夕月(ゆうづき/ゆふづき)は日本海軍の駆逐艦。一等駆逐艦「夕月」は睦月型駆逐艦の12番艦で同型の最終艦。竣工時の艦名は第34号駆逐艦。太平洋戦争開戦時、睦月型3隻(菊月、卯月、夕月)は第23駆逐隊を編制して第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)に所属していたが、実際には南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)指揮下で第四艦隊麾下各艦と中部太平洋諸島やソロモン諸島で行動した。1942年(昭和17年)5月25日に第23駆逐隊が解隊されると、本艦は第29駆逐隊(追風、朝凪、夕凪、夕月)に所属。外南洋部隊(第八艦隊)の作戦に参加したあと、同年9月より第二海上護衛隊の一隻として船団護衛任務に従事した。1943年(昭和18年)末より第三水雷戦隊麾下の第30駆逐隊に編入。1944年(昭和19年)7月のサイパン島地上戦で第三水雷戦隊司令部全滅すると、第30駆逐隊は第三十一戦隊に編入され、船団・艦艇護衛任務に従事した。同年12月12日、「夕月」は多号作戦従事中に米軍機の空襲を受けて沈没。本艦沈没により睦月型駆逐艦は建造12隻すべてが沈没した。1923年(大正12年)度計画艦。藤永田造船所で建造され、同造船所は睦月型3隻(皐月、文月、夕月)を建造した。1925年(大正14年)11月27日、藤永田造船所で駆逐艦1隻が起工。12月18日、日本海軍は藤永田造船所で建造の駆逐艦を制式に第三十四号駆逐艦と命名。第三十四号駆逐艦は、同日附で一等駆逐艦に類別。同月には第三十四号駆逐艦用機関部関連部品製造の訓令が出される。1926年(大正15年)1月、舞鶴工作部に第三十四号駆逐艦スクリュー用部品製造の訓令が出される(大正15年9月末完成要求)。2月16日、藤永田造船所で第29号駆逐艦(文月)が進水。同造船所で第三十四号駆逐艦(夕月)は建造を続けていたが、9月になると藤永田造船所は海軍に対し「本艦竣工を1927年(大正16年)7月31日に延期したい」と願い出る。日本海軍の書類上では、第三十四号駆逐艦は大正15年11月27日に起工。1927年(昭和2年)1月31日、藤永田造船所は本艦船体に不具合が見つかったため、進水日予定日(2月18日)を3月4日まで延期したいと願い出る。2月15日、日本海軍は峯風型駆逐艦4番艦「島風」艦長穂本繁治中佐を第三十四号駆逐艦艤装員長に任命する。2月21日、藤永田造船所に第三十四号駆逐艦艤装員事務所を設置し事務を開始。3月4日、呉鎮守府司令長官谷口尚真中将が臨席して本艦は進水。7月25日、竣工。穂本繁治中佐は制式に第三十四号駆逐艦長(初代)となる。主な初代幹部は、清水利夫大尉(水雷長。後日、第31駆逐隊司令。ルンガ沖夜戦で乗艦「高波」沈没時に戦死、海軍少将)、宮崎保人大尉(航海長)、朝倉栄松大尉(砲術長)、石塚正俊機関大尉(機関長)。同日附で艤装員事務所を撤去。佐世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附でそれまで艦番号だった駆逐艦に艦名があたえられ、第十九号型駆逐艦は睦月型駆逐艦と改定。本艦も睦月型12番艦「夕月」となった。1927年(昭和2年)7月25日、日本海軍は本艦の竣工と共に第一号型駆逐艦(睦月型)2隻(第三十二号駆逐艦《三日月》、第三十四号駆逐艦《夕月》)により第23駆逐隊を編制した。初代駆逐隊司令は坪井丈左衛門大佐。坪井大佐は、初代司令駆逐艦を第三十二号駆逐艦(三日月)に指定した。