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卯月 (睦月型駆逐艦)

卯月(うづき)は日本海軍の駆逐艦。睦月型駆逐艦の4番艦である。艦名は旧暦で4月のこと。艦名は初代神風型駆逐艦の「卯月」に続いて2代目。姉妹艦「睦月」の沈没に伴い、睦月型駆逐艦は卯月型駆逐艦と改定された。1923年(大正12年)度計画艦。同年7月19日、第二十五駆逐艦と命名される。1924年(大正13年)1月11日、第25駆逐艦(卯月)は東京石川島造船所で起工。これは浦賀船渠で建造された第24駆逐艦(弥生)と同日の起工である。同年4月24日、艦名を「第二十五号駆逐艦」に改正。1925年(大正14年)10月15日進水。1926年(大正15年)9月14日に竣工。佐世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「第二十五号駆逐艦」は「卯月」と改名された。1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖で戦艦「霧島」を御召艦とする特別大演習観艦式が開催される。11月中旬、昭和天皇は「霧島」に乗艦し、岡山県宇野から横須賀へ移動することになった。第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)は「霧島」の供奉艦に指定される。11月21日「霧島」は横須賀に到着し、天皇は退艦した。1937年(昭和12年)からの支那事変において、「卯月」は中支、南支方面に進出する。また仏印進駐作戦に参加した。当時の第30駆逐隊は睦月型4隻(睦月、如月、弥生、卯月)で編制されていた。続いて1939年(昭和13年)には「如月、弥生、卯月、夕月」という編制となる。1940年(昭和15年)6月、30駆は「睦月、如月、弥生、望月」となり、最終的に「卯月」は第23駆逐隊に編入され、かわりに「三日月」は第三航空戦隊へ転出した。1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時は第1航空艦隊・第2航空戦隊・第23駆逐隊(菊月、夕月、卯月)に所属していた。ただし実際には南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦「鹿島」)指揮下の南洋部隊に編入されており、第四艦隊所属艦(第六水雷戦隊《旗艦夕張》、第十八戦隊《天龍、龍田》、第十九戦隊《沖島》)や第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)、吹雪型駆逐艦「朧」と共に行動した。緒戦はグアム島攻略作戦の船団護衛に従事する。1942年(昭和17年)に入ると、ラバウル方面、ラエとサラモア、ブーゲンビル島、モレスビーの各攻略作戦に参加した。5月4日のツラギ島攻略作戦中(珊瑚海海戦)に23駆僚艦/姉妹艦「菊月」が撃沈された事にともない、「卯月」はMO攻略部隊から除かれ、ナウルとオーシャン攻略部隊に編入された。その攻略作戦も旗艦/敷設艦「沖島」が撃沈されたり、米空母出現の報告もあって、5月15日に中止された。5月21日、第23駆逐隊(卯月、夕月)は佐世保での修理を命ぜられ、トラック泊地を出発した。1942年(昭和17年)5月25日、第23駆逐隊の解隊にともない「夕月」は第29駆逐隊に、「卯月」は第30駆逐隊に編入され、30駆は定数4隻(睦月、弥生、望月、卯月)を回復する。第29駆逐隊・第30駆逐隊は開戦劈頭のウェーク島の戦いにおいて、それぞれ所属艦2隻(疾風、如月)を喪失していた。「卯月」は一旦佐世保港へ帰港して整備したあと、再びソロモン諸島に進出した。6月24日、SN作戦(南洋諸島航空基地建設・強化)の下令にともない兵力部署が改定され、支援部隊(第六戦隊《青葉、衣笠、加古、古鷹》、第十八戦隊《天龍、龍田》)、第一護衛隊(第六水雷戦隊《夕張、卯月》、第29駆逐隊《追風、夕月》)、第二護衛隊(第30駆逐隊《睦月》)という配置が決定する。6月下旬、駆逐艦3隻(卯月、追風、夕月)、第21駆潜隊、第23駆潜隊は、軽巡洋艦「夕張」の指揮下、ガダルカナル島へ進出する輸送船団護衛部隊に加わった。