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明光丸

明光丸(めいこうまる)は、江戸時代末期(幕末)に紀州藩が所有していたスクリュー推進蒸気船。文久元年(1861年)、イギリスで建造されバハマ号と命名された。元治元年(1864年)10月、イギリス商人トーマス・グラバーより紀州藩が155,000ドルで購入し、明光丸と改名した。慶応3年4月23日(1867年5月26日)午後11時頃、明光丸と伊予大洲藩所有のいろは丸が鞆沖の六島付近で衝突した。当時、紀州藩は長崎で新たに軍艦を購入する予定であったが問題が起こったため、その解決のために明光丸を長崎へ向かわせていた。翌24日(27日)午前6時頃、鞆港に入港して船長の高柳致知が坂本龍馬と交渉を行ったが決裂し、27日(30日)に明光丸は長崎へ向けて出航した。その後、紀州藩は薩摩藩五代友厚に仲介を依頼し、紀州藩が賠償金として7万両を支払うことで和解した。第二次長州戦争では慶応2年2月から3月にかけて幕府艦隊の一翼として兵庫津から広島への兵員や物資の輸送に多用された。鳥羽・伏見の戦いの後、敗北した会津藩兵等の敗兵が紀州藩領に逃げ込んだが、これを江戸や三河へ運ぶために明光丸が使用された。その後も紀州藩の御用あるいは貨客船として使用され、明治2年には紀ノ国屋萬蔵らに貸し出され神戸横浜間を連絡していた6隻の蒸気船(紀萬船)のひとつとして運用され、明治3年には紀伊国屋萬蔵と菱屋宇兵衛に払い下げ(売却)られた。紀萬船は日本国郵便蒸気会社に統合されたためふたたび国策会社の所有となり、のち三菱会社の所有となった。明治7年の台湾出兵のさいに徴用され一時国有化されている。

出典:wikipedia

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