ボランティアによって書かれたフリーコンテントプロジェクトであるウィキペディアは、その規模と知名度の増大に伴い、多くの批判もなされてきた。よく言われるものには、その開放性のために内容に権威がなく信頼性が低いことを指摘するもの、固有の系統的偏向性があるというもの、集団の力学が目標の達成を妨げているというものなどがある。また具体的なものでは、明らかな、あるいはわかりづらい荒らし行為の存在、頑固な執筆者による記事の支配、議論のある話題についての不正確な若しくは存在しない情報源による執筆、編集合戦などの、執筆者間の非建設的な衝突などに対する批判がある。ウィキペディアのコンテントに対する個々の際立った議論は、広くメディアの非好意的な注目を集めてきた。批判者たちは、ジョン・シーゲンソーラー ウィキペディア経歴論争やEssjay騒動などの事件を例に、ウィキペディアの文献としての信頼性・有用性に疑問を投げかけた。また、ウィキペディアはパロディーやユーモラスな批判の対象ともなっている。ウィキペディアは、“誰にでも編集できる”というその性質、即ちウィキであるために、賞賛され、また批判もされた。司書や学者、他の百科事典の編纂者などの中には、資料としての有用性が非常に低いとの批判もあった。多くの大学講師たちは、学術的な論文の中ではどんな百科事典も引用してはならず、一次情報源を使うよう勧めている。ある大学のプログラムといくつかの学校においては、名指しでウィキペディアの引用が禁止されたこともあった。また、検索エンジンの最上位に常に上がる故、不正に企業のPRの場として悪用する例、いわゆるステルスマーケティングに利用する業者は後を絶たない。ウィキペディアの方針によれば、記事中の主張は、信頼できる出版された情報源によって支持されるべきであり、さらに理想的には査読されたものであるべきであるとしている。ウィキペディアは、ジミー・ウェールズも上記で述べている通り、まともな研究においては一次情報源として使用すべきではないということを認めている。司書のPhilip Bradleyは2004年10月、「ガーディアン」誌のインタビューにおいて、ウィキペディアの根底にあるコンセプトは「素晴らしい考え」であるとしたが、実用上はこのサイトを使うことはないだろうと述べた。さらに、「使おうとするであろう司書を私は一人も知らない。一番の問題は権威の欠如だ。出版された資料においては、出版者はそれで生活しているので、彼らは情報が信頼できるということを保証しなければならない。しかしこのようなもの(=匿名の不特定多数による電子データの塊であるウィキペディア)においては、すべては窓の外で起きていることだ。」と述べた(→)。「ブリタニカ百科事典」の前編集長ロバート・マクヘンリーは、2004年11月に次のように述べた。CNETは2005年12月15日の記事の中で、「ネイチャー誌に今週掲載された研究によれば、ウィキペディア[英語版]は、我々をとりまく世界の事実についての由緒ある旗手であるブリタニカ百科事典と比較して、同じくらい正確な情報源だ。」と述べた。ネイチャーによるこの調査は、「ザ・レジスター」の編集者アンドリュー・オーロウスキーによって、次のように批判された。ブリタニカ百科事典もまた、その研究におけるブリタニカの抜粋は、少年向けの版のために書かれた記事のものを含む編集物であるため「致命的に不備がある」として、ネイチャー誌の研究を否定した。ネイチャー誌はブリタニカの抜粋の一部が編集されたものであるということを認めたが、これによって研究の結論が変わるものではないとした。ブリタニカ百科事典はまた、ネイチャー誌の研究は、2つの百科事典の間のエラー率は似かよっているが、エラーを分析してみると、ブリタニカは「脱落エラー」が多いのに対し、ウィキペディアの方は不正確な事実をより多く含んでいるということを示している、と論じた。2005年11月に起きたジョン・シーゲンソーラー ウィキペディア経歴論争の結果として、ウィキペディアは非常に好ましくない印象を大衆に与えた。誤った記述は、同年5月からシーゲンソーラーの友人Victor Samuel Johnson jr.によって発見される9月までの間、まったく気付かれることがなかった。