ユセフ・トルコ(1930年5月23日 - 2013年10月18日)は、日本の元プロレスラー、元レフェリー、俳優。本名ユセフ・オマー。樺太出身。ユスフ・トルコとの表記もある。俳優のオスマン・ユセフは実兄。ユセフ・トルコの生年、出身地については諸説ある。トルコ人の両親の間に横浜市で生まれる。戦後、柔道家木村政彦が「拳闘の強い外人を探している」と聞き、柔道対ボクシングの興行である柔拳の選手になる。のちに1954年に日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。1956年に行なわれた「ウエイト別統一日本選手権大会」ではライトヘビー級に出場、東亜プロレス所属の東日出雄に40分15秒、腕固め(相手の両上腕に自分の両膝を載せてフォールする技。今日であれば「体固め」と記録される)で敗れている。この頃からレフェリーも兼任する。現役時代は波乗り固め(サーフボード・ストレッチ)を十八番技にしていた。ユーモラスなファイトで人気を得る一方、1968年1月には日本プロレスとの約束に反して国際プロレスのブッカーとなったグレート東郷を、松岡巌鉄を引き連れて「制裁」と称して一方的に暴行した。その直後、喧嘩両成敗とする目的で吉村道明に自分を殴るよう命じたが固辞され、仕方なく自分で自分の顔を殴って血まみれとなったうえで麹町署に出頭。トルコの思惑どおり、警察は「喧嘩するならリングで」との注意にとどめ、事件とはならなかった。この件で東郷は、翌日の新聞に「レフェリーより弱かった世紀の悪玉」と書きたてられ、大きく面目を失った。トルコは表面上は無期限出場停止処分を受けたものの、裏では日本プロレス社長の芳の里から、褒美として世界一周旅行のチケットを貰ったという。日本プロレス末期の、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の対立に際しては猪木派につき、1972年3月の新日本プロレスの旗揚げにもレフェリーとして参加。家を抵当に入れてまで同団体の旗揚げに尽力したが、新間寿との不仲などのトラブルが原因で1年で辞め、猪木やプロレス業界と疎遠となる。その後はハワイで不動産業、電気工事会社役員などを務めたが、特殊株主活動に興味を持ち、コミッショナーだった二階堂進を介して衆議院議員出身の超大物総会屋・栗田英男と知り合い、1976年頃は小川薫の用心棒のようなことをやっていた。1978年、梶原一騎らとともに、大相撲の高見山と千代の富士をエースとして、フジテレビの放映による新団体「大日本プロレス」(のちにグレート小鹿が設立した同名団体とは無関係)設立を企てたが頓挫している(参照・梶原一騎#大日本プロレス設立計画)。1980年2月27日に行なわれた、猪木VSウィリー・ウィリアムス戦ではレフェリーを務めた。翌1981年5月、アブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスに移籍させ、当初はブッチャーのマネージャーとしても活動。力道山のマネージャー時代に親交を結んだ梶原一騎の梶原プロダクションに籍を置き、役員兼用心棒のような役目も担っていた。同時期、日本イスラム協会にも所属していた。1983年6月、ブッチャーの著書『プロレスを10倍楽しく見る方法』(ワニブックス・1982年)のゴーストライターだったゴジン・カーンを恐喝した容疑で、梶原ともども逮捕された。のちに由利徹に弟子入りし、喜劇俳優としても活動する傍ら、1990年代には栃木県大田原温泉にあるホテルの会長も務めていた。増田俊也のノンフィクション『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、1954年12月22日の「力道山対木村政彦戦」では、「力道山を応援していたけれど、KOされた木村さんのことも尊敬していたから複雑な気分だった」と述べている。2010年、プロレス界の統一を企てるも実現には至らず。晩年は、佐山聡(初代タイガーマスク)が主宰するリアルジャパンプロレスで、時折レフェリーを務めていた。80歳を過ぎても、2010年の雑誌インタビューでは「ユセフ・トルコ、当年とって80歳、おヘソの下は40歳!」、「猪木を殺すまで私は死ねない」などと語り、健在ぶりをアピールした。2013年10月18日に心臓関係の疾患により死去。。
出典:wikipedia
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