時津風部屋(ときつかぜべや)は、日本相撲協会所属で時津風一門の相撲部屋。立浪部屋に所属する横綱・双葉山は、その実績が評価されて現役力士のまま弟子の育成ができる二枚鑑札を許可され、1941年5月に立浪部屋から独立して双葉山相撲道場を設立した。この際に、当時粂川部屋を開いていた5代粂川(元大関・鏡岩)は、自らの弟子全員を双葉山に譲り、自らも双葉山相撲道場の部屋付き親方となった。また、他の部屋も多くが傘下に入った。双葉山は1945年11月場所限りで現役を引退して年寄・12代時津風を襲名し、同時に双葉山相撲道場を時津風部屋と改称した。その後、粂川部屋から譲り受けた鏡里が横綱に、双葉山の二枚鑑札時代からの弟子である大内山が大関へ昇進し、双葉山が12代時津風を襲名して以降には北葉山と豊山の2人が大関へ昇進した。1968年12月に12代時津風が逝去すると、時津風部屋の部屋付き親方である13代立田川(元横綱・鏡里)が一時的に13代時津風を襲名したが、その後、12代時津風が後継者に11代錦島(元大関・豊山)を指名していたとの遺言の存在が明らかになった。これにより11代錦島が14代時津風を襲名して部屋の師匠に就任し、13代時津風は年寄・13代立田川を再び襲名して10代立田山(元大関・大内山)などの親方だけを連れて弟子は1人も連れずに、1971年に時津風部屋から分家独立する形で立田川部屋を設立した。14代時津風は関脇・蔵間や、小結・豊山、大潮、双津竜、大豊などといった多くの関取を育て上げた。また、日本相撲協会では現役引退からわずか2年後の1970年2月に32歳の若さで理事に選出され、1998年からは理事長を2期4年務めた。また、開始時期は不明であるが、生活習慣病等の予防のため角界で珍しい1日3食制度を導入した。2002年8月に14代時津風が定年退職を迎えたため、時津風部屋の部屋付き親方である13代錦島(元小結・双津竜)が15代時津風を襲名して時津風部屋を継承した。その後、14代時津風の時代に入門してきた豊ノ島と時天空が幕内へ昇進した。15代時津風は弟子に「時(津)」「豊」「双」という字を含む四股名を付けることが多かった。しかし、2007年6月に起こった時津風部屋力士暴行死事件の責任を問われる形で、同年10月5日に15代時津風が日本相撲協会を解雇されたため、同年10月9日に時津風部屋の幕内力士である時津海が急遽現役を引退して、年寄・16代時津風を襲名して部屋の師匠に就任した。16代時津風が部屋を継承して以降は、15代時津風が解雇される前に入門してきた土佐豊と、16代時津風の直弟子である正代が幕内へ昇進している。14代および16代時津風の母校である東京農業大学相撲部は時津風部屋でも稽古を行うことがあるため、卒業後に角界入りする者はほとんどが時津風部屋に入門している。実際に豊ノ島以外の2人の現役関取経験力士は東京農大の出身である。時津風部屋には現在でも双葉山相撲道場の看板が掲げられている。現在までに、時津風部屋からは立田川部屋(現在は陸奥部屋に合併)・湊部屋・式秀部屋・荒汐部屋が分家独立を果たしている。時津風部屋力士暴行死事件に関連しては、15代時津風に対して日本相撲協会が事情聴取を行った際、時津風部屋へ駆け付けた報道陣に対して所属力士が憤慨してカメラマンに暴行を加える事件も発生している。その暴行死事件の約1~2ヶ月前に死亡した少年が母親に電話し、「部屋で数人がテーブルに200~300万円くらいの札束を置き、賭博をしているのを見た」と話していたということを、少年の父親が後になって証言した。 2010年6月に16代時津風と豊ノ島が野球賭博をしていた事実が発覚した(大相撲野球賭博問題)。当初、16代時津風は暴力団との交渉にもあたっていたと報道されたが、実際には交渉に参加せず車中で待機していたことが後に明らかになる。また、野球賭博も現役時代のみで引退後は行っていなかった。これを受けて、日本相撲協会は16代時津風に主任から最下位の平年寄への1階級降格と5年間の昇給見送りの処分を下した。また、同年7月7日には大相撲野球賭博問題に関連して、時津風部屋は警視庁からの家宅捜索を受けた。それに際して、捜索当日未明にNHK記者が警視庁による家宅捜索の情報を16代時津風に事前に携帯電話のEメールで連絡していたことをNHKが同年10月8日に発表し、同年11月2日にNHKはその報道局スポーツ部の男性記者を同年11月9日付で停職3ヶ月、監督責任として当時の福地茂雄会長を含む役員4人と報道局長ら上司5人の計9人を同年11月9日付で減給処分とすることを発表した。16代時津風はこの問題に対し「(メールへの)返信はしていないし、何もしていない」と説明し、Eメールの情報を受けて警視庁の家宅捜索に備えた証拠隠蔽などの行為はしなかったと述べた。双葉山が襲名する以前の年寄・時津風は大坂相撲の年寄名跡で、東西合併の際には小九紋竜梅吉が11代時津風を襲名していたものの、当人は行方不明の状態だった。1932年に11代時津風が復帰して時津風部屋を再興したが、1935年に粂川部屋に弟子を譲る形で時津風部屋を閉鎖した。11代時津風は1938年にも時津風部屋を再興したものの、1941年に年寄名跡・時津風を双葉山へ譲渡したため、再び時津風部屋は閉鎖されて所属力士は立浪部屋へ移籍した。この中には後の関脇・時津山がいた。
出典:wikipedia
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