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十勝沖地震

十勝沖地震(とかちおきじしん)は、北海道の十勝地方の沖合を震源として起こる地震。過去に数回発生しているため、一般的に発生年を付して「○○○○年十勝沖地震」と呼んで区別される。北海道十勝沖からロシア連邦のカムチャツカ半島沖にかけて千島海溝が存在しているが、この海溝では太平洋プレートが北アメリカプレートの下に年間数cmの速度で沈み込んでいる。このため両プレートの境界で歪みが発生し、その歪みの開放により発生する逆断層型の海溝型地震である。想定される十勝沖地震のマグニチュード(M)は8前後、発生間隔は約60 - 80年と見られている。これまで M8クラスの地震が1843年、1952年、2003年と繰り返し発生している。400 - 500年程度の間隔で根室沖地震と連動してきた可能性があり、2003年の十勝沖・1973年の根室沖の次の地震が連動した場合の規模はM8.3程度と推定されている(後述)。なお、1968年の地震は震源域が「三陸沖北部」に分類されるため、この周期に含まれない。また、十勝沖では17.5年周期でM7前後のひとまわり小さい海溝型地震や27.3年周期で沈み込むプレート内部で発生するM7-8程度のスラブ内地震(深発地震)も発生する。文書に残る十勝地域の歴史地震は慶長年間の松前藩によるトカチ場所の設置及び、1666年(寛文6年)のビロウ場所の設置以降で、松前藩以前の道東地域に主に居住していたアイヌ人による史料は残されていないとの研究があったが、2005年に髙清水康博による津波に関するアイヌの口碑伝説と記録に関する研究によれば、標高5m海岸からの距離15kmまでの地域に津波が襲った可能性ある話が成り立つアイヌ伝説は、鵡川町のムリエトへの丘伝説やウコト゜イの洞窟伝説、白糠町のキラコタン伝説、釧路市トイトウ(海抜10m海岸線3km)の津波伝説など、少なくとも20の口承伝説について成立し実際の津波被災体験に基く伝説が継承されていた可能性あった。またそれらの伝説が語られた地域は釧路海岸と日高から胆振海岸および内浦湾沿岸に多いなどの地理的分布上の特徴があった。釧路の津波伝説については春採湖の地質研究により少なくとも過去9000年間に20層の津波イベント堆積物の報告がありアイヌの人々が津波を経験していた可能性がある。十勝沖地震は、約500年間隔で根室沖地震と連動すると考えられている(千島海溝連動型地震)。2005年には中央防災会議が「500年間隔地震」と命名し、対策を始めた。調査開始初期には連動間隔は300年から600年とされていたが、精度の高い年代測定を実施した結果、500年間隔ではなく100年から800年程度の非周期的なバラツキがあり、平均発生間隔は400年程度と求められている。500年間隔地震による津波(痕跡)分布を説明できる断層モデルはMw 8.5または8.6、慶長三陸地震津波と500年間隔地震津波が同一であった場合はMw 8.9以上のプレート間地震が想定されている。津波の痕跡は、北海道大学の平川一臣らのグループが北海道東部の太平洋沿岸で発見し、1998年に発表した。また、平川は道南の森町の地層で、500年間隔地震によるものとみられる紀元前後以降3層の津波堆積物を発見した。平川は震源域が十勝・根室沖だけでなく、三陸沖北部の青森沖まで達することがあった可能性を指摘した。2000年2月に釧路市春採湖で行ったボーリング調査では、過去9000年間に20回の津波イベントが記録されていた。13世紀と17世紀の大規模な津波の痕跡が確認されているが、松前藩の入植より以前の文献記録がないため、暦年の特定までは至っていない。直近の連動は17世紀初頭とされている。なお、直近の活動については1635年とする説、1611年のこれまで慶長三陸地震とされてきた地震がこれに該当するという説がある一方、発見された津波痕跡が十勝沖地震のものではなく従来の推定より規模が大きい慶長三陸地震のものであるとする説がある。