8月27日の美保関事件を経て12月1日の編制替により、第二水雷戦隊旗艦は軽巡「夕張」から長良型軽巡洋艦3番艦「名取」に変更。二水戦は、第22駆逐隊、第23駆逐隊(第31号駆逐艦《菊月》、第32号駆逐艦《三日月》、第33号駆逐艦《望月:昭和3年6月30日編入》、第34号駆逐艦《夕月》)、第30駆逐隊(第19号駆逐艦《睦月》、第21号駆逐艦《如月》、第23号駆逐艦《弥生》、第25号駆逐艦《卯月》)で編制。1928年(昭和3年)8月1日附で、第34号駆逐艦は「夕月」と改名される。12月10日、第23駆逐隊司令は坪井大佐から中島直熊中佐に交代。夕月駆逐艦長も境澄信中佐(当時海風型駆逐艦1番艦「海風」艦長)に交代した。12月15日の編制替で、第二水雷戦隊は長良型軽巡5番艦「鬼怒」・第12駆逐隊(東雲、薄雲、白雲、叢雲《翌年5月10日編入》)・第23駆逐隊(菊月、三日月、望月、夕月)で再編。12月18日附で第11駆逐隊(吹雪、白雪)が二水戦に加わった。1929年(昭和4年)11月30日の艦隊再編で、第二水雷戦隊の所属駆逐艦は吹雪型駆逐艦で統一。12月1日、第23駆逐隊司令は中島直熊大佐から柏木英中佐に交代した。1930年(昭和5年)3月9日、夕月駆逐艦長池田久雄中佐は峯風型12番艦「帆風」艦長へ転任。姉妹艦「文月」艦長勝野実少佐が新たな夕月駆逐艦長となる(皐月艦長古本百蔵中佐が文月艦長も兼務)。11月1日、第23駆逐隊司令は柏木英中佐から中圓尾義三中佐に交代した。12月1日より、中圓尾中佐(第23駆逐隊司令)は第30駆逐隊司令の兼務も行うことになった。1931年(昭和6年)1月8日、望月艦長と三日月艦長職を兼務していた岡野慶三郎少佐が天津風型駆逐艦3番艦「浜風」艦長へ転任、勝野実少佐は夕月艦長と望月艦長、佐藤俊美少佐(菊月艦長)は菊月艦長と三日月艦長の兼務を命じられた。4月1日、加瀬三郎少佐(桜艦長・樺艦長・桐艦長兼務)が望月艦長に補職されたことで、勝野実少佐(夕月艦長)は望月艦長との兼務を解かれた。9月6日、加瀬三郎少佐(望月艦長)は知床型給油艦「鶴見」運用長へ転任、勝野実少佐は再び駆逐艦2隻(夕月、望月)艦長を兼務する。12月1日の艦隊再編で、第一艦隊麾下の第一水雷戦隊は軽巡「夕張」と第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)、第23駆逐隊(菊月、三日月、望月、夕月)、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)で編成。同日附で、中圓尾義三中佐は第23駆逐隊・第30駆逐隊司令の兼務を解かれる(後日、トラック島空襲で「愛国丸」沈没時に戦死。海軍少将)。第30駆逐隊司令には原顕三郎中佐、第23駆逐隊司令には鈴木田幸造中佐が、それぞれ任命された。12月1日、勝野実少佐(夕月艦長兼望月艦長)は特務艦「大和」運用長に転じる。中川浩少佐(当時江風艦長)が望月艦長に、森下信衛少佐が夕月駆逐艦長に補職された。1932年(昭和7年)2月以降、第一水雷戦隊は臨時に第三艦隊に所属。同年7月4日夜、船川港を出発以後、本艦は演習において標的曳航艦として参加中、標的と衝突してスクリューを破損、横須賀に回航された。11月1日、夕月駆逐艦長は森下信衛少佐から皇族附武官の伊集院松治少佐(男爵)に交代(森下はレイテ沖海戦時の戦艦「大和」艦長)。11月15日、鈴木田幸造大佐(第23駆逐隊司令および菊月艦長)は川内型軽巡洋艦3番艦「川内」艦長へ転任。阿部弘毅大佐が第23駆逐隊司令に、島崎利雄少佐が菊月艦長となる。12月1日の艦隊再編で、第一水雷戦隊は同編制(夕張、22駆、23駆、30駆)を維持した。