岩手・宮城内陸地震(いわて・みやぎないりくじしん)は、2008年(平成20年)6月14日(土)午前8時43分(JST)頃に岩手県内陸南部(仙台市の北約90km、東京の北北東約390km)で発生した、マグニチュード7.2 の大地震。岩手県奥州市と宮城県栗原市において最大震度6強を観測し、両市を中心に被害が発生した。被害の特徴として、同じ規模の地震と比較して、建物被害が少なく土砂災害が多いことが挙げられる。気象庁はこの地震を平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震()と命名した。広範囲にわたり揺れが感じられ、震度3以上を観測した地域は宮城県、岩手県、秋田県、山形県、福島県、青森県、栃木県、茨城県、新潟県、千葉県、埼玉県、東京都、北海道、神奈川県、群馬県である。前日6月13日14時頃、42分前の6月14日8時01分頃 M0.6 と 32分前の8時11分頃 M1.6の前震と見られる地震が観測されている。また、1999年および2000年にはM4~5程度の地震も発生している。地震発生から7月14日8時までの間に震度1以上の余震が511回発生している。うち、震度5弱以上の余震は本震の約40分後に発生した最大余震の1回のみだった。この地震を発生させた断層は、地震発生当時には存在が確認されていなかったが、詳細な調査を行った結果、余震域東縁で断続的な約20kmの地震地表断層の出現を確認した。多くの地表断層は西側上がりの上下変位と東西短縮の変位で、最大変位量は50cm程度であった。人工衛星による合成開口レーダー(SAR) 画像の解析によると、岩手県奥州市胆沢区付近から、宮城県栗原市西北部の花山周辺に至る北北東-南南東方向の長さ約30km、幅約10kmの帯状の地域に断続的に地殻変動の集中を示す状態が見いだされた。断層の全ての区間が一回で一様に活動した地震では無く、最初は深いところで滑り数日かけて表層部が余効的に動いたと解析されている。なお、東京大学地震研究所の島崎邦彦は、この地震は地下の震源断層の情報が地表の明瞭な活断層地形として現れておらず、新たな評価方法が必要であると論じている。また、現地での調査により、岩手県一関市厳美町で約3kmに渡って南北に長い地面の「ずれ」が発見されるなど、震源域東縁の南北約20kmにわたり断続的に「ずれ」が確認された。これらは主に西側が隆起する逆断層の性質を示しており、地震によって発生した断層のずれが地表に現れたもの(地表地震断層)だと見られている。また、この地震を発生させた断層と隣接している北上低地西縁断層帯との関係、特に同断層帯南端の出店断層帯との関係については、同じ断層帯に属するという意見と、異なる断層であるという意見とに分かれている。ただ、余震の分布から、断層面が北西に行くほど深くなっており、南西にいくほど断層面が深くなる出店断層とは異なる断層であるとする見方がされた。また、今回の地震の震源域を含めた、奥羽山脈沿いの地域や男鹿半島から牡鹿半島にかけての地域には、男鹿牡鹿構造帯があることが知られている。。この地震の震源域の周辺で起きた同規模の地震には、1896年の陸羽地震(M7.2)、1897年の宮城県沖地震(M7.4)、1936年の宮城県沖地震(M7.4)、1978年の宮城県沖地震(M7.4)、2003年の三陸南地震(M7.1)、2005年の宮城県沖地震(M7.2)などがある。また、1962年、1996年、2003年にはそれぞれM6.0 - M6.5程度の宮城県北部地震が発生している。地震計や電子基準点などにより観測された、主な地震前後の変位(観測地点の移動)を以下に並べる。(岩崎観測点を基準、小数第1位で四捨五入、単位はcm)本震前後に余震域内外での温泉の変動生じていた事が報告されている。震源の浅い内陸直下型地震の被害の傾向として、建物の倒壊などによる被害が少なく、栗駒山周辺をはじめとした山体崩壊や土砂崩れ、河道閉塞が多かった。