宮田 征典(みやた ゆきのり、1939年11月4日 - 2006年7月13日)は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者。日本野球界におけるリリーフ専門投手の草分け的存在で「8時半の男」と呼ばれた。種部儀康は義兄。子供の頃は利根川でよく泳ぎ、小学校5年生から中学生までは水泳部に所属するほど水泳好きだったが、中学校でいとこに誘われたことをきっかけに野球を始める。前橋高校では王貞治を擁する早稲田実業と練習試合で対戦して完封勝ちし、その名が知られるようになる。しかし、病気により3年生の時にはあまり試合で投げることはできなかった。に日本大学へ進学する。2年生のの秋期リーグで7勝0敗で最高殊勲選手となるなど、東都大学リーグで3度優勝。4年生のには主将となり、全日本大学野球選手権大会では決勝でエースの村瀬広基を擁する関西大学を降し、東都大学リーグ代表として初優勝した。リーグ通算54試合登板、24勝16敗、防御率1.56、194奪三振。最高殊勲選手に2度選ばれている。大学同期に竹中惇(中日)、大畠康嘉(国鉄)がいた。に読売ジャイアンツに入団。日大卒業後は日立製作所に就職するつもりだったが、巨人と仮契約を結んでいた日大同級生の竹中惇が中日ドラゴンズに引き抜かれたため、代わりの選手を求める川上哲治監督の要望により宮田が入団することになった。この時、日大の監督であった香椎瑞穂は宮田について、選手としてはともかくマネージメントをやらせれば立派に働ける旨を、巨人のスカウトに伝えた。なお、一方の宮田は3年で辞めて実家に戻るつもりだったという。1962年は開幕の一軍メンバーから漏れるが、イースタンリーグで6勝を挙げて、6月に一軍に昇格。4試合の先発登板も経験し、2勝を挙げる。同年オフに宮田が心臓疾患を患い、先発投手として長いイニングを投げること困難になったため、監督の川上哲治は宮田を救援投手に専念させることに決める。は46試合に救援登板して、交代完了はリーグトップの25試合を数え、6勝4敗、防御率1.88を記録した。この年の救援投手としてフル回転ぶりは「ON砲に一発がない日があっても宮田がブルペンにいないときはない」と言われるほどで、川上からも「宮田の6勝は15勝以上の価値がある」と評された。当時はセーブ制度がなく先発中心の時代で、リリーフ投手が登板する試合は敗戦試合であることが往々にしてあったが、宮田は同点試合・勝利試合に多く登板した。は救援投手として投げる傍らで、先発投手陣の不調から5月に入ると先発投手もこなし、5月下旬までに6勝を重ね防御率もリーグトップにあった。しかし、5月22日の阪神タイガース戦で投球時に右肩を亜脱臼し戦線離脱。父親に脱臼を報告するとそのまま辞めて家業を継ぐように言われるが、その言葉に反発する。まず故障した原因を考え、それが肩回りの筋力が弱いことだと判ると、鉄アレイや自作の器具でトレーニングを積み、その結果抜群の制球力を得る。は故障も癒えて救援投手として獅子奮迅の活躍で、8月半ばまでに17勝2敗の好成績を挙げる。8月末以降疲労により調子を崩すが、最終的に69試合に登板し20勝(うちリリーフで19勝、さらに現在の規定ならば22セーブ)、防御率2.07(リーグ4位)の好成績を収め、交代完了46試合は当時の日本プロ野球記録であった。400勝を目指す現役晩年の金田正一の後を受けてロングリリーフすることも多く、登板イニング数が伸びた一因と思われる。後楽園球場の場内アナウンスを担当していた務台鶴が、宮田が登板する時間帯が午後8時30分(8時半)前後であることに気づき、「宮田さんは、よく8時半頃に登板するのね」と発言したことがきっかけになり、8時半の男のニックネームが付けられた。20勝目は10月6日阪神タイガース戦で、8回から2イニングを走者を出さずに抑えて達成した。同年の最優秀選手は本塁打王・打点王の二冠を獲得した王にわずか5票差で掠われるが、監督の川上は親しい記者に「宮田にやれなかったのか」と漏らしたほどであったという。それまでリリーフはエースかさもなければ先発をこなせない二線級投手が担っていたが、この年の宮田の活躍によりリリーフ専門投手が脚光を浴びるようになった。また、同年の日本シリーズでは3試合に救援登板して無失点に抑え、最優秀投手賞に選ばれている。は前年度の酷使の影響で調子が上がらない中で、6月中旬までに5勝を重ねる。宮田は疲れを取るためにインスリン注射を打っていたが、その副作用で食事の量が増え動物性脂肪肝となり、6月末から9月末までの長期間の入院を余儀なくされた。結局7月以降出場機会はなく、わずか15試合の登板に終わる。は5月16日までは2勝1敗、防御率0.64と開幕当初は好調であった。5月末以降肝機能障害により調子を崩し、救援に次々失敗して6月中旬には二軍落ちし、シーズンでは2勝5敗、防御率5.21に終わる。