水雷巡洋艦(すいらいじゅんようかん)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて建造された軍艦の一種である。水雷(この場合は特に魚雷)兵装を装備した中・小型の巡洋艦や大型の水雷艇が水雷巡洋艦と称され、各国の海軍で整備された。また、よく似た艦種に「水雷砲艦」があった。現代では完全に廃れている。水雷巡洋艦の整備は、水雷艇の大型化が著しくなった19世紀末から始められた。事実上、水雷巡洋艦は排水量400 - 700 tの大型水雷艇と呼ぶべき種類の艦艇であったが、従来の水雷艇が航洋性に限界を来たしていたのに対し、水雷巡洋艦は巡洋艦の名に相応しく外洋を航行できる性能を有していた。水雷巡洋艦の武装は、水雷艇に比べ強化された火砲装備と、より強力な水雷装備で特徴付けられていた。通常15 門までの47 mm以下の砲、あるいは2 - 3 門の75 mm砲と複数の魚雷発射管を搭載した。火砲の攻撃対象として想定されたのは当初は水雷艇であったが、やがて大型でより強力な水雷艇駆逐艦も含められるようになった。任務は敵戦艦・巡洋艦に対する水雷攻撃、および敵水雷艇による水雷攻撃の除去と偵察で、水雷艇と巡洋艦の双方の任務を兼ねる汎用性が求められた。海軍における水雷巡洋艦の等級は国によって違っており、例えばイギリスでは三等巡洋艦に分類していたが、ロシア帝国では二等巡洋艦と同級の二等艦船に分類していた。配備状況は、1897年の時点でオーストリア=ハンガリー帝国が7 隻、イギリスが30 隻、スペインが10 隻、イタリアが15 隻、ロシア帝国が9 隻、フランスが10 隻、アメリカ合衆国が2 隻、大日本帝国が1 隻保有していた。のちに水雷艇が大型化し水雷艇駆逐艦、ひいては駆逐艦となると、性格的にこれと競合する事となった。また、他の巡洋艦も水雷兵装を搭載するようになり、中途半端な形となった水雷巡洋艦はその存在意義が失われ、第一次世界大戦までには他艦種に変更されるなどして消滅した。ロシアで最初の水雷巡洋艦()は、1885年に起工したレイテナーント・イリイーンであった。レイテナーント・イリイーンは1886年6月12日には進水し、1887年には竣工した。この艦はフランスの水雷巡洋艦コンドルを手本にしていたが、装甲甲板の厚みは2倍になり、排水量は逆にほぼ半分であった。ロシア帝国海軍では、水雷巡洋艦を主力艦隊の補助勢力として整備するとともに、黒海向けの小型巡洋艦としての任務も負わせることとした。黒海艦隊では、大型の装甲巡洋艦や防護巡洋艦のかわりに水雷巡洋艦に艦隊の中堅としての重責が与えられ、20世紀に入るまで新しい大型巡洋艦の配備は行われなかった。水雷巡洋艦はロシア帝国海軍では正式な艦種類別の名称で、二等巡洋艦などとともに二等艦船()に分類されていた。1907年10月10日には、海軍の艦船類別改正が実施された。このとき水雷巡洋艦という艦種は廃止され19世紀に建造された古い艦は通報艦に、20世紀に入ってから建造された新しい艦は大型の水雷艇や駆逐艦とともに艦隊水雷艇()に移行された。1889年から1896年の間に、以下の9 隻の水雷巡洋艦が建造された。これらは、1907年の改正で通報艦に変更された。アーブレクは、ロシア帝国海軍の主力水雷艇として整備されていたソーコル級水雷艇駆逐艦を駆逐できるような能力を求めて設計された強力な水雷巡洋艦であったが1 隻の建造で終わり、以降10年近くにわたって水雷巡洋艦の整備は見送られた。以下の艦は、いずれもドイツ帝国で設計された準同型艦である。1907年10月10日の改正で艦隊水雷艇に類別された。水雷巡洋艦に類似するものとして、日本海軍の軽巡洋艦、北上・大井が太平洋戦争中に重雷装艦に改装されている。主砲の一部を撤去する代わりに、魚雷発射管を大量に装備した。当時旧式化していた軽巡洋艦の有効活用と、酸素魚雷の実用化で魚雷の能力(射程)が飛躍的に高まったのが、改装の意図であった。しかし航空機が活躍するなど、従来の海戦と様相が変化した太平洋戦争において、実際の役に立つ事は無かった。
出典:wikipedia
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