17世紀の津波堆積物は、豊頃町の湧洞沼付近で海岸線から4.4km、浜中町の霧多布湿原で海岸線から3km以上まで分布しており、その他国後島から下北半島沿岸にかけて当イベントと思われる津波堆積物が発見されている。実際の津波は津波堆積物よりも内陸まで遡上したと考えられている。前回の連動型の活動時期が1611年であるならば、既に400年を経過した状態であるため、モーメントマグニチュード (Mw)8.5を越える地震がいつ発生してもおかしくない時期が来ていると考える研究者もいる。1952年十勝沖地震(Mw8.1)の際に三陸沖北部で発生した1968年十勝沖地震(Mw8.2)の破壊領域の南側での地震活動が活発化していた。従って、十勝沖(1952年十勝沖地震)と三陸沖北部領域(1968年十勝沖地震)が連動して活動をしていた場合、マグニチュード 9 クラスの地震が発生していた可能性があるとする研究がある。地震像(本震および余震の起こり方)が似ている1952年と2003年の地震では、同じ様な前兆現象が発生していた。しかし、前兆現象として発生するとされている『プレスリップ』(前兆滑り)は、2003年の地震では検出できなかった。1952年十勝沖地震の7年ほど前から震源域付近では小さな地震の頻度が低下する現象がおきていた。また2003年十勝沖地震の際も1990年以降同様の現象がおきていたことが研究者より指摘されていた。太平洋戦争後からの記録によると、大地震発生の数年から十数年前に微小地震の回数が減る「第2種地震空白域」の形成が確認されており、この間のすべり欠損により、大きなエネルギーが蓄積されていったと考えられている。1952年と2003年の地震では M8 クラスの本震の発生に先立って、プレートのもぐり込み先を震源とする深発地震が増加していた。1952年十勝沖地震の際は阿寒湖畔では鳴動を伴う群発地震が活発化し、1955年には雌阿寒岳ポンマチネシリ火口で小規模噴火が生じ1960年代半ばまで噴火活動が継続した。また、2003年十勝沖地震の際は直後に樽前山での火山活動が活発化したほか十勝岳、雌阿寒岳、屈斜路カルデラに至る火山フロントでの群発地震活動が活発化した。天保14年3月26日明方(1843年4月25日)。マグニチュードは地震カタログによって異なり、7.5 - 8.0。『國泰寺日鑑』、『釧路郡役所報告』などに記録がある。ロシアでは南千島地震としている。釧路から根室にかけて強く揺れ、厚岸で八幡神社が4-5尺ずれ、地割れがあり、江戸でも有感であった。津波が北海道太平洋側から千島列島に襲来し、厚岸で波高4-5m、番屋やアイヌの家屋が流失し45名の溺死者を記録した。根室や国後島でも溺死者を出した。北海道から東北北部で揺れや津波などの被害があり、28人が死亡、5人が行方不明、287人が重軽傷を負った。また、家屋被害は、全壊815棟、半壊1324棟、一部損壊6395棟、流失91棟、浸水328棟、焼失20棟、非住家被害1621棟であった。このほか、船舶被害451隻を出した。北海道東部の厚岸郡浜中町の中心部霧多布地区では津波により家屋が大多数流出し壊滅した。この時期の流氷及び海氷が津波により押し寄せ、家屋の破壊が拡大した。この地区は8年後の1960年チリ地震津波でも街が壊滅し、死者11名を出す被害を繰り返す事になる。津波は、厚岸湾が最高で6.5m、青森県八戸市で2mなど。津波警報制度発足後、最初の大津波だった。ただ、前日の3月3日が1933年に起こった昭和三陸地震記念日で警報伝達訓練や避難訓練も多数行われ、防災に大変役立った。三陸沖北部地震#1968年を参照。気象庁はこの地震を平成15年(2003年)十勝沖地震と命名した。この地震の震源付近では1952年3月4日にM8.2の十勝沖地震が発生している。防災科学技術研究所が設置した強震観測網によれば広尾町広尾と浦幌町直別で震度6強相当(計測震度6.0〜6.3)の揺れを観測した。