伊藤氏(いとうし)は、日本人の姓の一つ。氏族、苗字。伊藤家とする場合もある。藤原南家の流れであり、仁寿8年(852年)に藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称した工藤氏を源流とする。その後、工藤氏の一部子孫が駿河に移住した駿河工藤に対して、東伊豆に移動した工藤氏の子孫が「伊豆工藤」と称し、この「伊豆工藤」が後に「伊藤」となった。また同じく工藤氏からは、工藤行政という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称した。よって二階堂氏も源流を同じくする。尚、伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏、葛巻氏、田頭氏など多くの分派を広げた。またこれとは別に、藤原秀郷流の武士で伊勢国に領地を得て、「伊勢の藤原」を意味する伊藤を名乗った伊藤基景の名字に由来する伊藤氏も存在する。この記述について、工藤氏を源流とするのは伊東氏であり、代表家紋が「庵に木瓜」であることがそれを裏付けている。後に伊東から伊藤へと変えた者が多かったため混同が生じたとみられる。よって、伊藤氏は秀郷流藤原氏を源流として考える方がより自然である。伊藤氏の代表家紋は「藤(上り、下り)」。萩藩の中間の水井武兵衛(後に伊藤直右衛門と改名)の養子である伊藤博文の家。公爵の爵位を授かっていた時代の当主には伊藤博文、伊藤博邦、伊藤博精がいる。慶長8年(1603年)に徳川頼房に仕えた伊藤友玄(いとうともはる)を初代に、水戸藩(水戸徳川家)の重臣であった家。伊藤家は、江戸時代の将棋家元(将棋三家)の一家。三世名人初代伊藤宗看を祖とする。二代大橋宗古の娘婿で在野棋客との将棋で実力を示した初代宗看は宗古の跡を請けて三世名人となり、さらに大橋本家が宗古の孫の代で断絶すると実子の宗銀(後の五代大橋宗桂)を養子に送って大橋本家を存続させるなど家元制度の定着に尽力した。宗看の跡を受けた二代宗印は養子であったが棋才に恵まれ五世名人となる。二代宗印の長男の伊藤印達は六代大橋宗銀との争い将棋で有名であるが夭折し、宗印の跡は三代伊藤宗看が継いだ。三代宗看は父や兄と同様に棋才に恵まれ、将棋技術の向上に務めると共に詰将棋の発展に力を尽くした。三代宗看の『将棋無双』とその弟の初代伊藤看寿の『将棋図巧』は傑作とされている。三代宗看の弟の印寿が大橋本家を継ぎ八代大橋宗桂になるなど、三代伊藤宗看の時代の伊藤家は全盛期を迎えたが、三代宗看の晩年に次期名人の座を期待されていた初代看寿が早世し、三代宗看の死後に跡を継いだ四代伊藤得寿も早世するなどして、伊藤家は衰退した。伊藤家を継いだのは「菓子屋の子胤」といわれた鳥飼忠七であり、五代伊藤宗印と名乗る。さらにその跡を継いだ松田印嘉が六代伊藤宗看を名乗り、十世名人となる。宗看の没後、名人位は空位となり、幕末には御城将棋も中止となるなど伊藤家のみならず将棋界全体が衰退した。明治時代、家元制度廃止後の将棋界の再興に尽力した一人が伊藤家当主の八代伊藤宗印であり、十一世名人を襲位したが、大橋本家の流れを汲む小野五平や大橋分家の流れを汲む大矢東吉と対立するなど、将棋界の分裂状態を解消できないまま没した。宗印の血筋は絶えたとされるが、その門人から小菅剣之助、関根金次郎がでている。伊藤家の墓所は東京本所の本法寺にある。
出典:wikipedia
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