月岡 雪鼎(つきおか せってい、享保11年〈1726年〉 - 天明6年12月4日〈1787年1月22日)〉とは、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字を大渓といった。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪など。近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられている。一方、画号の「雪鼎」の由来は分かっていない。父・木戸平四郎友貞は医者で、大坂に移住。雪鼎も家業の医者を継ぐも病気がちで断念する。その後、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で「月下擣衣図」(絹本着色)などのような肉筆美人画も描く。現在、確認できる最初の作品は、宝暦3年(1753年)正月刊行の『絵本龍田山』で、宝暦年間に手がけた版本は確認出来るだけで30冊に及ぶ。仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋位を得る。この頃は大坂江戸堀2丁目に住み、隣人は国学者・江田世恭、大坂の文人サロン・混沌詩社を中心とする詩人や学者と交流を持った。作品も版本は減り、代わりに肉筆画が増えていく。安永7年(1778年)3月に息子・雪斎は法橋、自身は法眼に推免された。法橋位を得た年かまたは翌年から、行年書に9歳または10歳加算するようになる。以後、3幅対や屏風など大画面の作品を手掛けることが多くなり、富裕な人々からの注文が増えたと推測される。1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住。享年77。長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰、桂宗信など。門人と推定される絵師に田中巨川斎がいる。また一説に、月岡芳年は雪鼎の長男、月岡雪斎の画系をひいているといわれる。作画期は宝暦3年頃から没年の天明6年に到っており、肉筆浮世絵の他、版本の挿絵にも筆をとった。肉筆画の多くは美人図で、賦彩の美しい画品を具えた作品が数多く見られる。雪鼎の描く女性は、色白で鼻筋の通った瓜実顔に切れ長の目が特徴で、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い。豊艶な美人の輪郭線に、薄い墨と落ち着いた朱色を併用することで、色白の肌との調和を図っている。また、春画の名手としても知られる。天明の大火の時、焼け跡の中になぜか残っていた蔵があった。訝しんだ人々がその蔵の中に入ってみると、その持ち主も見覚えのない雪鼎の春画があったという。この逸話が広まり雪鼎の春画は火除になると評判が広がり、値が十倍にもなったという。ただし、雪鼎は美人画や春画ばかり描いたわけではなく、作域も広い。水墨を基調とした人物画には狩野派風、山水画には雪舟風の描法を用いており、師・敬輔の影響が看取できる。和漢の古典や故事に取材した作品も散見し、時には雪鼎自ら漢詩や和歌を書き込んでいる。雪鼎が用いた遊印「図不食先哲糟粕」は、「先人の真似をしただけの絵は描かない」という意味を持ち、雪鼎の絵に対する考え方を表している。こうした雪鼎の絵は貴族にも愛好され、その絵の値段は三十金・五十金にもなったという。以上は、山本ゆかり「月岡雪鼎肉筆画一覧(未定稿)」『上方風俗画の研究 ─西岡祐信・月岡雪鼎を中心に─』(pp.267-273)等を元に追記作成。
出典:wikipedia
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