ヨハン・クライフ()ことヘンドリック・ヨハネス・クライフ( , 1947年4月25日 - 2016年3月24日)は、オランダ出身の元サッカー選手、元サッカー指導者である。選手時代のポジションはフォワード(センターフォワード、ウインガー)、ミッドフィールダー(攻撃的MF)。リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手であり、ペレ(ブラジル)やアルフレッド・ディ・ステファノやディエゴ・マラドーナ(共にアルゼンチン)と並ぶ20世紀を代表する選手と評されている。引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスや、FCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収めた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」、スペイン語で救世主を意味する「エル・サルバドール」など、様々なニックネームを持つ。1947年4月25日、アムステルダムの東部にあるという労働者の住む街で、青果店を営む家庭に産まれた。家庭は貧しく日頃の生活に窮していたが、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられマスコットのような存在になった。少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見えたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した。当時のアヤックスには第二次世界大戦後に駐屯していたアメリカ軍の影響もあって野球部門があり、クライフはキャッチャーを務めていた。有望なキャッチャーであったといいメジャーリーグでスター選手になる夢も持ち合わせていたが、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった。1959年7月8日、12歳の時に父が心臓発作で亡くなると精神的なショックを受けることになった。クライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としているが周囲の人々は立ち直るまでに時間を有したと証言している。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した。男性はクライフとは幼少のころから交流があり精神的な安定をもたらすことになった。この時期、プロテスタント系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが勉学には不熱心であり、2年時に中退しスポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた。15歳でユースチームに昇格したが当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた。一方、持ち前の突破力を生かしセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした。こうした経緯からトップチームの監督を務めていたはクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した。16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められクライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある。同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たすと試合は1-3で敗れたものの初得点を決め、11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された。これはクライフの素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している。ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ。1965年10月24日に行われた戦でとの交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かすことのできない選手となっていた。また若い頃は、クライフより1歳上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが、クライフは1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノのファンであり、ベストに例えられることを嫌っていた。才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したベストではなく、ディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた。国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回 (1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73)、KNVBカップ優勝4回 (1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72)。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。UEFAチャンピオンズカップには1966-67シーズンに初出場を果たし2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが、濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した。敵地での第2戦を前に相手のシャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた。続くデュクラ・プラハ戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃したが、「霧の試合()」と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった。1967-68シーズンには1回戦でスペインのレアル・マドリードに敗退。1968-69シーズンには準々決勝でポルトガルのSLベンフィカ、準決勝でチェコスロバキアのスパルタク・トルナヴァを下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアのACミランに1-4で敗れた。1970-71シーズンには決勝でギリシャのパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)、3位のジョージ・ベスト(56ポイント)を抑えて初受賞を果たした。1971-72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人のシュテファン・コヴァチが監督に就任した。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している。準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した。この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し2試合合計4-1のスコアで初優勝した。1972-73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーを擁する西ドイツのバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、3位のゲルト・ミュラー(44ポイント)を抑えて2回目の受賞を果たした。一方で元モデルの妻や、宝飾商を営んでいた妻の父(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督であるを招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た。当時のスペインサッカー連盟の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった。バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され、両クラブ間で合意に達したが、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られたことで移籍は消滅し、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった。アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化。この移籍を巡って会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し、サポーターからも批判を受けるようになったが、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった。1973年夏、600万ギルダー(当時の金額で約200万ドル、日本円で約5億7000万円)という金額でスペインのFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった。移籍が成立したものの手続きが遅れたためリーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した。同年12月22日に行われたアトレティコ・マドリード戦ではアクロバチックな得点を決める活躍を見せたが、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた。1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5-0と歴史的勝利に貢献し、同年4月17日、敵地でのスポルティング・デ・ヒホン戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した。当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあったが、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「救世主」("El Salvador"、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた。1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙したこともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーとパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された。1975-76シーズンには西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが監督に就任したがクライフとの確執が続き、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した。翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した。また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974-75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975-76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976-77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている。また、強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた。バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3-1で下し優勝を果たしたものの、国際大会ではUEFAカップ1977-78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した。1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した。同年8月30日にアメリカ合衆国のニューヨーク・コスモスに招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか、イングランドのチェルシーFCからオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた。同年11月7日、アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで、クライフの引退試合が開催された。