ウィキペディアは荒らし行為を、記事が常に直面する問題として認識している。ある利用者は特定の主題に対する不満から、またある利用者は単にウィキペディアを破滅させるために荒らし行為をする。システムを試し信頼性の低さを実証するために、故意に虚偽の情報を記述した例もある。ウィキペディアはこれらの問題を認識しており、英語版の『ウィキペディアを使った調査』のページ()には次のように記述されている。ウィキペディアには、荒らし行為に対処するための様々なツールが利用者と管理者のために用意されている。またウィキペディアの支持者らは、荒らし行為のほぼすべては短時間のうちに差し戻されると主張している。MITメディアラボのFernanda Viégasと、IBM基礎研究所のMartin Wattenberg、Kushal Daveらは、荒らし編集のほとんどは[英語版においては]5分前後で差し戻されるということを示した。確かに、ページの白紙化や不愉快な文章の追加など大掛かりな荒らし行為のほとんどはすぐに差し戻されるが、一方でさほど明白でない荒らし行為は訂正に長い時間が掛かる。たとえば、ある利用者によってマーチン・ルーサー・キング・ジュニアの記念日 () の記事に人種差別主義的な編集が行われたときは、差し戻されるまでに4時間近くの時間を要した。コラムニストのSujay Kumarは次のように論評した―「ウィキペディア(ここでは英語版)はほとんどの荒らし編集が5分以内に除去されると言っているが、気づかれずにいる虚偽の記述もある。ラリー・キングの鼓腸に関する異様な記述は1ヶ月もの間掲載され、ヒラリー・クリントンが卒業生総代であったという小さな誤りは2年近くの間訂正されなかった」。ウィキペディアが、ウィキペディアを典拠とする報道などを出典にすることで、循環的にウィキペディア発の虚偽情報を事実のように見せかけることがある。その場合、ウィキペディアの情報が虚偽である可能性を理解している人も、結果的にウィキペディア発の虚偽情報の担い手になることがありうる。ウィキペディアとOxford Textbook of Zoonoses(オックスフォード人獣共通感染症教科書)における、エボラ出血熱に関する記述を比較すると、内容の重複があるが、ウィキペディアの記載は2010年であるのに対し、The Oxford Textbook of Zoonosesは2011年版の書籍に同じ内容があることから、The Oxford Textbook of Zoonosesの著者がウィキペディアを「参照元」としていることが指摘されている。(執筆者が同じである可能性もある)判別しにくい荒らし行為の例として、著作権侵害の虚偽主張で記事を破壊するというものがある。寄稿者が類似の情報をウェブフォーラムに投稿することで、それらの投稿が、ウィキペディアへの膨大な寄稿を破壊するための非常に効果的な手段として使用されたことがある。「6.5mmグレンデル弾」() の記事では、寄稿者とフォーラム管理者の証言を得ることでその行為を無効化することができた。しかし「50口径ベオウルフ弾」()の記事では、発見があまりに遅すぎたため、寄稿のうちの大部分が失われるという結果になった。虚偽記事が堂々と存在したことさえある。レバノン沖地中海に存在すると主張された「ポルシェジア島」(Porchesia) は虚偽記事であるとして削除されると、“存在するものをなぜ抹消するのか”と異議を唱えるウィキホリック達によって直ちに再生された(この騒動の顛末はアンサイクロペディア(英語版)に「ポルシェジアの虐殺」として記録された)。「ビコリム戦争」(Bicholim Conflict) は2012年末に削除されるまで5年間存在し、しかもその間に良質記事にまで選ばれ、古代ローマの人物でカエサル暗殺に関与したと主張される「ガイウス・フラウィウス・アントニヌス」は削除されるまで8年間存在し続け、この種のでっち上げて最もよく知られる例となった。また、ツアタファ・ホリというシガヴェーの王女、エクサハメロン大戦についての詳細、セーラームーンとスーパーマリオブラザーズが融合したセーラーキノコなど、ウィキペディア以外に存在しない多くの架空の人物や事物についての情報が発信されていた。