この部隊を第六戦隊が間接的に支援していた。7月上旬、ガダルカナル島攻略作戦に参加した。ラバウルに帰投後、第十八戦隊(天龍、龍田)の指揮下で東部ニューギニア攻略作戦に参加する。7月10日、第六水雷戦隊は解隊され、同隊所属艦はそのまま第二海上護衛隊に編入される。7月22日、ニューギニア島のブナで米軍大型爆撃機のべ100機の反復攻撃を受け輸送船「綾戸山丸」が被弾して擱座、救援のため接近した「卯月」も至近弾をうけ死傷者16名を出し、ラバウルへ避退した。8月6日、護衛部隊(軽巡《龍田》、駆逐艦2隻《卯月、夕月》、駆潜艇2隻)は輸送船3隻(南海丸、幾内丸、乾陽丸)を護衛してラバウルを出撃、ブナへ向かった。8月7日、米軍はガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まる。3隻(龍田、卯月、夕月)は輸送船団の護衛任務を続け、ラバウル停泊中だった軽巡2隻(天龍、夕張)、駆逐艦「夕凪」のみ第八艦隊旗艦「鳥海」や第六戦隊重巡4隻と合流してガダルカナル島へ突入した(第一次ソロモン海戦)。8月9日、ラバウルへ戻る。8月10日、「卯月」は米潜水艦S-44に撃沈された重巡「加古」乗組員救助のために出動、8月11日早朝舟艇3隻と共にシンブリ島へ到着し、同島に上陸していた加古生存者650名を救出した。8月22日、「卯月」はラバウルで糧食や弾薬を搭載し、ガダルカナル島の日本軍守備隊へ輸送するよう下令される。8月25日、ガダルカナル島に到着するが爆撃により損傷。内地へ帰投し、佐世保海軍工廠で12月まで修理を行った。なお姉妹艦「睦月」が第二次ソロモン海戦で、「弥生」がラビ攻略作戦従事中に撃沈された事にともない「卯月」がネームシップとなり、睦月型は『卯月型駆逐艦』と変更された。12月1日、構成艦2隻(睦月、弥生)を喪失した第30駆逐隊は解隊された。修理完成後の12月上旬、空母2隻(龍鳳、冲鷹)が陸軍の九九式双発軽爆撃機をトラック泊地へ輸送する事になった。護衛艦として駆逐艦2隻(卯月、時津風)が指定される。12月12日、先行して横須賀を出撃した2隻(龍鳳、時津風)は米潜水艦「ドラム」に襲撃され、被雷した「龍鳳」は母港へ引き返した。13日、「卯月」は空母「沖鷹」を護衛して横須賀を出発、途中で出迎えにきた駆逐艦2隻(朝雲、時雨)と合流、トラック泊地へ進出する。その後コロンバンガラ島・ムンダ飛行場への輸送作戦に参加した。12月25日午後6時、米潜水艦「シードラゴン」("USS Seadragon, SS-194") から雷撃されて損傷した「南海丸」を護衛中、「卯月」は「南海丸」と衝突する。被雷地点。衝突により「卯月」の左舷には5m程の穴があき、機関部にも浸水、舵故障により航行不能、負傷者6名を出した。ラバウルに停泊していた第31駆逐隊(長波)、第27駆逐隊(有明)、第17駆逐隊(谷風、浦風)は救援のため、急遽出動する。「卯月」は第27駆逐隊「有明」に曳航され「谷風」の護衛下でラバウルへ向かうが、12月26日午前8時に「有明」はB-24爆撃機の空襲により中破した。単独回航された「有明」にかわって「浦風」が「卯月」を曳航し、2隻を「長波」が護衛してラバウルへ帰投した。「南海丸」は当初「長波、浦風」に、続いて「鶴見」と掃海艇21号に護衛されてラバウルへ戻った。翌1943年(昭和18年)1月5日に同地で爆撃を受けさらに損傷。トラックまで後退して工作艦「明石」支援下で応急修理をおこなう。6月24日、駆逐艦2隻(卯月、漣)は「神光丸」に曳航される秋月型駆逐艦1番艦「秋月」を護衛してサイパンを出発、7月5日に長崎に到着した。以後、「卯月」は佐世保で本格修理を実施した。なお3月31日、第30駆逐隊は卯月型3隻(卯月、望月、三日月)という戦力で再編成された。翌日、第30駆逐隊は第三水雷戦隊に編入され、ソロモン諸島方面で行動する。だが「三日月」は7月29日に、「望月」は10月24日に撃沈され、第30駆逐隊は一時的に「卯月」のみとなった(後述)。その後の同隊には、1943年(昭和18年)11月30日附で卯月型最終艦「夕月」、1944年(昭和19年)5月1日附で駆逐艦2隻(秋風、松風)、1944年8月20日附で駆逐艦2隻(皐月、夕凪)等が編入されているが、最前線で活動する第30駆逐隊の構成艦は次々に撃沈されることになった。