イギリスファシスト連合(イギリスファシスト連盟、英国ファシスト連合、British Union of Fascists、略称:BUF)は、1930年代のイギリスに存在したファシスト政党。元保守党代議士で労働党に転向し大臣も務めていたことのあるオズワルド・モズレー卿が1932年に設立した。BUFは、モズレーの政党「ニュー・パーティー」をはじめ、「イギリスファシスト党」などイギリスで活動していたいくつかのファシスト系小政党からの運動家が集まり連合を組んだ形を取っていた。BUFはナチスに似た党旗を制定した。赤い旗の真ん中に白い円を配し、中に閃光をあしらったデザインは「結束の中の行動」を表した。また党歌は、内容・曲調ともナチス党歌『旗を高く掲げよ』(ホルスト・ヴェッセルの歌)と強い類似性を示す。ラムゼイ・マクドナルド労働党内閣で大臣を務めたモズレーは失業率の上昇に対して取り組んでいた。1930年には基幹産業の国有化を謳う「モズレー・メモランダム」(Mosley Memorandum)という失業対策案を発表するものの賛同を得られず、労働党内での孤立を深め1931年初頭に離党した。辞任直後にモズレー・メモに基づく政策を打ち出したニュー・パーティーを結成して総選挙に出たものの敗北を喫してしまう。この間、ニュー・パーティーは次第にファシズムの影響が濃くなり始めた。モズレーは、1932年1月にイタリアなどのファシズム運動の視察に出て感銘を受けて帰国し、4月に青年運動を残してニュー・パーティーを解党した。夏の間に新しい政治方針の執筆を行ったモズレーは、自らをベニート・ムッソリーニになぞらえ、イタリアのファシスト党を始めとして他国のファシスト運動をモデルに1932年10月に新党・イギリスファシスト連合(BUF)を形成した。彼は党員の制服として、イタリアの黒シャツ隊同様の黒い服を制定したため、街頭の示威行進や抵抗者の排除を行うBUFの私兵部隊(民族防衛隊、National Defence Force) は「黒シャツ」(Blackshirts)の異名を持つことになった。英国ファシズム運動の先駆けであった「イギリスファシスト党」や、アーノルド・リースの「帝国ファシスト連盟」などとは対立したが、これらのファシズム政党から支持者や運動家を奪い、党勢を拡大していった。イギリスファシスト党の有力活動家だったニール・フランシス・ホーキンスもBUFに合流し、やがて党のナンバー2になり党勢の維持に貢献した。BUFは反共主義と保護貿易主義を打ち出し、議会制民主主義を廃する代わり、各産業分野から、それぞれの産業内部において権限や統制を行使する「代表」を選出するシステムを導入することを目指した(これはイタリア・ファシズムにおけるコーポラティズムに類似する)。しかしイタリアと異なり、イギリスのファシストのコーポラティズムは部分的に民主主義を残したもので、貴族院の代わりに産業界・聖職者・植民地などイギリスを構成する集団から選出された幹部たちによる集会を置くこととした。また庶民院は、より意志決定を早くし、より「党派主義的民主制」を減らすよう規模を縮小すべしとされていた。BUFは、イギリスや世界のファシスト運動の中でも整った政策やイデオロギーを持ち、『Tomorrow We Live』『The Coming Corporate State』などといった出版物の中でモズレーにより披露されている。BUFの政策は孤立主義、すなわちイギリスは大英帝国の中の諸国としか交易しないという経済政策に基礎を置いていた。この政策が人々を惹きつけた部分は、イギリス経済を世界経済の大恐慌の変動から分離でき、イギリス内部の工業生産が「…われわれの賃金の3分の1で、1日10時間働く東洋の労働者」「海外からの安い奴隷労働との競争」の影響によって失われることを防げることにあった。これは、当時、欧米資本の出資による大量生産がインドや中国で勃興しようとしていたことを指す。BUFの党員には貴族や軍人の家系から出た者が多く、高名な軍事学者ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーも党員であった。1930年代におけるBUFの公式な政策は反ユダヤ主義ではなかったが、モズレーをはじめとして幹部の中には熱烈な反ユダヤ主義者がおりBUFも反ユダヤ主義を代表する政党とみられていた。BUFは一時、党員数が50,000人に達したと発表した。また新聞王のロザーメア子爵ハロルド・ハームズワース率いるデイリー・メール紙およびデイリー・ミラー紙は初期からBUFを支持し、デイリー・メールは「黒シャツ万歳!」(Hurrah for the Blackshirts!)という大見出しを掲げて見せた。BUFの黒シャツ隊に対する世論は分かれた。