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携王 (周)

携王(けいおう)は、周朝の第12代幽王の子。周朝の政治勢力が二分され、東の成周を拠点とする兄弟の平王と対立した。前772年(前771年説とも)、異民族犬戎(けんじゅう)出身の申皇后の冷遇に反感を持った父申侯はその犬戎と共に軍を率いて周都鎬京を攻め、娘婿の幽王を敗死させた。『竹書紀年』によれば、混乱に陥った周の首脳や諸侯は個々の思惑を持ちつつ、携王は兄弟の平王と対決し、それぞれの陣営に分かれて、周朝立て直しの大義名分の下争った。すなわち平王派(先の申侯、晋の文侯、鄭の武公、許の文公、秦の襄公、文公父子、魯の孝公、東虢(とうかく)など有力諸侯多数)は東の洛邑で幽王の元太子・宜臼(ぎきゅう)を平王として即位させ、携王派(西虢の虢公翰を筆頭)は2年前に携という地で王子余を奉り鎬京で即位させた。ゆえに携王と呼ばれる。この東西の分裂劇の背後には虢(かく)という諸侯が密接に絡んでおり、この国は当時の大国晋のように、本家(東虢)と分家(西虢)に領地を分けていて争い、特に西虢は周王の側近(卿士)として宣王の時より王室に深く関わり、東西分裂の遠因を成したらしい。そして各陣営の最前線に位置する形で激しく対立していた前提があったようである。ともすれば東虢公が申侯を招き寄せ、結果幽王と太子伯服は死に、王朝分裂をもたらしたとも考えられる。この歴史的事件の事情は史記よりも竹書紀年に詳しいくだりがあって、近年の研究でその信憑性は史実として高いとされている。ただこの混乱・危険状況のなかでどうやって携王勢力が鎬京で陣営を張ったか、その過程は史書には見えない。史上かつてない同族による政権並立状況となった。そして十数年の政争の下、紀元前759(平王12年)年、多くの有力諸侯が与する平王は圧倒的な戦力で携王勢力を打倒し、このことでそれぞれの虢は力を削がれ、携王も平王に組する晋の文侯に殺された。こうして戦禍で荒廃した鎬京は、以後秦の都になるまでしばらく表舞台から去ることとなり、周の政治の舞台は東の洛邑となった。これを周の東遷といい、それまでを西周、これ以降を東周と呼んで時代を区別している。こうして周は再統一をなしたわけだが、周朝自身の力によるものではなく、配下の諸侯によるものだと内外に露見した格好となった。その平王の孫、14代桓王はその流れを止めようと、かつて幽王を守り死んだ鄭の桓公の孫・荘公に軍事遠征をかけたが撃退されてしまい、皮肉にもかつての懐刀にも見下され、周朝衰微を止められず拍車をかける形となってしまった。周の分裂により、周室の権威失墜が明らかとなったと同時に、西周以来の諸侯で没落する者も続出したが、一方で平王を護衛した新興国の秦のように新たに生まれた諸侯もあった。この事件は、諸侯の淘汰・再編の流れ、また周朝からの諸侯の更なる自立をもたらした、歴史的にも重要な意義をもつ。

出典:wikipedia

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