「卯月」は1943年(昭和18年)10月に佐世保を出港し、トラック泊地へ進出。10月18日、上海~佐世保~トラック泊地という航海を終えた『丁四号輸送部隊第一部隊』(軽巡木曾、多摩)と合流する。ラバウルへ向かうが、21日日付変更直後、「木曾」はニューアイルランド島・セントジョージ岬北東約40浬で爆撃を受け損傷、一時航行不能となった。「木曽」の機関復旧により、「多摩」は先行してラバウルへ向かった。2隻(木曾、卯月)は幾度か空襲をうけたが、ラバウルからかけつけた零式艦上戦闘機や第27駆逐隊「五月雨」の救援を得て、正午前にラバウルへたどりついた。「多摩」は23日に、「木曽」は28日にトラックへ戻った。「卯月」はラバウルに残り、同方面で輸送作戦に従事する。10月23-24日、「卯月」は第30駆逐隊僚艦「望月」とニューブリテン島ジャキノットへ輸送作戦を実施するが、米軍機50機に襲撃され「望月」が撃沈される。揚陸を断念した「卯月」は「望月」生存者を収容し、救援にかけつけた「天霧」と合流してラバウルへ帰投した。続いて10月29-30日、卯月型2隻(卯月、文月)はニューブリテン島西部イボキ・ガロベ輸送任務に従事した。10月31日夜、単艦でブカ島方面へ輸送任務従事中の「卯月」は同島西20浬で米軍艦隊(指揮官アーロン・S・メリル少将:巡洋艦4、駆逐艦8)と遭遇、被弾したが逃げ切る事に成功した。「卯月」は『先ノ敵ハ駆逐艦五以上ヲ伴フ重巡二乃至三隻ナルコト確実ナリ』と報告している。この重巡洋艦の正体はクリーブランド級軽巡洋艦(満載積載量約1万4000トン。日本の高雄型重巡洋艦は満載約1万3000トン)だった。11月2日のブーゲンビル島沖海戦では輸送隊(天霧、夕凪、文月、卯月、水無月)として参加するが、上層部の命令により輸送隊は反転したため(水無月は単艦でブカ島輸送成功)、米軍と直接交戦する事はなかった。本海戦で第三水雷戦隊旗艦「川内」、駆逐艦「初風」が沈没した。11月5日以降、ラバウルは米軍機動部隊艦載機の空襲を受け、栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊が大損害を受ける(ラバウル空襲)。「卯月」に損傷はなかった。11月中旬以降ラバウル方面に投入されていた艦艇は次々に撤収し、11月20日の時点での襲撃部隊(南東方面艦隊直率戦力)は「夕張、天霧、文月、水無月、卯月、夕凪、大波、長波(航行不能)、巻波、秋風、夕霧」という陣容であった。11月21日-22日、第31駆逐隊司令香川清登大佐が率いる第31駆逐隊/警戒隊(大波、巻波)、輸送隊(第11駆逐隊《天霧、夕霧》、第30駆逐隊《卯月》)はブカ島への輸送を実施して成功した。11月24日午後1時30分、第一次輸送作戦と同戦力でラバウルを出撃、3隻(天霧、夕霧、卯月)は2049ブカ到着、揚陸を終えて22時には帰路についた。25日午前零時、アーレイ・バーク大佐率いる米軍第23駆逐部隊(駆逐艦5隻)に迎撃され、駆逐艦3隻(夕雲型駆逐艦《大波、巻波》、初雪型《夕霧》)を撃沈される。0030、「卯月」は避退中に砲撃されたが重大な損傷はなく、「天霧」と合同し0530ラバウルへ到着した。12月前半は月明期で米軍に発見されやすく、この機会に第三水雷戦隊所属艦艇はトラックやパラオに後退して整備することになった。「卯月」は「あけぼの丸」を護衛してパラオに移動(夕凪は途中で分離)。12月8日にパラオ到着以後、整備中に「卯月」機関部に故障の危険性があることが判明。一旦「国洋丸」を護衛してラバウルに移動(途中で内地から来た皐月が合流)。12月16日(着任17日)、第三水雷戦隊司令官は伊集院松治少将から中川浩少将にかわり、日本本土に回航された「夕張」を除く各艦(文月、水無月、卯月)は19日までにラバウルへ戻った。12月19日の第三水雷戦隊は旧式駆逐艦(文月、水無月、皐月、松風、夕凪、卯月、秋風、太刀風)という戦力となる。直後、「卯月」はトラック泊地に回航される。12月26日、駆逐艦2隻(天霧、卯月)はタンカー2隻(日栄丸、旭東丸)を護衛してトラック泊地を出発。