1933年(昭和8年)5月20日の艦隊編制においても、第一水雷戦隊は前年の編制(夕張、22駆、23駆、30駆)を維持。1933年(昭和8年)11年15日の艦隊編制替で、第一水雷戦隊旗艦は川内型軽巡洋艦3番艦「川内」に交代、所属駆逐隊も第5駆逐隊(朝風、春風、松風、旗風)、第23駆逐隊(菊月、三日月、望月、夕月)、第29駆逐隊(追風、疾風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)にかわる。1934年(昭和9年)11月1日、伊集院松治少佐(夕月艦長)は吹雪型駆逐艦23番艦「雷」艦長へ転任(伊集院は、昭和18年中盤以降の第三水雷戦隊司令官)。戸村清少佐(望月艦長)は望月艦長と夕月艦長の兼務を命じられた。同年11月15日より、第23駆逐隊は他の艦艇と共に佐世保警備戦隊に所属。同日附で阿部弘毅大佐(第23駆逐隊司令)は海軍大学校教官へ転任、安富芳介中佐が後任の第23駆逐隊司令となる。1935年(昭和10年)10月31日、第23駆逐隊司令は安富芳介中佐から清水他喜雄中佐に交代。また樅型駆逐艦8番艦「栂」艦長脇田喜一郎少佐が夕月駆逐艦長に任命され、戸村清少佐(望月艦長兼夕月艦長)の職務は望月艦長のみとなった(後日、戸村は駆逐艦「霞」がグロウラーに撃破された時の霞艦長。また駆逐艦「電」沈没時の第6駆逐隊司令)。11月15日の艦隊再編で、第23駆逐隊は引き続き佐世保警備戦隊所属。1936年(昭和11年)1月6日、戸村清少佐(望月艦長)が栂艦長へ転任。脇田少佐は夕月艦長に加えて望月艦長を兼務する。5月26日、成冨武光少佐が望月艦長に任命され、脇田少佐の艦長職は「夕月」のみとなった。7月22日、脇田喜一郎少佐は白露型駆逐艦3番艦「村雨」艤装員長へ転任(1月7日より村雨初代艦長。後日、脇田は「雪風」艦長等を歴任して第41駆逐隊司令。秋月型7番艦「霜月」沈没時に戦死)。脇田は7月25日に「夕月」を退艦し、新艦長として由川周吉少佐が着任した。8月13日、第23駆逐隊(1番艦 菊月《艦長七字恒雄少佐》、2番艦 三日月《艦長金岡国三少佐》、3番艦 望月《艦長成富武光少佐》、4番艦 夕月《艦長由川周吉少佐》)は第三水雷戦隊2番隊として長良型軽巡3番艦「名取」と豊後水道方面で演習中、夜間になり「夕月」は「三日月」に衝突される。2隻(三日月、夕月)は8月15日より呉で修理を行った。10月31日、由川少佐(夕月艦長)は退艦(由川は翌年より白露型4番艦「夕立」艦長)。11月2日、大田春男少佐が夕月駆逐艦長に任命される(着任11月10日)。11月15日の解隊再編で、第23駆逐隊は引き続き佐世保警備戦隊に所属。1937年(昭和12年)3月30日、第23駆逐隊司令は西岡茂泰中佐から吹雪型21番艦「暁」初代艦長等を歴任した高橋一松中佐に交代。6月1日、大田春男少佐(夕月艦長)は峯風型10番艦「夕風」艦長へ転任(後日、大田は朝潮型7番艦「夏雲」艦長や占守型海防艦2番艦「国後」艦長等を歴任)。海軍水雷学校教官藤田勇少佐が夕月駆逐艦長となる。7月28日をもって、第23駆逐隊は佐世保警備戦隊から除かれる。8月1日、「夕月」は第三水雷戦隊旗艦となる。8月9日、三水戦旗艦は「夕月」から球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」に移動した。支那事変では、第五艦隊に所属して中支、南支方面で活動する。1938年(昭和13年)10月22日、中国大陸珠江湾で「夕月」は商船「金華丸」と衝突。