LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ジャン=ピエール・ジャブイーユ

ジャン=ピエール・アラン・ジャブイーユ(Jean-Pierre Alain Jabouille, 1942年10月1日 - )は、フランス人の元レーシング・ドライバー。1976年ヨーロッパF2チャンピオン。ジャン=ピエール・ジャブイユ、ジャン=ピエール・ジャブイル等の表記がなされることもある。フランスF3やヨーロッパF2に参戦し、1976年にはヨーロッパF2でチャンピオンを獲得。また、まだF2参戦中だった1974年には、第9戦フランスGPでウィリアムズから、第12戦オーストリアGPでサーティースからF1に挑戦。しかし、どちらも予選落ちとなった。翌1975年には、第9戦フランスGPにティレルから参戦、予選を21位で通過しF1デビューを果たし、決勝も12位で完走した。元々スポーツカーや下位フォーミュラーでルノーと縁があり、実績を残していたジャブイーユは、その後ルノーのF1プロジェクトにおけるドライバーに抜擢される。ルノーのエンジン部門だったベルナール・デュドらと開発し、1977年にはF1史上初のターボ車「RS01」が完成。タイヤ・ガソリンにもそれぞれフランスのミシュラン・エルフを使用するなど、フランス人のジャブイーユがドライブすることも含めた「オールフレンチ体制」が話題を集めた。しかしエンジンはターボラグの酷さに加え、信頼性も低いものであった。初陣の1977年第10戦イギリスGPでは、予選21位に沈み決勝でもターボのトラブルでリタイヤ。1977年はこれを含め計5戦にエントリーしたが、リタイヤ4回・予選落ち1回と一度も完走出来なかった。1978年は速さを獲得し、予選で3位グリッドを2度獲得するなど上位に食い込むようになる。第15戦アメリカ東GPでは、4位に入り自身及びチームにとっての初入賞を記録している。しかし信頼性の低さは変わらず、参戦した14戦中完走は4回であった。1979年は、チームメイトにルネ・アルヌーを迎えて2台体制となった。車両の速さは前年以上となり、ジャブイーユは予選で4度のPPを獲得した。このうち地元の第8戦フランスGPではポールトゥーウィンで自身の初優勝を挙げた。このレースは「フランス人が、フランスGPにおいて、フランス製のガソリンとタイヤを使用したフランスチームのマシンを駆り初優勝を成し遂げたレース」となった。また、これはチームにとっても初優勝であり、開発の努力が報われる結果となった。このレースは、アルヌーとフェラーリのジル・ヴィルヌーヴが、終盤に激しい2位争いを展開したGPとしても知られている。年間を通しては15戦中完走4回と、相変わらず信頼性の無いマシンに泣かされる結果となった。1980年もルノーから参戦、予選ではPP2回など好位置につけ、第10戦オーストリアGPでは予選2位から自身2勝目を記録。しかし、トラブルの多さは相変わらずでリタイヤを連発、結果的にゴール出来たのはオーストリアGPのみとなった(第4戦アメリカ西GPは、リザルト上完走扱い)。また同僚のアルヌーが2勝を挙げるなどの活躍を見せる中で、チームもアルヌー寄りに傾きつつあったとされる。そんな中でジャブイーユは、一旦は交わしたチームとの来期の契約を破棄し、マトラと契約。ルノー同様、ターボマシンの開発を担当する予定となっていた。しかし第13戦カナダGPでクラッシュし、両足を骨折。最終戦アメリカ東GPへの欠場を余儀なくされると共に、マトラでの挑戦予定も無くなってしまった。その後、1981年にはリジェから6戦にエントリーしたが、回復が思わしくなかったこともあり、3度の予選落ちと3度のリタイヤという結果に終わる。第7戦スペインGPをもってチームを去り、その後2度とF1には戻らなかった。F1後は地元フランスでスポーツカーレースに参戦し、プジョーやBMWを駆り活躍した。また1994年のプジョーF1参戦時には、チームディレクターとして関わっている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。