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小笠原長房 (幡豆小笠原氏)

小笠原 長房(おがさわら ながふさ)は、南北朝時代の武将。一色氏の家臣。小笠原氏庶流の幡豆小笠原氏出身とされる。幡豆小笠原氏は小笠原長清の子伴野時長の系統に属し、弘安8年(1285年)11月17日の霜月騒動の際、時長の孫である長泰、その子盛時・長直らが戦死、残された一族が安達氏の領地であった三河国太陽寺荘(愛知県豊橋市)に逃れ、その後、足利氏・吉良氏との結び付きを強めるため、吉良氏領地に隣接する西方の幡豆郡に移り住んで成立したとされる。幡豆小笠原氏の初代・小笠原泰房は盛時の子とされるが、長房の父・泰行は泰房の子とも伴野長泰の子とも言われ確定していない。当初、長房は京都において足利尊氏の近侍を務めていたらしく、康永4年/興国6年(1345年)の天龍寺落慶供養の際、随兵として登場する。観応の擾乱の際は、信濃国守護小笠原政長の指揮下で足利直義軍と戦っている。一色氏の被官となった時期・経緯は不明だが、貞治5年/正平21年(1366年)に一色範光が若狭国守護となると、守護代に任命され若狭へ下向、一色氏領国化のために力を振るった。若狭の国人はこれに反発して、応安2年/正平24年(1369年)から応安4年/建徳2年(1371年)にかけ、三度にわたり「応安の国一揆」と呼ばれる蜂起を繰り返すが、いずれも長房や範光の子一色詮範が率いる軍勢に鎮圧された。嘉慶2年/元中5年(1388年)に一色範光が没し詮範が家督を継ぐと、三河及び尾張国知多郡の守護代職も兼務。同じ頃、剃髪した。応永4年9月17日没。

出典:wikipedia

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