応急修理をおこなったあと、馬公市を経て11月13日に佐世保到着。11月15日より第三予備艦となる。11月25日、藤田勇少佐(夕月艦長)は峯風型6番艦「矢風」艦長へ転任(藤田は矢風艦長、初春型6番艦「夕暮」艦長、朝潮型1番艦「朝潮」艦長を経て夕雲型駆逐艦2番艦「巻雲」艤装員長および初代艦長。同艦沈没まで巻雲艦長)。小倉正身少佐(睦月型2番艦「如月」艦長)が如月艦長と夕月艦長を兼務する。12月15日、「夕月」と「睦月」の所属駆逐隊を入れ替えることになり、第23駆逐隊(菊月、三日月、望月、睦月)、第30駆逐隊(如月、弥生、卯月、夕月)という編制になる。同日附で人事異動がおこなわれ、第23駆逐隊司令は高橋一松大佐から伊集院松治大佐(男爵)に交代。小倉正身少佐(如月艦長兼務夕月艦長)は海軍水雷学校教官へ異動。佐間英邇少佐(雉水雷艇長)が夕月駆逐艦長に、太田良直治少佐(鳩水雷艇長)が如月駆逐艦長に、それぞれ任命された。1939年(昭和14年)3月18日、上杉義男少佐(弥生艦長)が峯風型3番艦「沖風」艦長へ転任、佐間少佐は夕月艦長と弥生艦長を兼務する。5月15日、安並正俊少佐(横須賀防備隊分隊長)が弥生艦長に補職、作間少佐(夕月・弥生艦長)は弥生艦長の職務を解かれた。10月15日、安並正俊少佐(弥生艦長)は初春型駆逐艦2番艦「若葉」艦長へ転任。作間少佐(夕月艦長)は再び弥生艦長を兼務することになった。11月15日、第30駆逐隊は睦月型2隻(睦月、望月)で再編され、同駆逐隊所属だった2隻(卯月、夕月)は第23駆逐隊に編入、23駆は睦月型4隻(菊月、三日月、夕月、卯月)となった。同日附で人事異動がおこなわれ、それまでの第23駆逐隊司令伊集院松治大佐は第8駆逐隊司令に補職。篠田勝清大佐が第30駆逐隊司令に補職。西岡茂泰大佐(第22駆逐隊司令と第30駆逐隊司令)の兼務は22駆と第23駆逐隊司令になった。また原口昇少佐(第9号掃海艇長)が弥生艦長に任命され、作間少佐(夕月兼務弥生艦長)は夕月艦長に専念する。1940年(昭和15年)4月4日、氏家忠三少佐(卯月艦長)が峯風型13番艦「野風」艦長へ転任。作間少佐(夕月艦長)が夕月艦長と卯月艦長を兼務する。5月1日、睦月型2隻(卯月、夕月)は第4予備駆逐艦となり、第23駆逐隊から除籍。第23駆逐隊は睦月型2隻(菊月、三日月)となった}。同日附の人事異動で、佐間少佐(夕月艦長兼卯月艦長)は睦月艦長へ転任(後日、佐間は第三次ソロモン海戦における吹雪型11番艦「綾波」沈没時艦長)。7月15日、杉本道雄大佐が第23駆逐隊司令に補職。西岡茂泰大佐(第22駆逐隊司令、第23駆逐隊司令)の職務は22駆司令のみとなる。10月15日、第23駆逐隊より睦月型10番艦「三日月」が除籍。同日附で睦月型2隻(卯月、夕月)は第23駆逐隊に再編入、23駆は睦月型3隻(菊月、卯月、夕月)となった。同日附の人事異動で、峯風型15番艦「沼風」艦長竹内一少佐が夕月駆逐艦長に任命される。三日月艦長と菊月艦長を兼務していた志摩岑少佐は、睦月型3隻(卯月、三日月、菊月)艦長を命じられた。11月1日、第23駆逐隊司令は杉本道雄大佐から山田雄二中佐に交代。11月15日、第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)は空母2隻(蒼龍、飛龍)の第二航空戦隊(司令官山口多聞少将。11月1日任命)に編入。それまで第二航空戦隊に所属していた第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は第三水雷戦隊(旗艦「川内」)に編入された。