いくつかの地域では、黒シャツの統一された服装や彼らの訴える好戦的な愛国主義が党員を集めた。またこれを馬鹿馬鹿しいと考える者も多かった。小説家P・G・ウッドハウスの『ジーヴス』(Jeeves and Wooster)シリーズには、モズレーと黒シャツ隊を皮肉った「アマチュア独裁者」ロデリック・スポード伯爵と黒ショーツ隊という集団が登場する。BUFに対してはユダヤ人、アイルランド人、労働党、イギリス共産党(CPGB)や民主主義者が抵抗し、ときには双方の暴力沙汰も起きた。イースト・ロンドンの労働者地区ではBUFは人気があったが総選挙に立つことはせず、1935年の総選挙では有権者に棄権を訴え、「次回はファシストへ」と訴えた。しかしBUFに次回はなかった。対独戦も終わりファシズムも没落した1945年7月まで次の総選挙は行われず、その時にはBUFは解党した後だった。1930年代半ばに入り、BUFの行動は次第に暴力性を増し、ナチスとの提携ぶりに対する違和感も高まり始めたため、中産階級の支持者は次第に疎外感を抱き始めた。党員数は減り、1934年のロンドンにおける大衆集会(ラリー)ではBUF幹部と共産主義者の暴力による衝突も起きた。こうした宣伝のまずさからデイリー・メール紙はBUFに対する支持から手を引いた。選挙で躍進した経験のないBUFは、主流の政治手法から離れて行き、1934年から1935年にかけては過激な反ユダヤ主義へと進んでいった。この時期、ニュー・パーティー結党以来のモズレーの盟友ロバート・フォーガン(Robert Forgan)も離れていった。1935年末には党員数は8,000人以下に減少していた。BUFはロンドンでユダヤ人の追放を訴える反ユダヤ行進や抗議活動などを展開した。1936年10月4日の日曜日にはユダヤ人の多いロンドンのイースト・エンドで2,000人から3,000人規模の反ユダヤ示威行進を行おうとし、これに抗議するために集まった住民やユダヤ人・社会主義者・共産主義者ら10万人との「ケーブル・ストリートの戦い」(ケーブル街の戦い、Battle of Cable Street)という暴動に発展する。BUFを追い出すために集まった人々は、スペイン内戦のマドリッドの戦いでドロレス・イバルリが叫び反ファシズムのスローガンとなった「奴らを通すな!」(They shall not pass / ¡No pasarán!)を合言葉とし、行進を阻止するためのバリケードを路上に築いて、BUFの黒シャツ隊やBUFの行進を監視・警護するために同行した警官6,000人らに物を投げつけ抵抗した。この抗議運動によって黒シャツ隊はケーブル・ストリートから押し返され、その後の警官と反ファシスト運動家との乱闘で150人が逮捕され双方に175人のけが人が出た。政府もこうした動きに対して関心を持ち、1936年には議会が治安法(Public Order Act of 1936)を通過させ、行進の際に政治運動の制服の着用を禁じたほか、政治的行進の前進にあたっては警察の同意を求めた。1937年1月1日から施行されたこの法律はBUFの運動の壊滅に効果を発揮した。党内では、より普通の政党となって生き残ろうとする動きと、私兵部門を率いるニール・フランシス・ホーキンスのように軍事色を維持しようとする動きが対立し、やがてホーキンスが党の事務総長に就任し主導権を握った。1937年に行われたロンドン・カウンティ・カウンシル(LCC)の選挙ではイースト・ロンドンのベスナル・グリーン、ショーディッチ、ライムハウスの3選挙区に候補を立て4分の1を得票する健闘を見せ、ヨーロッパ情勢の悪化に当たってイギリスの介入を求める声に「まずイギリスの内政を優先せよ」と反論した。第二次世界大戦がついに勃発すると「交渉による平和」を訴えたが、ドイツの侵略がポーランドから北欧へと拡大する中でモズレーの親独的な和平の主張に対する風当たりは日増しに強くなった。戦争が西部戦線にまで拡大した1940年5月23日、戦時緊急法制(1939年国家緊急権(防衛)法)のもとで、ナチスのシンパを拘束する防衛令18B(Defence Regulation 18B)が施行された。BUFは活動を禁じられ、モズレーほか740人ほどのファシズム活動家が逮捕され、第二次世界大戦の間拘束された。戦後、モズレーは政界に復帰しようと何度も試みたが失敗した。例えば戦後間もなくイギリスの極右活動家を集めてネオ・ファシスト組織「ユニオン・ムーブメント」(Union Movement)を結成し、強力なヨーロッパ国家創設を訴え、1960年代には活発に活動したが1970年代には下火になった。
出典:wikipedia
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