また、0.5 秒以下の極短周期成分の震動が卓越し、建物の大きな被害を引き起こすとされる 1-2 秒の震動成分が小さかった事が、震度の割に建物被害の少かった原因と考えられている。この地震により少なくとも17名が死亡、6名が行方不明となり、負傷者は448名にのぼっている。犠牲者の中には観光・交流プランナーの麦屋弥生、交通史家の岸由一郎も含まれていた。死者の死亡原因は落石(2名)、土砂崩れ(3名)、土石流(5名)、車両埋没(1名)、地震に驚き道路に飛び出し交通事故(1名)など。また、仙台市青葉区で崩れ落ちた書籍の下敷きになり、男性1名が死亡した。当初地震との関与は不明とされていたが、2008年7月10日、宮城県警より死因が大量の本による窒息死であったこと、また、宮城県災害復旧対策本部により災害死と認定されたことが正式に発表された。さらに、福島県いわき市で釣り人1人が崖崩れに巻き込まれて死亡した。福島県下で地震による死者が出たのは、丁度30年前の宮城県沖地震以来である。奥州市ではバスが転覆し、がけへと転落した。宮城県名取市では社員旅行で石巻市から仙台空港へ向かっていたバスが仙台東部道路の新名取川橋を走行中に4-5回バウンドし、2人が入院、22人が軽傷を負った。地震による原子力発電所の停止はなかった。揺れによって、福島第二原子力発電所4号機において使用済み核燃料プールから飛び散った多少の水が発見されたものの、所外周辺地域への放射性物質による汚染はなかった。岩手県一関市の国道342号に架かる祭畤(まつるべ)大橋周辺の大規模な斜面崩壊により、秋田側の橋台と橋脚、橋げたが宮城側に約10メートル移動。これに伴い、宮城側の橋脚の上部が折れ、支えを失った橋げたが折れ曲がる形で沈み込み、さらに、宮城側橋脚の中間部も壊れたことで、曲がった橋げたの一部が川底に落ちる形で転落した。岩手県平泉町の中尊寺では、国の重要文化財に指定されている釈尊院五輪塔が一部破損した。本堂前にある表門も激しい振動でゆがんだ。岩手県内の国指定文化財被害は2件。世界遺産登録を目指す「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」(平泉町、一関市、奥州市)のうち、国の史跡に指定されている骨寺村荘園遺跡で山王窟(さんのうのいわや)の山すその表土が崩れ、駒形根神社の鳥居が傾いた。北上市では、国の史跡の江釣子古墳群で石室の一部が崩れているのが確認された。奥州市の石淵ダム(北上川水系胆沢川)は地震の揺れで堤体が変形した事から緊急放水を行った。また通常より多い漏水が確認された。宮城県教委によると、県内の国指定文化財は重要文化財6件、史跡3件、史跡・名勝1件が被災。登録有形文化財3件、県指定文化財5件も破損。震源に近い栗原、大崎両市のほか、仙台、登米、名取各市と蔵王町でも1件ずつ被害。栗原市築館の双林寺にある薬師堂では、国の重要文化財「木造薬師如来坐像」「持国天立像」の仏像2体が破損。同市花山温湯地区にある国の史跡「仙台藩花山村寒湯番所跡」では門の両脇にある石垣が崩れるなどした。大崎市岩出山町の有備館(国の史跡及び名勝)では、建物の柱や壁にひびが入っているのが見つかった。栗原市鴬沢にある国の近代化産業遺産で映画「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のロケ地となった細倉鉱山の佐野社宅が一部被災したが、倒壊は免れた。地震動の周期が短く、木造住宅を壊す周期1秒前後の「キラーパルス」が少なかったために木造住宅の被害が少なかったこと、この地域では屋根に軽いトタンを用いている家屋が多いため、屋根による家屋の押し潰しが少なかったことが、地震の規模に対して家屋の倒壊被害を少なくしたのではないかと専門家が見解を述べている。ひとめぼれ(米)、イワナ、雷峰(イチゴ)など多数にわたり甚大な被害が発生した。岩手・宮城両県で350施設の宿泊状況を調べたところ、宿泊キャンセルが2万人になることが分かった(2008年6月20日)。