1941年(昭和16年)1月より第二航空戦隊は第二遣支艦隊の指揮下に入る。3月、「夕月」は「蒼龍」に衝突されて損傷したが、2隻(蒼龍、夕月)とも沈没に至るほどの損害はなかった。4月10日、日本海軍は第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将、参謀長草鹿龍之介少将、参謀源田実中佐等)を編制する。第二航空戦隊は第二艦隊より除かれ、第一航空艦隊に編入される。7月10日以降支那方面艦隊の指揮下に入り、7月31日まで仏印進駐作戦に参加した。8月11日、第23駆逐隊司令山田雄二中佐は第20駆逐隊司令(翌年8月28日の空襲《夕霧大破、白雲大破、朝霧沈没》時に戦死)。川内型2番艦「神通」副長山田勇助中佐が後任の第23駆逐隊司令となる。同年9月に内示された昭和17年度戦時編制によれば、第22駆逐隊(皐月、水無月、文月、長月)と第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)は第五水雷戦隊(旗艦「名取」)を編制予定。第二航空戦隊の所属駆逐艦は第12駆逐隊(叢雲、東雲)となる予定だった。だが太平洋戦争が勃発したため、第23駆逐隊が第五水雷戦隊に配備されることはなかった。9月15日、竹内一少佐(夕月艦長)は吹雪型24番艦「電」艦長へ転任。神風型3番艦「春風」艦長橘広太少佐が夕月駆逐艦長に任命される。本艦は橘少佐の指揮下で太平洋戦争に突入した。太平洋戦争開戦時は、引き続き第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将)・第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)の第23駆逐隊に所属。1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃以後、第二航空戦隊の空母2隻(蒼龍、飛龍)は金剛型戦艦、利根型重巡洋艦、南雲機動部隊警戒隊の軽巡「阿武隈」(第一水雷戦隊旗艦)や朝潮型駆逐艦・陽炎型駆逐艦等と共に、ウェーク島攻撃、ポートダーウィン攻撃、セイロン沖海戦に参加する。だが第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官:旗艦「鹿島」)に編入されて中部太平洋諸島を行動し(開戦直前は小笠原諸島で待機)、開戦時は第五根拠地隊司令官春日篤少将の指揮下でグアム島に進撃。第23駆逐隊は、敷設艦「津軽」や吹雪型17番艦「朧」(第五航空戦隊所属)等と共に上陸作戦を敢行した(グアム島攻略作戦)た。またグアム島攻略支援部隊として第六戦隊司令官五藤存知少将指揮下の第六戦隊所属重巡洋艦4隻(第1小隊《青葉、加古》、第2小隊《衣笠、古鷹》)が加わっていた。以後も南洋部隊の指揮下で行動し、空母2隻(蒼龍、飛龍)とは別行動である。1942年(昭和17年)1月第以降、23駆逐隊は第六水雷戦隊(旗艦「夕張」)や第十八戦隊(天龍、龍田)等と共に、ラバウル方面、ラエとサラモアの各攻略作戦に参加した。またアドミラルティ攻略作戦を支援した。1月31日、第23駆逐隊司令は山田勇助中佐から鳥居威美中佐に交代。山田中佐は吹雪型4隻(暁、響、雷、電)の第6駆逐隊司令に補職されたが、第三次ソロモン海戦における吹雪型21番艦「暁」沈没時に戦死した。4月10日、陽炎型駆逐艦および夕雲型駆逐艦主力の第十戦隊(司令官木村進少将
出典:wikipedia
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