北海道から東北地方の太平洋沿岸に津波が襲来し、最高で2m55cm(北海道豊頃町・大津で記録)に達した。この津波で、北海道では豊頃町の十勝川河口でサケ釣りをしていた釣り人の男性2名が津波にさらわれ行方不明となり、うち1名の遺体が2005年4月に発見された。また北海道(十勝川など)では、津波が川を10km以上も逆流する現象も発生した。津波による死者・行方不明者の他には今回の地震による犠牲者はいない。なお、地震発生前日の朝から釣りに行ったまま28日夜になっても帰宅してこなかった帯広市の男性についても捜索対象となったが、後に無事に帰宅していたことが判明した。男性は29日に自分が捜索の対象になっているのをラジオで知り、出掛けていた知床半島から同日午後8時半に帰宅したという。この地震で政府は地震が発生した当日に官邸内に対策室を設置し、また北海道庁は緊急消防援助隊及び陸上自衛隊第5師団に災害派遣を要請するなどして対応した。北海道東部(道東)の各地方都市を結ぶ鉄道・道路・橋梁が各地で多数破損したため、一時道東地方の交通は全面ストップし、その後、主要道路の通行止め解除には数日、完全な復旧には数か月を要した。また町村道のような末端の生活道路の補修には数年を要した。鉄道に関しては、根室本線直別駅構内を走行中の特急まりも(8両編成)の先頭から2両目の車両が脱線し、乗客39名のうち1名が軽傷を負った、また、同本線の路盤・橋梁・信号施設、駅舎なども破損などの被害が生じ、ダイヤが正常に戻ったのは翌月8日に入ってからであった。また港湾施設の被害は大きく、釧路港などでは液状化現象が多数発生した。釧路空港は管制塔の天井部分が壊れるなどして管制業務が出来なくなったため閉鎖された。ライフラインでは、厚真町の苫東厚真火力発電所4号機(出力70万kw)が地震により自動停止して発電や送電設備に影響が出、日高・十勝地方を中心に、釧路市と周辺6町の約2万4300世帯などが停電した。また、地震直後及び2日後に苫小牧市にある出光興産北海道製油所で2基の石油タンクの火災があった。これは、震源からやってきて苫小牧市周辺の堆積平野で増幅された長周期地震動の周期と、石油タンクの固有周期が一致し、石油タンクの内容物が共振するスロッシングと呼ばれる現象が発生し、浮き蓋の上に溢れ出した重油やナフサが浮き蓋と側壁の接触との摩擦で発生した火花に触れて引火することによって引き起こされた。地震後、このような巨大地震によってもたらされる長周期地震動による大規模構造物の被害が注目された。1952年地震の余震域の最近の地震を観測するため、2002年7月20日から2002年9月20日および2003年8月7日から2003年9月21日まで自己浮上式の海底地震計による観測が行われていた。また、本震発生の4日後の2003年10月1日から2003年11月20日にも大学、気象庁、海洋研究開発機構らの共同調査班による観測が行われた。震源域に直接設置された海底地震計により、震源から離れた陸上観測点のデータを利用した気象庁一元化データには現れていない微小地震も多く観測された。しかし、柔らかな海底の堆積層上に置かれた地震計であるためマグニチュードの決定精度には欠ける。一方、直前に微小な群発地震が発生するなど約1カ月前から前兆的な微小破壊を暗示させるデータが得られた。また、本震の直前のグーテンベルグ・リヒターの式、の係数"b"値の最尤推定値は0.82であり、一般の地震に比較して小さい値であった。(なお、一般の地震の場合の"b"値は0.6から1.1の範囲にあり、多くの場合1.0に近い。)つまり、震源域全体の地震活動は比較的静穏であった。2003年の地震の震源の近傍で発生した地震で、西北西-東南東方向に圧力軸を持つ逆断層型。2003年の地震で余震があまり発生していなかった場所が今回の震源となった。

出典:wikipedia

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