被災地域の岩手県平泉町と一関市および宮城県栗原市が、仙台・宮城デスティネーションキャンペーン(2008年10月1日 - 12月31日)の参加自治体に含まれるため、当該市町および周辺への風評被害の対応が宮城県議会では問題となっている(岩手県は同DCの参加団体ではないため県議会において問題とされていない)。荒砥沢ダム上流の崩落地の最大落差は148m。また、この崩落地の中で、土砂が水平距離で300m以上も移動した箇所も確認されている。崩落により荒砥沢ダムには津波が発生したが、崩落土砂の量がダム貯水容量の1割程度だったことや、梅雨入りを前に貯水量を下げていたこともあって、津波がダムの堤体を越えることはなく、「第二のバイオントダムとならずに済んだ」と研究者が語っている。岩手・宮城内陸地震に伴う地殻変動が、東北地方に設置されている電子基準点(GPS連続観測点)で検出。水平変動は、秋田県湯沢市で東南東方向へ約29cm、岩手県平泉町で西北西へ約15cm。なお、震央付近の宮城県栗原市のデータは、6月14日16時30分現在取得不能。土砂崩れや地滑りによる国有林の被害額が、約417億円に上ると発表。震源に近い宮城県栗原市と岩手県一関市の被害がほとんど。内訳は、林地被害が22カ所で被害額約413億円。林道被害が83カ所で約4億円。被災した林地は天然林が多く、額の大半は復旧工事費が占める。栗原市の荒砥沢ダム上流の大規模な土砂崩落現場なども国有林8月30日の発表によると、不安定な状態にある土砂が1.2億立方メートルある。内容は荒砥沢ダムで6,700万立方メートル、岩手県磐井川上流域で1,560万立方メートルである。特に河川の上流域をみると全体面積の4.1%になり、極めて高い危険な状態である。(磐井川は一関市の中心部を通り、もし崩壊すれば東北自動車道、東北新幹線、東北本線、国道4号線などを直撃する。荒砥沢ダムの崩壊も同様の結果を招く。迂回路はJR気仙沼線と国道45号線だけである。)プロ野球では、当日仙台市のクリネックススタジアム宮城で予定されていたセ・パ交流戦・東北楽天ゴールデンイーグルス対読売ジャイアンツ戦が中止となった。球場施設の被害がほとんどなかった関係で、始めは試合開始時刻を当初の14時より1時間繰り下げ、15時開始で行うことを発表したものの、観客の安全や交通機関の確保が出来ないことを理由に、最終的には中止を決定。翌々日(16日)に振替試合が行われた。地震による公式試合の中止は日本プロ野球史上初である。本震に対して、気象庁は初期微動(P波)を検知した4秒後の段階で一般向け緊急地震速報(警報)を発表した。一般向けの速報が発表されたのは3例目で、震源近くでは間に合わなかったものの震度4以上を観測した広い地域に揺れが到達する数秒から数十秒前に伝わった。当初の強い揺れが予想される地域は、岩手・宮城・秋田・山形各県であったが、その後規模が修正され、新たに青森・福島・新潟各県が追加された。NHK総合では、NHK週刊ニュースが放送されており、速報発表を受け放送中だったニュースのVTRを中断し、強い揺れに警戒するよう呼びかけ続けた(そのまま臨時ニュース、全波一斉放送【八波全中とも】へ)。さらに、6月14日9時20分と12時27分の余震でも、一般向け緊急地震速報(警報)が発表された。通常の震度速報は、本震と12時27分の余震では、震度を優先(震源を特定次第通知)して伝えられたが、9時20分の余震の際には、市町村震度(震源が特定されている)状態で発表された。主要民放は殆どが在阪局制作の生番組を放送していたが、発表対象となった東北地方の緊急地震速報を放送できなかった為、地震情報の発表が地震の第1報となり、その後は報道特番に切り替わった。2008年6月14日午前8時43分に地震が発生すると、日本政府は即座に対応を開始した。消防庁は地震発生とほぼ同時に災害対策本部を起ち上げ、警察庁も発生から1分後に災害警備本部を起ち上げた。発生から7分後の午前8時50分には総理大臣官邸危機管理センター官邸対策室、内閣府災害対策室、防衛省災害連絡室、海上保安庁地震災害対策本部がそれぞれ設置された。