の日本布教長コスメ・デ・トーレスに宣教師派遣を要請した。これに応え、ルイス・デ・アルメイダが志岐に赴いて教会堂が建設され、また 洗礼を鎮経に施しドン・ジョアンの洗礼名を与えた。この教会堂は日本布教の一大拠点となり、永禄11年(1568年)には日本中の宣教師が集まり会議が催され、元亀元年(1570年)にはトーレスの引退とフランシスコ・カブラルへの布教長引継ぎが行われた。志岐氏領地の富岡港(現:苓北町)にはカブラルとともにグネッキ・ソルディ・オルガンティノも上陸した。しかし後に、志岐鎮経は棄教しキリスト教徒迫害に転じる。これは、トーレスの死や後任カブラルとの考えの食い違い、家臣と貿易船員との間に生じたトラブルもあったが、南蛮貿易の本拠地が長崎に移ってしまったことが決定的だった。ルイス・フロイスが著した『日本史(Historia de Iapan)』では、鎮経の評判はすこぶる悪い。志岐氏に代わってキリスト教を受容したのは天草鎮尚(洗礼名ミゲル)だった。元亀2年(1571年、永禄12年とも)アルメイダを招き、嫡男・久種(洗礼名ジョアン)以下家臣らとともに洗礼を受けた。この後数年で下島中南部を起点に天草諸島全域にキリスト教が広まった。島津氏による肥後制圧の際、天草地方もまたその支配下に入ったが、志岐氏・天草氏・上津浦氏・大矢野氏・栖本氏はそれぞれ独自性を維持し、国人として命脈を繋いだ。彼らを指して天草五人衆と呼ばれる。中世後期、日本は経済発達による交易も盛んになり、肥後にも外国まで知られた港湾都市が発達した。高瀬(現:玉名市)は筥崎宮領に属し、菊池川と繁根木川河口に挟まれた交通の要所であった。鎌倉時代には時宗の願行寺などが建立され、明に渡海する前の絶海中津も立ち寄ったという。貞和3年/興国7年(1347年)には菊池武光の弟・武尚が保田木城を築き、以後高瀬氏を称した。高瀬氏は願行寺をはじめとする仏閣への寄進や町の整備などに尽力し、問屋町や職人町の形成に寄与した。日朝貿易も盛んに行われ、後に高瀬川底から発見された中国の青磁類からも、その繁栄ぶりを窺うことができる。菊池能運が宇土為光を討伐した際に高瀬武基が戦死すると保田木城は主不在となり、後の大友氏肥後支配時に自治都市としての性格を強めた。足利直冬を迎えた河尻幸俊が拠点とした河尻もまた、白川と緑川の河口域にある港湾都市として栄えた。永正14年(1517年)訪れた連歌師の宗碩は、「千舟より川やちりはう柳かげ」と河尻の様子を詠んでいる。応永年間に河尻氏の勢力が衰えると、河尻は特定の支配を受けない「公界」としての性格を強めた。天文8年(1539年)菊池方と相良方が利害調整会談の場を河尻で設けたり、上京道中の島津家久一行が通る際に関銭を支払わされたなどは、この「公界」河尻ならではの事例とされる。宣教師アルメイダは永禄7年(1564年)の手紙に、河尻を指して「大なる町」という記述を残している。建武の新政における論功で地頭職を得た名和義高が入り八代城を築いてから、城下町および八代神社の門前町として八代は繁栄した。相良氏領下の時代には、外港の徳淵浦を基点とする貿易で八代は栄えた。相良義滋・晴広は貿易船「市来丸」を建造して主に琉球貿易を行ったが、町衆による中国貿易も盛んであった。これらの都市に代表される交易がもたらしたひとつの結実は、阿蘇氏本拠であった矢部町(現、山都町)の地で発見された。1973年(昭和48年)、県教育委員会は熊本県立矢部高等学校敷地を調査し、建物および庭園跡を発掘した。さらに、黄金の延板、白磁・青磁・染付・三彩・緑釉等の陶磁器などが出土した。これらのほとんどは輸入品であり、この遺跡が阿蘇氏本拠の「浜の館」であったと同定されている。出土品21点は「肥後阿蘇氏浜御所跡出土品」として国の重要文化財に指定されている。日本史において一般に近世とは織田信長の上洛を起点とするが、肥後では豊臣秀吉の九州統一をはじまりとしている。天正15年(1587年)3月、大軍を率いた秀吉が九州に入ると、後は文字通り破竹の勢いで南下した。4月11日には肥後南関、16日には隈本城、19日には八代城、26日には水俣城に至った。5月8日には出水で島津義久を、次いで島津義弘・新納忠元を降伏させると踵を返し、6月2日には隈本へ舞い戻った。すると秀吉は肥後
出典:wikipedia
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