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高屋山上陵

高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ、たかやのやまのうえのみささぎ)は、ホオリ(天津日高彦火火出見尊)の陵。可愛山陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、霧島山山麓(現・鹿児島県霧島市溝辺町麓)を「高屋山上陵」と治定した。現在、宮内庁書陵部が管轄している。杉林の中にある楕円形の円墳で、表面は多数の石に覆われている。面積は約53,000平方メートルあり、周囲には石垣が巡らされている。『日本書紀』に「葬高屋山上陵」(、は返り点)、『古事記』に「御陵者、即在其高千穂山之西也」とあり、『延喜式諸陵式』には「日向高屋山上陵、彦火火出見尊陵、在日向国、無陵戸」とあるが、当時すでに所在が明確に知られていなかったらしい。近世、所在について種々の検討が行なわれ、江戸時代後期の地誌『三国名勝図会』では内之浦(現在の肝付町)がその所在地とされたが、明治元年に三島通庸らが、明治3年に田中頼庸らが、1873年(明治6年)に樺山資雄がそれぞれ調査し、翌1874年(明治7年)7月10日、当時の政府によって溝辺(現在の霧島市)の陵がホオリの陵と定められ整備された。これは、これは古事記の「高千穂山の西」という記述に基づいて「高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に「鷹大明神社」があったことから、「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけたものと考えられている。明治5年5月23日に明治天皇が、1907年(明治40年)10月28日に当時の皇太子(大正天皇)の代理として侍従の有馬純文がそれぞれ参拝した。1920年(大正9年)3月30日には当時の皇太子(昭和天皇)が東郷平八郎を伴って参拝している。1940年代に皇紀2600年記念事業の一つとして東側からの参道が整備された。1962年(昭和37年)5月には当時の皇太子(今上天皇)と皇太子妃(美智子)が参拝した。

出典:wikipedia

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