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高山正行

高山 正行(たかやま まさゆき、1942年(昭和17年)- )は、日本最初のプロ和太鼓奏者。越前龍天太鼓宗家。福井県出身。1965年(昭和40年)当時、大手芸能事務所であった「関西プロダクション株式会社」にスカウトされ、1966年(昭和41年)、大阪市内において日本芸能界初となるプロの本格的和太鼓集団「王将太鼓」を結成し吉本興業舞台デビュー。一躍看板的な存在となり数々の主要舞台に立った。後年は活動の中心を北陸地方に移し、和太鼓チームの結成や指導などに数多く携わっている。「福井県太鼓協会」創立者(38歳当時)。夫人は大手婦人雑誌社の元モデルで、元福井放送アナウンサー。また、映画制作者(大映社長)でプロ野球団オーナーの永田雅一は夫人方の縁戚にあたる。福井県伝統の「三ツ打ち」をはじめ「一本打ち」「十四日(四分六打ち)(≒早打ち)」など多種多様な「地打ち(≒裏打ち・ベースとなるリズムのこと)」はもとより、それらのベースに合わせた「曲打ち(≒表打ち)」を全て自由に操る職人肌で、かつ即興ジャズ的である。また、早くから和太鼓に歌舞伎や日本舞踊、大相撲の要素を取り入れるなど独自のスタイルも確立している。音の余韻と間(ま)を最大限に活かした変幻自在・緩急自在な奏法には定評があり、高山のほかに例を見ることは難しい。なお、昭和40年代後半~昭和50年代前半には既に舞台公演に際して、ブラックライトにより演出効果を高めたり、太鼓本体を機械で回転させながら、更には、太鼓を米俵に見立てて肩に載せ太鼓の両面から演奏するなど、当時としては極めて斬新なスタイルを発案している。母親に背負われている頃から祭太鼓の音に対して異常なほどの反応を示し、幼少年期は祭太鼓はもとより「町回りの太鼓」を一人遠方まで付いて回る有り様。高校時代には既にあらゆる祭の「野良打ち場」で大人に混じり見よう見まね太鼓を打つようになった。この頃、北陸3県の祭催事を仕切っていた永井末作に和太鼓の才能を見い出され、1960年(昭和35年)、高校卒業と同時に日本で初めて誕生した(昭和25年)舞台興行の和太鼓芸能集団「みどり会」に入会。以降約5年間、永井の付き人を兼ねて、福井県、石川県を中心に様々な舞台経験を積んだ。こうした最中、1965年(昭和40年)、大手芸能事務所であった「関西プロダクション株式会社」にスカウトされ、翌1966年(昭和41年)2月、大阪にて日本芸能界初のプロ和太鼓集団「王将太鼓」が結成され華々しく芸能界デビューを果たした。「王将太鼓」時代の後は和太鼓奏者を本業とせず、海外からの度重なる公演招待も一切断り、地元である北陸地方を中心として一定の領域にとどめた活動に終始している。地域風土ごとの伝統や特色を重んじた和太鼓の発展を望んでおり、これが高山の一貫した思考となっているものと考えられる。地域を越えて画一化されつつある現代の日本和太鼓界において特に異色の人物と評価できよう。1979年(昭和54年)、「ふるさと福井80選」(主催:福井新聞社 後援:福井県など)の第13位に選定され、また、1984年(昭和59年)には、「ふるさと福井85選」(主催:福井新聞社 後援:福井県など)で「ふるさと文化賞」を受賞している。なお、高山は自身のことを「和太鼓奏者」ではなく、あくまでも「太鼓打ち」と称している。1966年(昭和41年)、「日本芸能界初のプロ和太鼓奏者」として吉本興業の舞台で一躍看板の座に就いた高山であったが、自身が抱く「太鼓への深い思い」と興行主側の「ビジネス戦略」が徐々に乖離し始めた事を機に、自らの意志をもって芸能界での地位を捨てることとなった。その後、高山は故郷の福井県に戻って和太鼓とは全く無関係の本業を得て、自分の理想とする和太鼓活動を「アマチュア」として開始するに至った。なお、その後の舞台活動における構成、演出、照明技術などの知識は吉本興業時代に培ったものである。越前龍天太鼓は1968年(昭和43年)5月、当時26歳の高山が個人で初めて立ち上げた和太鼓チーム。元々プロの和太鼓奏者であったにも拘らず、あくまでも「アマチュア」に徹して一切スポンサーを付けず、全て自費で太鼓道具一式を揃えて活動を開始した。以降、和太鼓未経験者を含め多様なメンバーがチームに出入りすることとなり、その結果、県内外を問わず本格的な「太鼓打ち」「和太鼓奏者」を輩出している。なお、「宗家」とは言っても、チームの運営費用は高山個人が捻出して、結成以来メンバーからの会費等は受けていない。

出典:wikipedia

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