キブロン湾の海戦(キブロンわんのかいせん、、)は七年戦争中の1759年11月20日、サン=ナゼールに近いキブロン湾においてイギリス、フランス両艦隊の間で行われた海戦。エドワード・ホーク提督の率いる23隻の戦列艦からなるイギリス艦隊が、ウベール・ド・コンフラン提督率いる21隻の戦列艦からなるフランス艦隊を捕捉し、激しい戦いの末、そのほとんどを沈め、捕獲し、あるいは座礁させた。イギリス海軍にとって最も輝かしい勝利の一つとされる。1759年、フランスはイングランドとスコットランドに侵攻する計画を立て、ロワール河口付近に軍隊と輸送船を集結させていた。8月のラゴスの海戦の敗北により当初の侵攻計画は不可能となったが、フランス外相ショワズールはまだスコットランドへの侵攻を諦めていなかった。そして、ブレストの艦隊に対して、イギリスの封鎖を突破してロワール河口に移動するよう命令した。11月の最初の週に西の強風が吹き、その後3日の間、ホークの封鎖艦隊はイングランド南岸のトーベイまで避退せざるを得なかった。一方、ブレストのコンフランには西インド諸島から来た小戦隊が加わった。14日、コンフランはホークの不在を衝き、東風を利してブレストを抜け出した。コンフランの脱出は見張りを続けていたロバート・ダフ代将の発見するところとなり、ダフはこれを追跡した。その時ホークもすでにトーベイからの帰路にあり、報せを受けて直ちに追跡に加わった。20日の明け方、ホークはコンフランがまさしくキブロン湾の危険な水域に入ろうとしているところを捕捉した。フランス艦隊は地の利を生かして地元の水先案内人を乗せ、浅瀬の多いキブロン湾内に避退したが、ホークはそのまま敵艦隊を追いこむことに決め、フランス艦に従って湾内に侵入した。それは西からの嵐が募っている状況下で極めて危険かつ大胆なものであった。砲戦は14時頃に開始された。イギリス艦隊の前衛部隊が、湾への入り口であるレ・カルディノー岩("the Les Cardinaux rock")をちょうど回ろうとしていたフランス艦隊の後部を攻撃した。15時30分までに、フランス艦「フォルミダブル」が捕獲され、「シューペルブ」が転覆して多くの犠牲者を出した。イギリス艦隊の大半が追いついた時には、「エロー」はすでに大破し、座礁して旗を下していた。そして「テゼー」もイギリス艦「トーベイ」との戦いに敗れて沈没した。早い夕暮れが訪れると、フランス艦隊の次将ド・ボーフレモンは1隊を率い、イギリス艦隊を危険水域に誘い込む目的を持って「四つ目岩礁」付近から南への脱出を図った。イギリス艦隊は追随せず、湾内に錨泊したが、朝になると「レゾリューション」が座礁していた。一方フランス艦隊の旗艦「ソレイユ・ロワイヤル」はイギリス艦隊に囲まれていることに気づき、捨錨して脱出を図るが、それを追おうとしたイギリス艦「エセックス」ともども座礁してしまい、自ら火を放った。また北側のヴィレーヌ川の河口方向に逃れた7隻はいずれも河口の防材に乗り上げてしまった。ド・ボーフレモンの率いた8隻はロシュフォールに逃げ込んだ。フランス艦隊の戦力は大きく損なわれ、戦争が終わるまで回復することはなかった。アルフレッド・マハンは著書『海上権力史論』("The Influence of Sea Power upon History")の中で「1759年11月20日の海戦は、この戦争におけるトラファルガーであった、そして(中略)イギリス艦隊はもはやフランス植民地に対して、さらにはスペインのそれに対しても、かつてない壮大なスケールで自由に行動することができた。」と語っている。[nn]は砲門数
出典:wikipedia
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