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1872年アメリカ合衆国大統領選挙

1872年アメリカ合衆国大統領選挙(1872ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1872)は、共和党の内部分裂にも拘わらず、現職の大統領で急進派共和党指導者ユリシーズ・グラントがマサチューセッツ州選出のアメリカ合衆国上院議員ヘンリー・ウィルソンと共に容易に2期目に選ばれた。共和党の内部分裂は対抗馬のホレス・グリーリーに多くの進歩的共和党員が流れる結果になった。1872年11月29日、一般投票は終わっていたがまだ選挙人投票が終わっていない時に、グリーリーが死んだ。その結果、グリーリーに投票するはずであった選挙人は、4人の大統領候補および8人の副大統領候補に投票することになった。グリーリー自身も死後の選挙人票3票を得たが、これらの票はアメリカ合衆国議会が認めなかった。共和党の指名集会では752人の代議員が全会一致でグラント大統領の2期目の指名を決めた。しかし、現職副大統領のコルファクスは322票を獲得したものの、ウィルソン上院議員が400票を集め、再指名はならなかった。共和党の功績によってうたわれた綱領共和党反体制派の影響力有る集団が党を離れ、進歩的共和党を結党した。この党の唯一の全国党員集会はシンシナティで開催され、「ニューヨーク・トリビューン」の編集者ホレス・グリーリーが、6回目の投票でチャールズ・フランシス・アダムズを破り、大統領候補者に指名された。ミズーリ州知事ベンジャミン・グラッツ・ブラウンが2回目の投票で副大統領候補に指名された。進歩的共和党の綱領は、南北戦争とレコンストラクションの憎しみを終わらせ(第2章と第3章)、汚職を防止するために公務員改革を要求し(第5章)、また関税問題を防ぐこと(第6章)だった。民主党もグリーリーとブラウンの組み合わせを指名した。グリーリーは724人の代議員のうち686票を獲得し、ブラウンも713票を得た。進歩的共和党の綱領を受け入れることは、民主党が新機軸を受け入れ、1868年の反レコンストラクション綱領を拒否したことを意味した。党員は前方を見据え、南北戦争を再度起こさないようにすれば勝てると認識した。また、グリーリー以外の候補者を指名すれば、反グラント票を分けてしまうだけだと認識した。しかし、グリーリーは長い間民主党を最も挑戦的に攻撃する者という評判があり、その原理、その指導力およびその活動力が候補者に対する熱意を冷ました。集会は2日間でわずか9時間続いただけであり、歴史上主要政党の党員集会としては最も短いものとなった。ビクトリア・ウッドハルがアメリカ合衆国史上初めての女性大統領候補となり、平等権党の公認で出馬した。その副大統領候補は有名な奴隷制度廃止論者で元奴隷であるフレデリック・ダグラスだった。ウッドハルは就任式の日に大統領になるには不適格とされた。これは憲法や法律もこの点では何も言っていないように、女性であるからではなく、憲法に規定する最低年齢の35歳に1873年9月23日までは達していないことが理由だった。ウッドハルとダグラスは下記「選挙結果」に乗っていない。2人の組み合わせで、一般投票の結果は無視できるほど少なく、選挙人票はゼロであった。グラント陣営とその急進的支持者は広く政治腐敗を告発し、進歩的共和党は公務員改革と南部からの連邦軍撤退を含みレコンストラクション過程の終結を要求した。進歩的共和党も民主党もその候補者のグリーリーについては失望した。笑い話に何故愚か者と入れ替えるだけのために信用のできない人間を出すのかとといわれた。政治的な経験のほとんどないまずい選挙運動員と共に、グリーリーの新聞編集者としての経歴は、その対抗馬にとってその長い風変わりな公職履歴を攻撃材料にさせた。グラントは南北戦争の勝利の記憶が残ってもおり、難攻不落であった。さらに、グリーリーの相棒ブラウンが飲酒癖のために幾つかの失言を犯した。例えば、あるキャンペーン・ピクニックの時に、飲み過ぎてスイカにバターを塗ろうとした。この選挙は、1869年に全国婦人参政権協会とアメリカ婦人参政権協会が設立されてから初めてのものであった。それに対して、婦人参政権に対する反対運動がより拡がっていた。上述のビクトリア・ウッドハルが大統領候補に指名されたことに加えて、何人かの婦人参政権運動家が選挙で投票しようとした。スーザン・B・アンソニーは投票を試みた廉で逮捕され100ドルを科料された。ウッドハル自身は猥褻の廉で選挙日には刑務所にいた。一般投票の結果、グラントは56%対44%という差で容易にグリーリーに対し勝利した。選挙人投票ではグラントが286票を獲得し、グリーリーには66票が行くはずだったが、一般選挙から24日後、選挙人投票の前にあたる1872年11月29日にグリーリーが死に、グリーリーが獲得した6州(テキサス州、ミズーリ州、ケンタッキー州、テネシー州、ジョージア州およびメリーランド州)の選挙人の大半は他の民主党員に投票した。1873年2月12日、選挙人投票の集計を行う上下院合同会議の席で、選挙の結果について下記のような多くの異議が提起された。しかし1876年アメリカ合衆国大統領選挙でなされた異議とは異なり、これらの異議は選挙結果に何の影響も与えなかった。

出典:wikipedia

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