『フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。1579年、イエズス会司祭マフェイはポルトガル国王エンリケ1世の命により、『ポルトガル領東インド史』の編纂を開始した。この時マフェイは、当時すでにインドと日本からの通信者として知られていたルイス・フロイスの事を思い出し、同年11月6日にイエズス会総長エヴェラール・メルキュリアンへの書状を出し、フロイスを布教の第一線から引かせ、ヨーロッパの後進が日本布教に赴く際の資料とするために日本でのキリスト教布教史を書かせるよう依頼した。総長メルキュリアンはこれを承諾し、インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに指令を出した。1583年秋、フロイスは口之津でガスパール・コエリョからこの指令を受け取った。彼は以後、10年以上にわたって執筆を続け、時には1日に10時間以上の執筆を行ったという。翌1584年には第1巻「日本総記」(現在では「日本総論」の目次を除き逸失)を書き上げ、1585年6月14日には『日欧風習比較論』を加津佐で執筆。1586年(天正14年)、日本史1549~78の部がおおむね完成した頃、コエリョと共に五畿内をまわり、大坂城で豊臣秀吉に謁見するなどした。1587年、秀吉がバテレン追放令を発布したが、フロイスら宣教師は日本を出てはいない。その後フロイスは1592年まで日本で執筆を続け、同年10月9日にヴァリニャーノとともに日本を発ち、マカオに到着。この後1594に第三部が完成した。ところが、この時に原稿を検閲したヴァリニャーノは、自身が多忙なことや、あまりにも記事が膨大で本来の執筆趣旨に反する事を理由に、編集を加えて短縮することを命じた。だがフロイスはこれに応じず、「原型のままローマに送付させてほしい」と時の総長クラウディオ・アクアヴィーヴァあてに書簡を出している。1595年、フロイスは日本に戻っていくつかの年報や報告書を作成した後、1597年に没した。彼の原稿はマカオのマカオ司教座聖堂に留め置かれ、そのまま忘れ去られた。1742年、ようやくポルトガルの学士院が同書の写本を作成して本国に送付した。1835年に司教座聖堂が焼失した際に原本は失われたと思われる。写本も各地に散逸した。後年に再度蒐集され、行方不明となった第1巻以外は20世紀以後に徐々に刊行されるようになった(詳細は下記参照)。研究により、『日本史』は以下のような構成によって成り立っていたことがわかっている。本文は現存しない「日本総記」と称される第1巻(序文・日本六十六国誌・日本総論から成る)、フランシスコ・ザビエルが日本を訪れてキリスト教の布教が開始された1549年(天文18年)から1578年(天正6年)までからなる第2巻、そして1578年(天正6年)から1589年(天正17年)までからなる第3巻から構成される。ただし、実際の第3巻は1594年(文禄3年)まで執筆されており、1589年(天正17年)以後の部分は加筆されたものと考えられ、この加筆部分を別の巻として扱う見方もある。キリスト教の布教史としてのみならず、織田信長・豊臣秀吉ら諸侯・武将の動向から庶民生活の実情、災害や事件などについて細かく描かれており、一部に日本人に対する誤解やキリスト教的偏見が含まれているものの、優れた観察眼と情報蒐集の確実性が明らかにされており、日本史における重要な史料として高く評価されている。また日本の人名や地名のローマ字表記から当時の発音も明らかになっている。リスボン国立図書館蔵の写本を元に現存する全文を翻刻。リスボン・アジュダ文書館蔵の写本を元に、1549年 - 1578年の記事を翻訳。
出典:wikipedia
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