内閣総理大臣の福田康夫の下には午前8時50分に内閣総理大臣秘書官から連絡が入り、福田は「被災状況の早期把握、迅速な広報、被災者などがある場合は救助に全力を挙げるように」と指示、午前8時59分には陸上自衛隊八戸駐屯地からヘリコプターを派遣した。内閣府特命担当大臣(防災担当)泉信也を団長とする政府調査団は、午前11時38分に防衛省を出発し、午後1時35分に一関市に到着し、政府現地連絡対策室を栗原市に設置した。福田は官邸対策室で陣頭指揮を執り、午後には内閣危機管理監伊藤哲朗らに「現地では日没が迫っている。警察、自衛隊などのヘリコプターを効果的に運用し、状況把握に努め、救出活動に全力を挙げてほしい」と指示した。同日夕、被災地からの泉の報告を受けた福田は、夜間も現地での行方不明者捜索や被害確認の継続を指示した。また、首相の被災地視察については、震災直後に訪れれば現場の人員を割くことになり現地が混乱するとの判断から、被災直後の視察は見送り、あくまで救援活動を最優先している。この判断は、新潟県中越沖地震発生当日に当時の首相が現地視察を実施し、危機管理や救援活動優先の観点から問題となった教訓を生かしたものである。6月15日には国土交通大臣冬柴鐵三らが被災地に派遣された。帰京した泉は福田と会談し被害状況の詳細を報告し、福田は行方不明者救出に加えライフライン復旧と地震によりせき止め湖化した磐井川への対応を指示した。6月16日朝には、福田は関係する国務大臣全員を首相官邸に招集し、関係閣僚会議を開催した。各閣僚から被害と復旧の状況が報告され、福田からは行方不明者救出と、電気や水道など生活物資補給路の復旧を進めるよう指示がなされた。消防を所管する総務大臣増田寛也が現地に派遣され、消防庁長官荒木慶司も同行した。6月18日には内閣総理大臣福田康夫が被災地を視察し、被害を受けた道路やダムを確認するとともに復旧支援活動に取り組むスタッフや被災者を激励した。さらに「水や電気を心配している人がたくさんいた。市と県を国が全力で支える」、「道路の復旧。河川を元通りにする。全力を挙げたい」と述べ、ライフラインや道路など生活基盤の復旧に国として全力を挙げる意向を示した。情報発信の面においては、官邸をはじめとする各省庁を凌駕する迅速さで内閣府が防災情報のページにおいて政府の対応状況について情報発信を行ったことが今回の特徴といえる。また、同ページにおいては、内閣府特命担当大臣(防災担当)泉信也が国会にて読み上げる原稿をも公開、するなど透明性を徹底して追求するなど従来の政府の対応とは一線を画するものとして賞賛の声がある。さらに、内閣府においては中央省庁初の試みとして、ブログによる災害時における情報発信の準備がなされるなど革新的な動きが見られる。7月9日、福田康夫内閣は政令を公布し、一関市、奥州市、栗原市に対し激甚災害指定を行った。地震発生当日の6月14日だけで、警察庁は広域緊急援助隊約270人、消防庁は緊急消防援助隊790名、厚生労働省は災害派遣医療チーム(DMAT)36チームを、それぞれ被災地に派遣した。防衛省では人員約360名、車両約90両、航空機23機を投入し、海上保安庁も、巡視船艇25隻、航空機10機、羽田特殊救難基地の1隊で対応した。道路が土砂災害などで寸断し孤立した集落は、自衛隊や海保などのヘリを総動員して、ほとんどの住民を市街へと搬送し、残された集落には必要物資を空中輸送した。このうち最も人員を派遣した消防庁は北海道・青森県・宮城県・秋田県・山形県・福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京消防庁・神奈川県・新潟県・富山県・石川県・山梨県から緊急消防援助隊として陸上部隊が最大時204隊825名、消防防災ヘリコプター16機を出動させ、岩手県奥州市及び一関市、宮城県栗原市等で捜索・救助に従事し、6日間で約156名を救出した。