29日、パラオから来た夕雲型駆逐艦12番艦「早波」と合流して船団護衛任務をかわり、「卯月」はパラオに到着した(天霧は31日パラオ着)。1944年(昭和19年)1月4日、駆逐艦2隻(卯月、太刀風)はタンカー2隻(富士山丸、神国丸)を護衛してパラオを出発。1月10日トラック泊地着。この頃、前年11月中旬のラバウル空襲で大破、トラック泊地に回航されていた夕雲型駆逐艦4番艦「長波」の内地修理が決まる。1月15日、長良型軽巡洋艦1番艦「長良」は「長波」を曳航してトラックを出発、駆逐艦2隻(卯月、夕凪)は警戒隊として同行する。18日、長波回航隊はサイパンに立ち寄る。1月24日、長波回航部隊(長良、長波、卯月、夕凪)は豊後水道を通過。1月25日、2隻(長良、長波)は呉に到着。2隻(卯月、夕凪)は佐世保へ帰港。佐世保海軍工廠は阿賀野型軽巡洋艦4番艦「酒匂」の建造等や修理整備で多忙だったが、「卯月」の修理を『万難を排して』実施する。2月11日には姉妹艦「皐月」も佐世保に到着、共に修理に従事する。3月以降はサイパンへの船団護衛に従事した。3月上旬、第十一水雷戦隊司令官高間完少将座乗の軽巡洋艦「龍田」以下、護衛艦9艦(軽巡《龍田》、駆逐艦《野分、朝風、夕凪、卯月》、海防艦《平戸》、敷設艇《測天、巨済》、第20号掃海艇)は東松二号船団(加入船舶12隻)を護衛、サイパン・グアム方面への船団護衛任務に就くことになった。3月13日未明、旗艦「龍田」および輸送船「国陽丸」は米潜水艦「サンドラス」 ("USS Sand Lance, SS-381") の雷撃により沈没する(国陽丸沈没3時29分、龍田沈没15時36分)。「卯月」と択捉型海防艦「平戸」は米潜水艦に対し爆雷攻撃を行い、この間に高間司令官は「龍田」から第4駆逐隊「野分」に移乗して旗艦を変更した。パガン島に向かった「高岡丸」を除く船団は3月19日にサイパン島到着、ここでテニアン島行きの2隻(柳河丸、巨濟)、グアム島行きの3隻(玉鉾丸、朝風、第20掃海艇)、エンダービー島行きの2隻(第一眞盛丸、測天)に分離。卯月以下トラック島行きの4隻(卯月、夕凪、対馬丸、あとらんちっく丸)も船団から分離し、20日附で第二海上護衛隊の指揮下に入った。4月上旬、「卯月」は東松三号船団の復航船団に編入される。船団部隊指揮官伊集院松治少将(第一特設船団司令官)の指揮下、護衛艦6隻(卯月、第48号駆潜艇他)、加入船舶4隻を護衛して4月3日サイパン島を出発、損害なく4月10日横須賀に到着した。4月中旬、「卯月」は東松六号船団に加入。船団部隊指揮官松山光治少将(第七護衛船団司令官)の指揮下、護衛艦(帆風〔旗艦〕、卯月、夕凪、三宅、海防艦6号、10号、12号駆潜艇、掃海艇2隻《20号、28号》、敷設艇3隻《猿島、巨濟、由利島》)で加入船舶18隻を護衛する。東松六号船団は4月15日東京湾を出撃。被害なく4月23日朝、サイパンに到着した。その後も「卯月」は各方面への輸送船団を護衛した。6月17日、第17駆逐隊の「浦風」と任務を交代した「卯月」は、6月18-20日の『マリアナ沖海戦』に補給部隊の護衛艦として参加する。6月20日午後、補給部隊は「西方急速避退」の命令を受けて避退を開始。護衛艦(卯月、雪風、夕凪、初霜、響、栂)と油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸、玄洋丸、あづさ丸)という編制で航行中、米軍機動部隊艦載機の空襲を受ける。油槽船2隻(清洋丸、玄洋丸)が被弾炎上。「卯月」は「玄洋丸」に横付けし最後の燃料補給を受けると、玄洋丸乗員を収容する。さらに主砲を発射して同船を自沈処分とした。一方、「清洋丸」は第17駆逐隊の「雪風」に処分された。その後も船団護衛で内地シンガポール間、内地マニラ間を往復した。7月上旬、マリアナ沖海戦に続くサイパンの戦いで、サイパン島の地上戦に巻き込まれた第三水雷戦隊司令部は全滅、第三水雷戦隊司令官中川浩少将も戦死した。そこで日本海軍は第三水雷戦隊の残存艦艇を基幹として、8月20日附で第三十一戦隊を編制する(司令官江戸兵太郎少将)。旗艦予定だった長良型3番艦「名取」が編成直前の8月18日に撃沈されたため、代艦として長良型2番艦「五十鈴」を旗艦にあてた。