また、でっち上げというでっち上げもあり、2008年の春の1か月以上の期間、あるページではマーガレット・サッチャーは架空の人物であると書かれていた。悪戯行為の試みは記事の編集だけに留まらない。スコットランドのアラン・マキルレイスは2005年10月、コールセンターで働いていた経歴しかないにも拘らず、イギリス陸軍大尉で多くの勲章を授けられた英雄であるとする自身のウィキペディア記事を作成した。その記事はすぐに、他の利用者によって信頼できない記事とマークされた。しかし、マキルレイスは多くの慈善団体やメディア組織に対しても、自身が記事にあるような人物であると説得するのに成功した。音楽ユニットの記事を書き換えることで、ライブの警備をすり抜けてバックステージに侵入を果たしたファンもいる。記事本文に対する悪意ある編集は差し戻すのは比較的容易だが、数字や統計に関する編集は遥かに見つけるのが困難であり、さらに長期間にわたって掲載され続けてしまう虞がある。2011年のウィキペディアの調査では編集者の91パーセントが男性であり、ウィキペディアの記事はジェンダーバイアスの影響が指摘されている。マイケル・ハリスは、「ウィキペディアが達した「合意」は、結局のところ、実は男性の合意」であり、ジェンダーバイアスが生み出す限界は、特定の組織の介入による情報の偏向同様に、非常に深刻である可能性があると述べている。以上のWikipedia全体に対する批判に加えて、ウィキペディア日本語版独自の批判もある。2015年12月現在、ウィキメディア財団から承認済みの国別協会(local chapter)が所在地別に41(さらに準備中が27)ある。日本語版は2001年、英語版の次に作られた13言語版のひとつでありながら、日本には国別協会がいまだ存在せず、準備中ですらない。このような責任者不在の状態のほか、記事内容の正確性、情報操作のおそれ、プライバシー侵害のおそれなどさまざまな面について多数の識者から批判を受けている(肩書き等は発言当時)。放送大学大学院生でウィキペディア管理者の岡田登貴(ユーザーアカウント名は未詳)は2007年の雑誌記事の中で“良識的でものごとを中立的な観点から見ることができる執筆者がふえればふえるほどウィキペディアの正確性はましていくことになる”と評価しながらも、“残念なことに現在の日本語版には、偏った記事、正確性に疑問がある記事、はなはだ百科事典的でない記事が多いのも事実である”と述べている。経済学者の野口悠紀雄は2006年の雑誌連載の中でウィキペディアについて“ブリタニカにも匹敵する”と激賞しつつ、自身の項目に事実に反したことが書いてあったことに不快感を示し“誤りに対する責任の所在も明確ではない。ウィキペディア日本語版の管理者は誰であるのか、明確にされていないからである。さまざまな問題が指摘される「2ちゃんねる」でさえ、管理責任者が誰であるかは明確にされている。それと比べると、ウィキペディア日本語版の信頼性は「2ちゃんねる」以下と言わざるをえないのである”と批判している。比較文学者の小谷野敦は2012年のブログ記事の中で“日本のウィキペディアというのは、海外のそれと違って責任主体がはっきりしない。いわば無法地帯だ。誰がやっているか分からない”と批判している。立教大学教授の細井尚子は2011年の他教授・学生との座談会「学習ツールいまむかし」の中で“ウィキは文責もとらない。教員としては、やっぱりそういうのが問題だと思いますね”と批判。なお同座談会では学生からも一様に手厳しい評価が下っている。曰く“書籍とかを見ると、全然違う内容のことが書いてあったり、逆のことが書いてあったりする場合も多々ある”、“内容が浅いと感じています。今から調べるものの概要をとらえるというぐらいでしか使わないと思います。本当に論文を書くというレベルになると、ウィキペディアは使いものにならない”、“ウィキペディアを使うときは、芸能人のことを調べるときだけ”。雑誌『AERA』では2012年に井上和典記者が“「AERA」の項を見ても、間違った記述が散見されるほか、すでに終了した連載が「代表的な連載」として挙がっているなど、情報が更新されていなかった”と述べ、ウィキペディアが執筆者の自主性と善意に頼っていることの限界を指摘。