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ナインティナイン

ナインティナイン(NINETY-NINE)は、日本のお笑いコンビ。1990年結成。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(東京本社)所属。略称は「ナイナイ」「99」「NN」。大阪府立茨木西高等学校サッカー部の先輩後輩として出会う。岡村(当時高1)は矢部の兄・美幸(当時高2)とサッカー部の先輩後輩で面識があり、自宅へ招かれたところに矢部(当時中3)がいたのが初対面となる。後に矢部が同じ高校のサッカー部に所属し、練習中に矢部から岡村に「岡村さん、『夕やけニャンニャン』って見てはります? 僕あれ観てるとドキドキするんですよ。」と話しかけたのが初めての会話。1990年、矢部が大学受験に失敗したことに伴い、当時吉本興業に先にお笑い芸人として同社に所属していた兄・美幸の薦めから、矢部は当時立命館大学夜間部の学生だった岡村を誘いNSCに9期生(同期はほっしゃん。、宮川大輔など)として入所。矢部が提出するはずだったNSCへの願書を忘れており、お笑いになるからにはどんなものなのかという理由で劇場に足を運び見学しにいった日がたまたまオーディションの2次審査の日で、会場で最後まで粘り頼み込み合格となった。コンビ結成当時は岡村がツッコミ、矢部がボケを担当していた、しかし当時のNSC講師で、漫才作家の本多正識に「(ボケとツッコミが)逆やろ」と言われたことにより役割を交替している。同年、2人は授業料未納(ちなみに雨上がり決死隊の宮迫博之の入れ知恵である)により吉本の社員に「お前ら消したろか」と言われるなどして除籍処分となり、NSCを中退。そんな中、吉本興業が運営している心斎橋筋2丁目劇場の支配人から声をかけてもらい、吉本興業所属の芸人として劇場に出演。1991年、吉本の若手コンビ6組で構成されるユニット「吉本印天然素材」に加わり東京進出。1992年には第13回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞し、頭角を現す。程なくして、当時人気番組であった『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ系)の芸能人大会にコンビで出演した頃から人気・知名度が急上昇する。1994年に「天素」から脱退。理由としては、岡村曰く「ミーハーな女性ファンの多さに危機感を持った」とのこと。その後、本格的に活動拠点を東京に置く。東京本格進出1年目の1994年には放送時間こそばらばらなものの、『ナインティナインのオールナイトニッポン』『ぐるぐるナインティナイン』『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』と関東放送番組3つのレギュラーになり、1995年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のレギュラー、1996年に『めちゃ²イケてるッ!』が放送開始。このうち、『ナイナイのオールナイト』『ぐるナイ』『めちゃイケ』の3番組については以後15年以上続くロングランの番組となっている。1999年にはゴロ合わせで「ナイナイの年」と銘打ち、映画出演や多数のライブイベントなどを精力的にこなした。2004年、SMAPの中居正広と共に『FNS27時間テレビ めちゃオキてるッ! 楽しくなければテレビじゃないじゃ~ん!!』の総合司会を務めた。岡村はこの番組の企画としてボクシングに挑戦。本番にて具志堅用高と対戦した。2010年、岡村が7月15日から体調不良を理由に休養に入ることを発表。休養期間中のコンビ活動は休止となり、レギュラー番組には矢部が単独で出演していた。岡村は約5ヶ月後の11月27日放送(24日収録)の「めちゃ²イケてるッ!」にて復帰。以降はその他の番組にも順次復帰を果たしている。2011年、7月23日・7月24日に放送された『FNS27時間テレビ めちゃ²デジッてるッ! 笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!』で、マラソンランナーとなった矢部が語った心境で「5カ月近く休んでた相方がスタジオで大丈夫か、という心配もあった」と告白。前年の岡村の病気休養について「一生戻ってこれない覚悟もしてた。そもそも僕がこの世界に誘ったんで、こうなったのも僕のせいやって…。」と自らを責めたことを明かし、「復帰後は高校のサッカー部時代に戻った感じ。岡村の表情とか優しさとか…。」と語った相方の姿に岡村は生放送中に号泣。