発生から1日経った6月15日は、警察庁の広域緊急援助隊276人、消防庁の緊急消防援助隊200隊815名、防衛省の人員1076名、車両280両、航空機26機が対応にあたった。農林水産省はヘリコプターによる林地の崩壊状況の調査を実施し、厚生労働省は被災者の心理的被害の軽減を図るため専門家や担当官を派遣した。宇宙航空研究開発機構は陸域観測技術衛星「だいち」による緊急観測を実施し被災地の画像を撮影した。国土交通省は6月14日から15日にかけて緊急災害対策派遣隊73班延べ183名を投入し、石淵ダムの水位変異や河川閉塞の対応に当たった。6月16日には、文部科学省は調査団3名を派遣し、警察庁は遺族支援のため臨床心理士ら約10人、避難所の相談活動のため宮城県警察の女性警察官ら十数人を派遣、農林水産省は被災した国道342号の迂回路とするため林道復旧緊急整備を開始し、国土地理院は被災地の空中撮影を実施した。国土交通省の緊急災害対策派遣隊はさらに増強され、地震による土砂で発生した天然ダムが決壊する危険のある捜索現場には、遠隔操作可能な無人ショベルカーを投入した。国道398号の復旧作業により、午後からは緊急車両等のみ通行可能となった。なお、防衛省による孤立者の搬送作業は、ほぼ完了した。6月17日には、警察庁は岩手県警察の女性警察官5名を相談活動のため派遣、防衛省は前日と同規模で活動を継続した。国土交通省は緊急災害対策派遣隊をさらに増強し93班258名で活動し、天然ダム3ヶ所を緊急直轄事業として決壊防止工事を実施し、磐井川には監視カメラを設置、迫川については工事の調査を開始した。農林水産省は国道342号の迂回路、国道398号の緊急復旧工事の資材運搬路とするため、林道の緊急整備を実施した。6月18日には、防衛省はさらに規模を増加し入浴支援などを実施、農林水産省は二次災害防止の緊急対応として土石流センサーでの監視や観測機器の設置に着手、国土交通省は直轄緊急事業として河川の閉塞した3ヶ所に通信機器を設置、土砂災害危険個所1098ヶ所の緊急点検を実施した。また、通行規制のあった県道は一部緊急車両の通行が可能になった。6月19日より東北地方は梅雨入りしたため、気象庁は栗原市災害対策本部などに荒天時の災害応急活動の中止を助言した。また、霧の発生によりヘリコプターでの人員輸送ができず、栗原市の捜索をいったん中断した。防衛省は人命救助、給水、入浴、給食支援や天然ダム対策用の発電機の輸送を実施、農林水産省は、栗原市や奥州市に灌漑用の災害応急用ポンプを設置した。国土交通省の緊急災害対策派遣隊は、道路の被災調査がほぼ完了したため、各自治体に結果を報告した。河川閉塞に対応するため直轄緊急工事として監視カメラ増設し、ポンプ2台を稼働させた。土砂災害危険箇所2756ヶ所のうち2035ヶ所での緊急点検を終えた。しかし、雨により作業は困難となっており、二次災害防止のため、政府現地連絡対策室は関係機関との間で河道閉塞、砂防の危険箇所や対策について情報共有を図っている。6月20日には、総務省は地方交付税の繰上げ交付を決定、警察庁は宮城県警察にて地域警戒警ら隊を臨時編成し、被災地域での警戒活動を実施、岩手県警察でも同内容を実施し、厚生労働省は全聴覚障害者の安否確認を完了し、防衛省は東北地方以外の地域から増派し、給水、入浴、給食支援の要請増加に対応した。国土交通省の緊急災害対策派遣隊は160名体制を維持し、危険箇所の調査、点検をほぼ終え、応急復旧工事への技術指導などの支援が主な活動となった。県管理道路の通行止めは18区間に減少、岩手県一関市市野々原の河川閉塞は仮排水路の暫定掘削が完了し、排水路をさらに深くする工事を24時間体制で実施、土砂災害危険箇所2771ヶ所の点検が終了した。農林水産省は、磐井川流域で直轄地すべり防止工事を災害関連緊急事業として実施し、国有林林道の崩土除去や土石流センサーの設置や監視を継続している。6月21日は、国土交通省は天然ダムの仮排水路整備を進め、一関市市野々原では午後0時30分より仮排水路からの排水が開始され、一関市産女、栗原市温湯、栗駒沼倉でも着手することとなった。