“その内容が間違っていても誰の責任も追及できない”としている。奈良女子大学教授の栗岡幹英は2010年に大淀町立大淀病院事件の項目が誤情報・誤記に満ちていたとして厳しく批判し(経緯は当該記事のノートを参照)、“他の立場を排除して一定の傾向を持つ政治的な主張群を流通させるという意図に導かれて”いるとしている(ちなみにこの批判はラリー・サンガーの意見とも一致する)。医療ジャーナリストの鳥集徹は2009年の著書の中で出元明美の項目が立項時にきわめて問題が多かったことを指摘(当該記事の履歴を参照)。“だれかがウィキペディアに書き込まない限り、いったん書かれた記事はそのままネットに晒され続ける。「嫌なら自分で書きかえろ」と言われるかもしれないが、好き好んで書かれたわけでもない当人が、なぜそのような労をとらねばならないのか。書かれた側にとっては、はなはだ迷惑な話だ”と断罪している。さらに悪質な書き込みを行っている人間が2ちゃんねるのウィキペディア関係スレッドを利用し情報操作を試みている危険性も示唆している。成城大学教授の指宿信は2012年、出版社サイト上の連載コラムにおいて“Wikipediaそのものの構想は素晴らしく、「知の共同体、知の集積庫」であり、誰もが利用できるオープンアクセスの見本”と高い評価を下しつつも、官公庁からの編集が相次いだことを引き合いに出し“Wikipediaのような匿名サイトの場合には、あたかも中立的な立場を装いながら一定の見解のみが伝えられてしまうという危険性がある”と指摘。さらに“実はオープンであればあるほど情報の信頼性が損なわれていくという相関関係にあることも見逃せない”というジレンマも指摘している。また“紛争当事者が、自ら、あるいは第三者に依頼させて、紛争に関わる言葉の定義や事実関係についてWikipediaの記事を(極論すれば自己の主張に有利なかたちで)執筆したり、させたりしていたとしても、それをチェックするのは事実上不可能に近い”とも弱点を剔抉している。森林総合研究所の明間民央は2008年の雑誌記事の中で“結論から言えば、「ウィキペディアの情報は信頼できる」というのは間違いである”とし、出典なき記事の信頼性や間違い、古い情報がそのまま放置されている問題を指摘。一方で“ウィキペディアの考え方自体は悪くない”とも評価している。愛知大学教授の時実象一は自身、学生への実習としてウィキペディアの編集を行わせながらも、2014年の愛知大学図書館広報誌の中で“たとえば「つり革」(電車の)という記事(2013年9月現在)は、出典がなく、自分の調査結果を記載しているだけで、独自研究の典型である”、“タレントに関する記事や、いわゆる「オタク系」の記事は、うわさ話や聞きかじりが多く、信頼性に乏しい”などと批判している。早稲田大学メディアネットワークセンター助手の大足恭平は荒らし・悪戯・著作権侵害・論争・編集合戦などが起こっていることを問題点に挙げる。さらに2008年の学会報告書の中で日本語版を“アニメ、鉄道、道路、芸能などの分野に強く、一般の百科事典に載っていないようなことが載っている、ということも特徴の一つとなっており、非常に豊富な情報量を擁しているが、実際にはほとんど検証可能な出典は示されていない”と分析している。山本まさきは2008年の共著書の中で、“匿名性というレベルでは2ちゃんねるもウィキペディアも同レベルにある。いや、発信者情報開示請求に応えない分、2ちゃんねるより匿名性が高いとすらいえるかもしれない”と評価しながら、“もののたとえでも何でもなく、本当に、最終責任者がどこにもいない”とし、“現在、2ちゃんねる以上に、低リスクで違法な書き込みを行える場になりつつある”と懸念している。また山本はイオンド大学の項目が、2007年上旬に同大関係者を称する人物からのクレームを受け管理者の手により実質的に白紙化され保護となった事件(経緯は当該記事のノートおよび過去ログを参照)を“「社会正義よりウィキペディアの存続が優先する」というメッセージだと受け取られても仕方がない”としている。そのイオンド大学の記事白紙化の件によりウィキペディア編集から離れたというプログラマーの吉本敏洋は、同じ本の中でどのようにウィキペディアに接するべきかという問いに“ネット社会をあまり知らない人は見ないのがいいと思いますよ。