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、パウル・ブライトナーとカール=ハインツ・ルンメニゲが揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した。クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、空港や宿泊したホテルでは敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している。引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる。一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定しているが、引退から数か月後には現役復帰を決意した。クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった。 同クラブのオーナーを務めるは、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し、恩師のミケルスが監督を務めると契約した。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った。1979年5月19日、戦でデビューすると前半10分のうちに2得点をあげ後半には3点目の得点をアシストし3-0と勝利した。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・シュルビア、、らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でに敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた。1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするに移籍した。ディプロマッツは1979年秋にマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが、当初獲得を目指したイングランド代表のケビン・キーガンとの交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった。同年3月29日、戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対しディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督のをはじめ何人かの選手から反発を招いた。また、人工芝の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた。同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し日本、香港、インドネシアを転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた。クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた。これに対しオランダサッカー協会 (KNVB) はNASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われたFCトゥウェンテ戦をスタンドで観戦した。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督のレオ・ベーンハッカーの隣で直接指揮を執った。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した。1981年、クライフはオランダのDS'79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加。イングランドのチェルシーFC、ベルギーのシャルルロワSC、オランダのMVVマーストリヒトの3つの親善試合に出場した。当時、クライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、アーセナルFC、レスター・シティFCが獲得に乗り出した。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった。同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたが、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになったが、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた。クライフは3月2日に行われた戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した。同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「」に参加した。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場したが、鼠蹊部の負傷のためにコンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた。同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ。7月1日に行われた戦でデビューしたが、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった。クライフはレバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て、同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた。しかし同年12月6日に行われたHFCハールレム戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた。当時のアヤックスはマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトやジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの多くの結果を残すことが出来ずにいた。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールやPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした。2年目の1982-83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場し、1回戦でスコットランドのセルティックFCと対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった。1982年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦では印象的なトリックプレーを見せた。試合中にペナルティーキックを獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできたへと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった。リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持。5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった。一方、1983年に入るとクラブ会長のがクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦のNECナイメヘン戦の終了後に退団を表明し、5月14日に行われたリーグ戦最終節のフォルトゥナ・シッタート戦がアヤックスでの最後の試合出場となった。1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した。フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなったが、監督のを尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った。また、フェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した。同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫したが、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復。カップ戦決勝でフォルトゥナ・シッタートを下すと、リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5-0と勝利し1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたPECズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた。クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった。クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または選手兼任監督としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した。オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選のハンガリー戦でオランダ代表デビュー。同年6月に行われた1966 FIFAワールドカップでブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた。しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、主審に抗議をした際に退場処分を受けた。主審の「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下した。1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアやポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった。翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のを監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた。1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた。2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0、東ドイツを2-0で下し第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートでゴールに決め1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした。決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。西ドイツは開幕前にイギリスのブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていたが、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった。試合は開始2分にクライフのドリブル突破からPKを獲得し、これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーとゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられるが、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け、国王への謁見を許されたが、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという。その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ」と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム」「我々に未来のサッカーを啓示した」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きが就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加。予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。1976年にユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した。チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のに抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった。同年9月から始まったにも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年にアルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった。クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった。ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため」など様々な憶測が囁かれた。クライフはこれまでと発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていたが、2008年4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした。オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点。引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという。クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプやアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツのをファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、会長との確執もありクラブを退団した。1988年5月4日、FCバルセロナの監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長のホセ・ルイス・ヌニェスの存在があった。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体はルイス・アラゴネス監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた。ヌニェスには、自らの政権維持のためにソシオと呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった。クライフは「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが、自らのスタイルを押し通すとUEFAカップウィナーズカップ 1988-89でイタリアのUCサンプドリアを下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた。1989-90シーズン、デンマークのミカエル・ラウドルップ、オランダのロナルド・クーマンといったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦ではウーゴ・サンチェスやエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードが5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した。1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションのフェレール、ユーティリティ・プレーヤーのゴイコエチェア、ブルガリア出身のフリスト・ストイチコフらを獲得する一方で下部組織からジョゼップ・グアルディオラを昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ。シーズン最中の1991年2月26日に心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため、復帰するまでの間は代理としてカルロス・レシャックが指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、UEFAチャンピオンズカップ 1991-92では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。ウェンブリー・スタジアムで行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まりバルセロナが1-0で勝利しクラブに初のチャンピオンズカップをもたらした。クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた。在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇 (1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94) 、コパ・デル・レイ優勝1回 (1989-90) 、スーペルコパ優勝3回 (1992, 1993, 1995) 、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回 (1991-92) 、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回 (1988-89) を成し遂げた。1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、1992年に行われたバルセロナオリンピックのバスケットボール競技において、マイケル・ジョーダンらを擁して金メダルを獲得したアメリカ合衆国代表の通称であるドリームチームに準えて「エル・ドリーム・チーム」と称された。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した。1993-94シーズンに新たにブラジルのロマーリオが入団。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコにおいて2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した。リーグ戦の優勝争いは首位に立つデポルティーボ・ラ・コルーニャをバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した。一方、国内リーグでの優勝から4日後にギリシャのアテネでUEFAチャンピオンズリーグ 1993-94決勝が行われ、ファビオ・カペッロの率いるイタリアのACミランと対戦し0-4と大敗した。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている。1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKのアンドニ・スビサレッタがクライフから戦力外と見做され退団。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオがホームシックにかかりシーズン途中に退団し、故国のCRフラメンゴに移籍した。この一連の問題が発端となり、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり、シーズン終了後にストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した。1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団しホセ・マリア・バケーロとグアルディオラ、フェレールの3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し、監督解任を発表した。FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスがレオ・ベーンハッカーを指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった。また、1994年の1994 FIFAワールドカップの大会直前には監督のディック・アドフォカートと選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが、クライフとオランダサッカー協会 (KNVB) との間で合意に達することはなかった。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている。バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的としたを設立し社会貢献に努めた。各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもあるジョアン・ラポルタが2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子であるフランク・ライカールトを監督に推薦。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかったマルコ・ファン・バステンをオランダ代表監督に推薦するなど影響力を行使し続けていた。ホセ・ルイス・ヌニェス会長との確執が原因となりクライフが1996年5月18日にバルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブのソシオ達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した。1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したルイ・ファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した。2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長のを擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立。バサットは公約として「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」事を掲げるも、僅差でガスパールが当選した。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘したセラ・フェレール監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた。2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した。2010年4月にバルセロナの名誉会長に就任した が、同年7月に会長となったサンドロ・ロセイがクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した。2008年2月19日、アヤックスは新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した。2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した。アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に南アフリカ共和国で開催されたFIFAワールドカップの舞台にヴェスレイ・スナイデルをはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え、育成部門の再建は急務であると主張した。同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、フランク・デ・ブール監督の下でアシスタントコーチを務めていたダニー・ブリントをはじめコーチ陣を解雇し、デニス・ベルカンプやヴィム・ヨンクらを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった。同年11月16日、エドガー・ダーヴィッツを含むアヤックスの理事4人が2012年7月からルイ・ファン・ハールをゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された。2009年11月9日、カタルーニャ選抜の監督に就任した。なおカタルーニャ選抜は国際サッカー連盟 (FIFA) や欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである。同年12月22日に行なわれた初采配のアルゼンチンとの親善試合に4-2で勝利、2010年12月28日にはホンジュラスと対戦し4-0で勝利、2011年12月30日にはチュニジアと対戦し0-0で引き分けた。2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日にナイジェリアとの親善試合が最後の采配となった。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した。2012年2月25日、メキシコのCDグアダラハラのアドバイザーに就任したことが発表された。契約期間は3年で、オーナーであり実業家のは「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された。2014年、FCバルセロナではサ
出典:wikipedia
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