一緒に司会を務めたSMAPの中居正広に「岡村君、やべっちを迎えに行ったら?」と誘われた後、「テレビで泣いたらさんまさんに怒られる」と言いつつそのまま矢部を迎えに行き、並走。番組終了間際の20時50分、2人一緒にゴールした。2013年3月27日、矢部が予てから交際していた元TBSアナウンサーでフリーアナウンサーの青木裕子と入籍。2015年、『FNS27時間テレビ』(フジテレビ系列)の総合司会を中居正広と共に務めた。岡村によると、コンビ名の由来はブレイクダンスの技の名前である「ナインティナイン」から。「NSCの9期生2人だから」という説は、後付けとしている。初期は舞台を中心にコントや漫才を行っていた。岡村の全身を使ったダイナミックなボケと、矢部の「〜じゃないスか」などの冷静な「敬語ツッコミ」が特徴的。岡村が「身長はひゃく○○じゅっ○○センチです」とゴマかす「チビネタ」等も多かった。大阪から東京に活動の場を移してからはテレビのバラエティ番組をメインに活動している。岡村が常識的なことをあえて知らないフリをしたり勘違いしたまま暴走し、それを矢部が軽く突っ込みながらも岡村を泳がす「勘違いボケ」などを得意としている。漫才のネタを考えるのは岡村の担当で、仕切りや司会などは矢部が担当している。仕事の比率で言えば岡村の方の仕事量の負担が多く、ネタを考える岡村の横で矢部が、新聞や週刊誌を読んで休んでいることでケンカになることが多かった。矢部は岡村が苦手としている仕切りや司会の仕事を矢部が練習もせずに見事にこなすこと、岡村のまじめにネタを考え、笑いに真剣に取り組んでいる部分、お互いに長所、短所をカバーしてコンビのバランスをとっている。大学生だった当時は国家公務員を目指していた岡村だったが、それは「安定した職についてほしい」という父・治雄の勧めによるものであった。矢部の誘いをきっかけに「俺は親父の敷いたレールの上を歩いていただけやった」(岡村談)と思い直し、お笑いへの方向転換を決意したという。この時岡村の父は「隆史をヤクザの世界に誘いおって、矢部を絶対に許さへん!」と大激怒し、その後矢部が岡村の家に遊びに行っても口を全く聞いてくれなかった。岡村が休養したのをきっかけに、矢部は岡村の父から「矢部さん、本当に隆史を見捨てんといて下さい」と言われ、2人はメールでやり取りをする仲になったことを元マネージャとの対談で語っている。ナインティナイン担当の歴代マネージャーはあだ名を付けられるのが恒例になっている。命名は何故かよゐこの有野晋哉。特にキャラクターが特徴的な人物は『ナインティナインのオールナイトニッポン』で面白いエピソードとして語られてしまうため、リスナーにもネタにされることが多い。歴代マネージャーのあだ名には、河内マン(河内)・坪倉大臣(ツボクレンジャー、坪倉)・磯塚センターフライ(磯塚)・イトックス(伊藤)・なかなかじま(中島)・お茶子さん(中村)・満喫太郎(織田)・サトスター(佐藤)・居眠り姫(古瀬)・アジアンビューティー(土橋)・大森二等兵(大森)・ジム大谷(大谷)・なうかど(今門)・新車車谷(車谷)などがある。新しいマネージャーが付いた際に、大阪時代のマネージャーが矢部のファンに手を出して吉本興業をクビになったことがオールナイトニッポンで必ず語られる。ナインティナインが今後どのような活動をしてゆくのか、壁にぶち当たったときなどに2人だけで会議がおこなわれている。テレビやラジオ番組で会議がおこなわれる場合もあるが、それ以外に他人に知られたくない議題は主にメールでおこなうことになっている。年齢と共に仕事への向き合い方での修正や活躍のしかた、コンビでの活動などが話し合われる。岡村、矢部共々愛車がビートたけしによって破壊されており、岡村はアルファロメオ・147GTAを『2008年の27時間テレビ』にて、明石家さんまの愛車(メルセデス・ベンツ・Gクラス)とともに外装をペンキだらけにされ(また、2011年2月26日放送の『めちゃ²イケてるッ!』で、岡村の車はこのせいでまったく動かなくなり、廃車を余儀なくされたことも明かした)、矢部はメルセデス・ベンツ・E63AMGステーションワゴンのドアミラーを2011年2月26日放送の『めちゃ²イケてるッ!』で破壊された。2015年3月現在、テレビ番組では『ぐるぐるナインティナイン』(21年、日本テレビ系)」、『めちゃ²イケてるッ!』(20年フジテレビ系)」と、2本の長寿番組のレギュラーを持つ。毎年9月9日を「ナインティナインの日」と位置付け、2人の地元である大阪で毎年同日に『ナイナイライブ』と題し2005年まで開催されていた。詳細は『ナイナイライブ』を参照。

出典:wikipedia

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