記事の信憑性をいちいち検討するのもコストをかけることなんです。「2ちゃんねるに書いてあることは本当ですか?」と聞かれるのと同じで、「(2ちゃんねるやウィキペディアを)見ても時間の無駄だから見ないほうがいいですよ」って答えるのが一番正しいと思います。それでも暇つぶしならいいですよというくらいです”と回答している。弁護士の山口貴士も上記山本の共著書の中で、ウィキペディア日本語版を“非常に便利”、“重宝しています”と評価しながら、“責任者を決めない限り、権力からの干渉や不当な圧力に対し、気骨のある毅然とした対応をとることは難しいと思います”と指摘。上記イオンド大学記事白紙化の件についても“日本の関係者だけで素人判断をするのではなく、記事の執筆者に根拠を示し、表現の正当性を主張する機会を与えた上で、ウィキメディア財団に判断をさせるべきだったと思います。クレームをつけた側の言い分を一方的に受け入れることは、ウィキペディアの信用性を損なうだけだと思います”と苦言を呈している。実業家の西和彦は2009年のネットコラムの中で、自己項目の編集をめぐり他の利用者と激論を交わし(経緯は当該記事のノートを参照)、その結果ウィキペディア日本語版を“真実と嘘と無知と偏見と嫉妬と虚栄が混じったネットの肥溜みたいなもの”と認識している。一方で“アメリカの代表はまともな人であった”としている この批判には赤木智弘が一定の評価を下している。ムツゴロウさんの愛称で知られる作家の畑正憲は、2006年1月5日に何者かの手により大麻栽培をしている旨の悪質なデマが記されたこと、それを鵜呑みにした客人が来た際の驚きを2008年の著書の中でこう綴っている。“私は、麻薬の類が極端に嫌いであり、手を出すなよと、周りに戒めてきた。多分、フリーライターが書いたものだろうが、私が最も嫌いなものをつけ加えて、裏でニヤリとしているに違いなかった。それは悪意に満ちた人物紹介だった”。なお、畑に対する中傷デマ記述は2ヵ月以上も削除されず記事に残存していたことが当該記事の履歴で確認できる。慶應義塾大学特任教授の西岡孝明は2013年に所属研究所サイトのインタビューにおいて“全く関係のない項目同士で同じような議論があり、お互いに矛盾することが書かれていても、それを探す機能がありません。データベースでは、記述内容が互いに関連していて、その関係がクリアでなければなりません。Wikipediaには出典のリンクがついていますが、あれはページに書きこんだ人がリンクを付けているので、抜けていることもたくさんあるし、他の思わぬところに関連項目があったとしても、書き込んだ人が知らなければリンクはつきません”と、データベースとして欠陥があることを指摘している。歴史家の宝賀寿男は清和源氏の項目で個人攻撃を受けた(詳細は当該記事の履歴を参照)と考えた。2007年、自身が会長を務める古代氏族研究会の公認ウェブサイト上で、“匿名の極めて多数の書き手がいる同事典については、これまでも多くの問題点が指摘されてきたことは、周知のとおりである。その意味で、当該記事は無視しておいてもよいとも考えられるが、一般に様々な事項について、ちょっと調べるにはたしかに便宜な事典であり(七,八割方の精度で)、世間的に一定の影響力があることを否定できないものでもある”として逐一反論を述べ、“まったくの余談であるが、本件のように異説がある問題について、自らの説・見解に都合の良いような形で記事を書き込むことは、疑問の大きいところである。とかく問題にされがちなフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の声価を下げることにつながることを懸念する”と表明している。参議院議員の白眞勲は自身の公式ウェブサイト上に「ウィキペディア(Wikipedia)白眞勲の記述における一部誤認、意図的曲解について」とのページを作り、ウィキペディアの白の記事に書かれた内容のうち帰化後の発言・在日コリアン参政権付与運動・防衛政策の3点について「デタラメ」等と反論している。
出典:wikipedia
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