初代の大阪鉄道(おおさかてつどう)は、1888年から1900年まで存在した日本の鉄道事業者。私鉄。現在の西日本旅客鉄道の4つの路線の各一部区間、関西本線のJR難波 - 奈良間、大阪環状線の天王寺 - 玉造 - 大阪間、和歌山線の王寺 - 高田間、桜井線の高田 - 桜井間を建設・運営していた。1900年に関西鉄道に合併され、湊町(現・JR難波) - 奈良間は同鉄道の名阪間の本線の一部となった。柏原で接続していた大阪鉄道 (2代目)は当時河南鉄道を名乗っていた。直接の資本関係などはない。大阪から奈良・伊勢・和歌山に至る路線を計画したが、関西鉄道との調整の結果、湊町 - 奈良間を本線として建設をはじめた。免許申請にあたって条件づけられた官設鉄道大阪駅に接続する路線は、当初は湊町から延長し市街を縦断する経路を検討した。しかし結果として天王寺から玉造経由の、後に城東線、現在の大阪環状線の東半分にあたる路線を建設、1895年全通した。1900年、株主に関西鉄道と共通の者が多かったためもあり、合併に至った。2009年12月9日に1931年、1932年の大規模な地滑りで全て崩壊したとみられていた亀ノ瀬隧道(かめのせずいどう)の一部が当時のままの状態で発見され、80年前のタイムトンネルとして地元では話題を呼んでいる。関西鉄道に譲渡当時の路線を示す。『大阪鉄道略歴』によれば、桜井に至る路線を本線としていた。1889年の開業時は5両が用意されたが、関西鉄道合併時には車軸配置2-4-2(1B1)のイギリス製タンク機関車20両が在籍した。そのうち、B形はやや小形であったが、残りはいずれも官設鉄道のA8クラスに相当する機関車であった。1889年の開業時は、一二等合造車2両、二等車4両、三等車14両、旅客緩急車(荷物車)8両の計26両であったが、1900年の合併時は、一等車1両、一二等合造車13両、二等車8両、二三等合造車4両、三等車84両、三等緩急(荷物)合造車10両、郵便緩急(荷物)合造車6両、旅客緩急車(荷物車)10両の計136両であった。ボギー車はなく、いずれも二軸車であった。開業時の一部(ろ1、は1, 2、に7 - 14、ほ3 - 8)は、イギリスから輸入したが、以降の増備車は、自社工場製と山陽鉄道兵庫工場製であった。車種別に付された記号は、次のとおりである。二三等合造車が「へ」であるのは、最も遅く制定されたためである。開業時は有蓋車20両、無蓋車30両、土運車30両の計80両であったが、合併時には有蓋車89両、無蓋車48両、土運車(ブレーキ付を含む)30両、材木車(長物車)4両、鉄製油車(有蓋車)2両、魚運車(通風車)2両、家畜車1両、緩急車(有蓋車)7両の183両であった。いずれも二軸車で、自社工場製である。車種別の記号はなく、種別ごとに通番が付されていた。
出典:wikipedia
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