第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪)も第三十一戦隊に編入されている。各艦・各隊は瀬戸内海で戦隊訓練・対潜訓練を実施した。だが8月25日に船団護衛任務中の「夕凪」は米潜水艦ピクーダ("USS Picuda, SS-382")に撃沈された。9月8日、第八護衛船団司令官佐藤勉少将指揮下のヒ75船団は、護衛艦(空母《神鷹》、第30駆逐隊《夕月、卯月》、海防艦3隻《三宅、満珠、干珠》)、加入船舶(秋津洲、西貢丸、浅間丸、雄鳳丸、良栄丸、日栄丸、万栄丸、あまと丸、東邦丸、せりあ丸)は、シンガポールを目指して日本本土(門司)を出撃。9月12日夕刻に「浅間丸」は台湾基隆市へ向かい、残るヒ75船団は9月13日に高雄市へ到着。9月14日、護衛艦3隻(海防艦18号、水雷艇鵯、第28号掃海艇)と油槽船3隻(富士山丸、黒潮丸、大邦丸)を加えて出港する。9月17日、水上機母艦「秋津洲」、特設巡洋艦「西貢丸」、駆逐隊司令澤村成二大佐指揮下の第30駆逐隊(夕月、卯月)はヒ75船団から分離してフィリピンマニラ港へ向かう。ヒ75船団はシンガポールへ向かった(22日着)。夕刻、駆逐艦「秋風」(第30駆逐隊)が合流する。9月18日午前10時40-50分頃、米潜水艦フラッシャー("USS Flasher, SS-249")の雷撃で「西貢丸」が轟沈。第30駆逐隊(夕月、卯月、秋風)は対潜掃蕩作戦を行い、水上機母艦「秋津洲」はマニラへ先行した。9月19日、第30駆逐隊もマニラ到着。だが同地は既に米軍機動部隊の脅威にさらされていた。9月21日午後、マニラ湾で出撃準備中だった駆逐艦「皐月」(第30駆逐隊所属)が、米軍機動部隊艦載機の攻撃で沈没する。「皐月」沈没の直前、第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風)はマタ27船団を護衛してマニラを離れていた。9月24日、「秋津洲」は退避した先のコロン島(コロン湾)で米空母艦載機の攻撃を受け、給糧艦「伊良湖」等と共に撃沈された。10月30日、空母「隼鷹」、軽巡洋艦「木曾」、第30駆逐隊(夕月、秋風、卯月)という編制で佐世保を出発、ブルネイ・マニラ方面へ向かう。11月3日、「秋風」は米潜水艦ピンタド("USS Pintado, SS-387")の雷撃により撃沈された。隼鷹輸送隊は11月10日にマニラに到着すると「木曾」を分離。12日、レイテ沖海戦から生還した重巡洋艦「利根」・駆逐艦「時雨」を加えて日本へ向かった。途中で米潜水艦に襲撃されるも、各艦とも被害はなかった。マニラに残った「木曾」は直後の空襲で大破、着底沈没している。11月16日、隼鷹輸送隊は内地帰投。航海中の11月15日、第三十一戦隊旗艦「霜月」は米潜水艦カヴァラ("USS Cavalla, SS/SSK/AGSS-244")に雷撃されて沈没、司令部も全滅した。そのため12月1日附で鶴岡信道少将を新司令官として第三十一戦隊司令部を再建した。1944年(昭和19年)12月9日、駆逐艦3隻(卯月、夕月、桐)はマニラを出港しオルモック輸送作戦第9次作戦に参加する。12日にオルモック湾で魚雷艇PT490等と交戦し、「卯月」は沈没した。13日、卯月型の最終艦「夕月」は損傷し、「桐」によって処分される。「卯月、夕月」の沈没をもって睦月型(卯月型)全12隻は全て喪われた。1945年(昭和20年)1月10日、駆逐艦「卯月」は帝国駆逐艦籍より除籍された。全隻を喪失した卯月型は艦艇類別等級別表より削除される。また第30駆逐隊も解隊された。1944年(昭和19年)8月31日の調査によると本艦の兵装は12cm単装砲2門、61cm3連装魚雷発射管1基、25mm3連装機銃2基、同連装2基、同単装6基、単装機銃座2基、八一式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2基、13号電探1基となっている。(『日本駆逐艦物語』p267,p280による)

出典:wikipedia

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