は春の宮崎キャンプで右肘を故障、右腕の血行障害もあり、シーズン当初は二軍暮らしとなる。6月後半から一軍に昇格すると、勝ち試合の終盤でしばしば起用され「8時半の男復活」と呼ばれた。シーズン途中から戦列復帰であったが、30試合に登板して交代完了は21試合に及び、3勝2敗、防御率3.38を記録した。はシーズンを通して調子が上がらず、投手として通用しないことを悟るとオールスター戦後は毎日のようにフリーバッティングの打撃投手を務め、最後までチームに尽くそうとした。同年限りで現役を引退。引退後はからまでアール・エフ・ラジオ日本解説者。に巨人の一軍投手コーチに就任するが最下位に低迷し、翌は二軍投手コーチを務め解任された。その後は卓越した投球理論や投手育成法が評価され、日本ハム( - 二軍投手コーチ)、西武(一軍投手コーチ, 二軍投手コーチ)、巨人( - 二軍投手コーチ、 - ・一軍投手コーチ, 二軍投手総合コーチ, 一・二軍統括投手総合コーチ)、中日(一軍投手コーチ)でコーチを歴任。西武時代には当時若手であった工藤公康・郭泰源を指導したほか、年齢の壁にぶつかっていた高橋直樹を立ち直らせた。工藤は球速を10キロアップさせ、エースへと成長した。巨人ではコーチ2期目に桑田真澄を立ち直らせ、3期目には上原浩治らを指導した。中日のコーチになったのは星野仙一監督に招聘されたものであり、ルーキー時代の川上憲伸や、肩の故障から伸び悩んでいた野口茂樹らを指導。野口は1998年14勝、防御率トップのエース級へ育てた。3年連続で4点台と低迷していたチーム防御率を3.14とした(12球団1位)。中日のコーチを体調不良を理由に1年で辞任、その後巨人の投手コーチに復活したが星野によると巨人の上層部から「なぜ中日のピッチャーが急によくなったんだ。なぜ宮田を出した。絶対に奪い返せ」という大号令があったのだという。木田優夫は「宮田さんには、つきっきりで投げ方の指導や、すべてを教わりました。1年目が終わったオフは12月末まで練習して、1月5日くらいから始動。マンツーマンでもうキャッチボールの初球から「投げ方が違う!」と怒られました。それくらい徹底して教えてもらいました。また、抑え投手のルーティンなどが書かれたメモも見せてもらうなど、いろいろ教えてもらいましたね。」と述べている。巨人で選手、コーチで同僚だった関本四十四は「コーチとしても素晴らしい再生屋だった。一度フォームをバラバラに解体して、投手を作り直す。オレも巨人で一緒に投手コーチをやったが、宮田さんの見事な再生屋ぶりには、感嘆するしかなかったね。今でこそ誰も持っている、チャックのついた手帳を最初に使ったのも、宮田さんだった。ブルペンでの投球数から始まり、事細かに書き付けた宮田さんのチャック付きの手帳は、これまた元祖だったね。」と述べている。広島の長谷川昌幸も低迷時に球団の了承のもと当時解説者の宮田の指導を仰ぎ、翌年二桁勝利を挙げた。コーチ業の合間を縫って日本テレビ、中京テレビ放送、東海ラジオ放送(1997年)、文化放送で解説者としても活動した。よく球場へ出向き、自分の教え子達にアドバイスを行っていた。引退後は郷里の群馬県の赤城山麓に練習所を構え、少年野球の指導を行うなど、野球の発展にも力を尽くした。2006年7月13日午後2時11分、肝不全のため前橋市内の病院で死去。。どんなピンチであっても顔色一つ変えないポーカーフェイスで、打者の心理を巧みに読むことを得意とした。持ち前の伸びのある直球、ドロップの握りを微妙に変えて様々に変化させる「ミヤボール」、そして正確な制球力が武器であった。宮田自身によるとミヤボールはシンカーに近いカーブであったという。宮田自身は発作性心臓頻脈症の持病を持っていたために100球以上投げられず、先発投手としては厳しい状況であった為、投手コーチであった藤田元司と協議して救援投手を専門とすることになった。自身の心臓の持病の影響で1球ごとの間合いを長く取って投げるのが特徴であった。このことは打者のタイミングを外すのに効果的であったが、他球団からは宮田の投球は公認野球規則の8.04に抵触していると批判が上がった。救援投手に専念するようになってから、5-6分、球数にして10-20球という、極めて短い時間のウォーミングアップで肩を作ることが出来、登板の準備ができたという。「8時半の男」は、宮田本人も大変気に入っていたネーミングであったようで、求められるサインには必ず「8時半の男」と記していた。コーチ時代はどの球団でも背番号「85」をつけていたがこれは宮田の希望で「8」時+半分、つまり5割の「5」=「8時半」の意味を含んでいた。
出典:wikipedia
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