


十五里ヶ原の戦い(じゅうごりがはらのたたかい)は、天正16年(1588年)8月、本庄繁長率いる上杉・武藤連合軍と東禅寺義長・勝正兄弟率いる最上軍との戦である。出羽国庄内地方は大宝寺氏(大宝寺武藤氏)が代々支配していたが、戦国時代には相次ぐ家中の内乱に悩まされていた。またこの地域は庄内平野や酒田湊を抱えており経済的価値が高く、周囲の上杉氏や最上氏、小野寺氏などが獲得を狙っていた。1580年代、急速に領土を拡大していた山形城主最上義光の攻勢がついに庄内にも及ぶようになると、尾浦城主大宝寺義氏(武藤義氏)は父・義増の代からの盟友本庄繁長の支援を受けてこれに対抗した。天正11年(1583年)、義光は武藤氏重臣・東禅寺城主東禅寺義長を利用して義氏を暗殺。天正15年(1587年)11月には家督を継いだ弟の義興をも攻め殺した。庄内を手に入れた義光は、東禅寺氏にこの地の統治を命じた。この時、義興の養子となっていた本庄繁長の子・義勝は実父の下に逃れて捲土重来を誓った。これ以後、大宝寺氏は上杉の完全な影響下に置かれることになる。翌天正16年(1588年)1月、最上家の本家にあたり正室の実家でもある大崎氏の内紛に伊達政宗が武力介入すると(大崎合戦)、義光は政宗を討つべく大崎領に援軍を派遣し、同時に伊達領に出兵して各地を攻略した。義光が政宗との戦に忙殺されているのを好機と見た上杉景勝は、庄内占領のため兵を動かした。8月、上杉景勝は本庄繁長・大宝寺義勝に尾浦城攻撃を命じる。一方の東禅寺兄弟は野戦での迎撃を決め、両者は十五里ヶ原で対峙した。合戦開始当初は両軍互角の状況だったが、次第に数で劣る最上軍が追いつめられていき、東禅寺義長は敵本陣に突撃し戦死。兄戦死の報を受けた勝正もまた単身本陣へ突入し、不意をついて本庄繁長に斬りかかったが逆に繁長と側近達に討ち取られた。勝正の一撃で繁長の兜はこめかみから耳の下まで切り取られたという。この時勝正が手にしていたのが名刀正宗で、本庄繁長の手に渡ったことから本荘(本庄)正宗と言われるようになったという。後に本庄正宗は複数の所有先を経て、最終的に徳川将軍家へ献上され、その第一の家宝とされた。しかし、第2次大戦後に占領軍に没収され、1946年にとある米兵が持ち去って以来行方不明である。また、村上市郷土資料館の所蔵する六十二間星兜がこの時に本庄繁長の着用していた兜とされる。伝承のように切り取られてはいないが、額右側に刀傷がついている。この後、最上軍は朝日山城などで抵抗を続けたが敗れ(朝日山城の戦い)、庄内地方は上杉景勝の版図となる。繁長は余勢を駆ってさらに兵を進めたが、東根で最上勢の猛反撃に遭い撤退した。この戦が起きたのは、天正15年(1587年)12月の豊臣秀吉による奥羽惣無事令の発令後であり、本来この出兵は認められないはずであった。ところが秀吉は大宝寺義勝の庄内復帰を黙認した。さらに、天正18年(1590年)8月23日、上杉氏によって執行された庄内地方での太閤検地に抵抗する藤島一揆が勃発し、翌天正19年(1591年)に一揆煽動の容疑により義勝が改易された後、庄内を与えられたのは上杉景勝であった。この裁定と秀次事件における駒姫の死とが重なって、最上義光は秀吉や上杉氏に対して深い疑念と憎悪の念を抱き、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方する原因となったとする説がある。最上義光が上杉から庄内を奪還するのは、慶長6年(1601年)4月になる。
出典:wikipedia
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