なお、栗駒ダム上流の天然ダムのうち1ヶ所から水が溢れたため、午前0時30分頃から栗駒ダムへの流入水量が急増し午前1時20分頃には毎秒100立方メートルを記録したが、栗駒ダムやその上流の天然ダムの決壊は免れた。6月22日も天候が悪く陸上自衛隊の捜索活動は難航した。なお、6月22日をもって陸上自衛隊の捜索活動は終了し、23日以降は宮城県警察や地元の消防を中心とした捜索活動が開始された。陸上自衛隊の撤収時には、避難所の住民らが沿道に駆けつけ自衛官らを見送る姿が見られた。地震発生当日、今上天皇並びに皇后は全国植樹祭出席の為、東京国際空港から特別機で秋田県に向かっていたが、地震の発生を知ると宮内庁を通じ「災害対策を優先してほしい」と要望した。これを受け、秋田県知事寺田典城の出迎えや県勢概要説明は中止となり、天皇に随行していた警察庁長官吉村博人らにより地震の被害状況説明が行われ、天皇は地図で被災地の詳細を確認した。また、北秋田地域振興局では職員から県内の被害状況の説明を受け、天皇は地図を広げ被災地を一つ一つ確認した。天皇は寺田に対し「しっかりやって戴いて有難う。抜かりのないように」と声を掛けた。翌日の全国植樹祭にて、天皇は「行方不明になった人々が、速やかに救出されることを念じており、遺族や災害を受けた人々の悲しみや苦しみに、深く思いを致しております。一刻も早く、人々の生活の平安が取り戻されることを願っています」と述べた。また、16日には岩手県と宮城県に対し見舞金を贈った。2008年7月20日、文仁親王並びに親王妃紀子が、宮城県栗原市と岩手県一関市の避難所を訪問し、被災者を励ました。2008年6月14日午前8時43分の地震発生とほぼ同時に、岩手県庁では災害対策本部を設置した。午前10時50分には、岩手県知事達増拓也より災害派遣要請がなされた。ただし地震発生時、知事はブラジルへ出張中だったため、副知事を中心に対応に当たった。メディア関係では、地震発生と同時に奥州市のコミュニティ放送局である奥州エフエム放送が通常放送を取り止め、地震関連特別放送を数日間にわたり実施。災害やライフライン関係の報道を随時行うことにより、民心の安定に貢献した。岩手・宮城内陸地震の2日前にあたる2008年6月12日は、1978年宮城県沖地震から30年であったため、同日に至るまで連日ローカルニュース内で防災特集が組まれていた。また同日には、県主催の大規模な防災訓練や各学校・企業で避難訓練が行われ、朝から晩まで新聞・テレビ・ラジオで地震対策の報道がなされていた。テレビでは夕方ワイド番組内で特集が組まれたり、夕方およびゴールデンタイムに全国放送の代わりにローカル番組の地震・津波特別番組を放送する局があったりした。2008年6月14日午前8時43分の地震発生とほぼ同時に、宮城県庁では災害対策本部を設置し、午前10時49分には現地対策本部を設置した。午前11時には、宮城県知事村井嘉浩より災害派遣要請がなされた。6月19日午前9時、宮城県庁は緊急消防援助隊への応援要請の解除を消防庁長官に報告し、消防庁もこれを諒承した。6月20日、宮城県栗原市栗駒、花山の復旧対策を直轄事業として実施するよう宮城県知事より農林水産大臣に要請がなされた。6月22日で陸上自衛隊は活動を終え、23日以降は宮城県警察や地元消防を中心に捜索活動を継続することとなり、村井は「栗原市長からは『最後の1人まで』と要請があったが、生存者がいる可能性が低い状況を考えると、自衛隊に本来の任務以外のところで無理をお願いするのは難しいと判断した。苦渋の選択だった。これからは自衛隊にしかできない仕事で協力を要請してゆく」と述べた。約1カ月前に四川大地震が起きたこともあり、外国メディアも高い関心を示した。ロイター通信は地震発生から約5分後に「東北地方で地震が発生」と伝え、その後も逐一速報したほか、AP通信やBBCなど詳細な報道が行われた。
出典:wikipedia
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