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御注孝経

御注孝経(ぎょちゅうこうきょう)とは、唐の玄宗によって撰述された『孝経』の注釈書。開元10年(722年)に著された開元始注本(初注本)と天宝2年(743年)に改訂して3年後に頒布した天宝重注本の2種類がある。全1巻。『孝経』は、焚書坑儒の煽りを受けて一時所在が不明となり、前漢に入って2種類の系統の本が再発見され、その字体から「古文」・「今文」と呼ばれた。後に「古文」には孔安国の、「今文」には鄭玄による注釈が付けられて広く用いられるようになった。ところが、「古文」・「今文」ともに再発見の経緯から「偽書」であるとする疑惑を抱えており、特に唐代に入ると、どちらを『孝経』の正本と考えるかという認識の違いから、「古文」派と「今文」派に分かれて相手の系統を「偽書」とする攻撃を繰り返した。そこで玄宗は開元7年(719年)に「古文」派の左庶子劉知幾・「今文」派の国子祭酒司馬貞を始めとする両派の儒学者を集めて論争を行わせたものの、決着が付かなかった。そこで、学識に優れた玄宗自らが今までの注釈書に代わる公定の注釈書を作成して事態の収拾を図ろうとしたのである。当時の宰相である宋璟・蘇頲は「今文」派で司馬貞の主張を支持していたことから、玄宗は彼らの意見に従って「今文」を基本としながらも、孔安国・鄭玄・韋昭・王粛らの注釈のうち優れたものを採用し、これら諸説を斟酌しながら注釈を加え、更に先の論争の当事者である劉知幾・司馬貞や諸王の侍読を務める学者らの意見を聞いた上で修正を加えたとされている。劉知幾は晩年、玄宗の不興を買って失脚して開元9年(721年)には死去しているため、その頃にはほぼ完成していたと考えられ、開元10年になって天下に頒布されたと考えられている(古勝隆一説)。玄宗は君主が率先して孝を行うことを天下を安定させ、臣下はそうした主君の振舞いを見習うことを責務として考え、「君徳の涵養」と「主従の分別」を重要視したものとなった。これが同書を「天子の書」と看做すようになった所以である。その後、玄宗は天宝年間になって宰相の李林甫らを集めて再訂を行い、改めて自ら序文を作成した。同書の頒布以後、公式の場での『孝経』講義・解釈は全てこれに従うようになり、既存の注釈は廃れていく事になった。また、天宝の重訂後は開元の始訂本も同様の運命をたどった。だが、同書は注釈部分が全部で約2,800字であり、鄭玄注釈の約2,000字よりは多いものの、孔安国注釈の約8,800字よりは遥かに少なく注釈書として決して十分なものといえなかった。そこで、北宋の真宗の命を受けた邢昺が疏を作成(「十三経注疏本」)し、これを『孝経正義』と称した。日本では、平安時代の貞観2年10月16日(860年11月2日)に、大学博士大春日雄継の働きかけによって、今後『孝経』の注釈には学令において『孝経』の注釈書として定められた孔安国・鄭玄の注を用いずに『御注孝経』を用いる詔が出されている。また、これに先立って同年2月から12月にかけて、大春日雄継によって当時12歳の清和天皇に対して『御注孝経』の講義が行われている。その背景について、幼少の清和天皇が外祖父藤原良房の政治権力によって、異母兄惟喬親王を推す世論に反して擁立されたことに由来する政治基盤の不安定さを克服するために、幼い天皇の君徳の涵養を図るとともに、天皇への忠誠を官人教育を通じて強く認識させる目的によって、藤原良房と大春日雄継が導入を図ったものと考えられている。なお、同詔では漢詩などの文学材料としても用いられていた孔安国の注釈に関しては、天皇及び皇族の教育以外の場では引き続き使用が認められており、この導入が大学寮全体の支持すら得られていなかった政治的なものであったことを裏付けている。その後、大学寮の明経道を世襲した清原氏などでは『御注孝経』が家学のテキストとして用いられてきたが、中国本土では廃れてしまった開元始注本がそのまま用いられて、写本などの形式で残されていた。江戸時代に屋代弘賢が三条西実隆の書写した始注本を元に刊行を行った。明治になって、清の外交官であった楊守敬がこれが中国本土では滅んでしまった開元始注本であることに気付き、刊行本を本国に持ち帰り、黎庶昌が編纂していた『古逸叢書』に所収させたのである。

出典:wikipedia

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