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東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の『東大寺要録』を元に行った試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている。現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表す画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958年)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。大仏殿はしばしば「世界最大の木造建築」と紹介されるが、20世紀以降の近代建築物の中には、大仏殿を上回る規模のものがある。よって「世界最大の木造軸組建築」という表現の方が正確であろう。正史「続日本紀」、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する「大仏殿碑文」「延暦僧録」によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。なお、開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ、鍍金、光背の制作などは未完了であった。大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、華厳経に説かれる盧舎那仏という名の仏である。華厳経は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした華厳経に基づく信仰があった。聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発した。詔の全文は『続日本紀』にあり、以下のとおりである。聖武は大仏造立のためには「国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構へ」、つまり、国じゅうの銅を溶かして大仏を造り、山を削って大仏殿を造ると言っている。実際に大仏の原型制作と鋳造のためには大量の土を必要とし、東大寺大仏殿は実際に山の尾根を削って造成されたものであることが、庭園研究家の森蘊による東大寺境内の地形調査で判明している。大仏造立の詔の2年前の天平13年(741年)、聖武天皇は詔して、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じた。そして、東大寺は大和国の国分寺であると共に、日本の総国分寺と位置付けられた。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である「金光明最勝王経」(10巻、唐僧の義浄訳)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王の下には、仏教の護法善神である四天王が現れ、国を護るという。聖武は、日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、金光明最勝王経を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘(疫病)で相次いで死去した。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。『東大寺要録』に引く「大仏殿碑文」によれば、天平17年8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で大仏造立が開始されている。『続紀』によれば、天平18年10月6日(746年11月23日)、聖武天皇は金鐘寺(東大寺)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行っているが、これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。「碑文」によれば、鋳造は天平19年9月29日(747年11月6日)に開始され、天平勝宝元年10月24日(749年12月8日)に終了した。「碑文」は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言っているが、実年数は2年間強である。「八ヶ度」は、巨像を下から上へ、8段に分けて順次鋳造したという意味に解釈されている。その造像手法は次のように推定されている。制作は以上で完了した訳ではなく、鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金(金メッキ)、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒(但し水銀よりもむしろ巨大な大仏製造の銅による鋳造に、より問題があった可能性が大きいと近年指摘 されている)により多くの人命が失われたとも言われている。こうして、天平勝宝4年4月9日(752年5月26日)には大仏開眼供養会が挙行された。聖武太上天皇(すでに譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。『続日本紀』、『東大寺要録』によれば、開眼会当日の様子は次のようなものであった。大仏殿前の庭には五色の幡と宝樹が飾られ、中央には舞台が、東西には華厳経の講師と読師のための高座が設置された。大仏殿内は造花と繍幡(刺繍を施した幡)で荘厳されている。玉座には聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が座す。南門からは上位の僧1,026人が入場。本日の開眼の導師を務めるのはインド僧の菩提僧正(菩提僊那)、華厳経を講ずる講師は大安寺の隆尊律師、華厳経を読み上げる読師は元興寺の延福法師である。大仏の瞳を描き入れる儀式は、聖武太上天皇が体調不良のため、菩提僧正が担当した。菩提僧正が開眼に使用した筆には長大な縷(る)が取り付けられており、列席の人々はこの縷に触れて大仏に結縁した。このあと、唄(ばい)、散華(さんげ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)という四箇法要が行われ、続いて華厳経の講説がある。続いて衆僧・沙弥9,799人が南門から入場し、幄(仮の座席)に着座した。大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の四大寺の僧か数々の珍宝を大仏に献ずる。さらに日本、中国、朝鮮の楽人・舞人らによる楽舞が披露される。『東大寺要録』によれば、当日披露されたのは大歌女・大御舞(おおうため・おおみまい)、久米舞、楯伏舞(たてふしのまい)、女漢躍歌(おんなあやおどりうた)、跳子(とびこ)、唐古楽、唐散楽、林邑楽(りんゆうがく)、高麗楽、唐中楽、唐女舞、高麗女楽であり、これらが夕方まで行われた。このうちの林邑楽が、仮面劇の伎楽にあたるとみられる。開眼法要で使用された伎楽面は東大寺および正倉院に現存している。正倉院文書のうちには、「蝋燭文書」と称する巻物があり、内容不明とされていたが、これが大仏開眼会に列席した万僧の交名(名簿)であることが判明し、「1万数千人」は誇張ではなかったことがわかった。開眼の際に使用した筆や墨、筆に結び付けられた紐である開眼縷(る)、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。「天平宝物筆」と呼ばれる仮斑竹(げはんちく)製の筆は長さ56.6センチ、「天平宝物墨」と呼ばれる墨は長さ52.5センチ。縹縷(はなだのる)は長さ190メートルに及ぶ。『続紀』は当日の様子を、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と述べている。なお、開眼供養の時点で、大仏の仕上げはまだ完了していなかった。『東大寺要録』に引く「延暦僧録」によると、「鋳加」作業は天平勝宝2年正月(750年)に始まり、開眼供養より後の天平勝宝7年正月(755年)まで掛かっている。鋳加とは、鋳造後、溶銅がうまく回らなかったり、空洞ができたりした箇所に再度銅を流し込んだり、銅板で補強したり、はみ出した部分を削ったり、8段に分けて鋳造した継ぎ目を接合(鋳からくり)したりといった一連の仕上げ作業のことである。こうして仕上げが終わり、表面をやすりで平滑にしたところで、初めて鍍金の作業に入る。「大仏殿碑文」によると、鍍金は開眼会の直前の天平勝宝4年3月14日(752年4月2日)にようやく始まっている。この年は閏3月があったとはいえ、開眼会までは2か月しかなく、開眼会の時点では、鍍金は未完成であったと推定されている。大仏の光背が完成したのはさらに先の宝亀2年(771年)であった。このように、大仏の仕上げが未完成の状態で開眼会を挙行した理由については、聖武天皇が病気のため、実施を急いだという説もあったが、天平勝宝4年(752年)が、『日本書紀』などの主張する仏教伝来の年(欽明天皇13年・552年)から200年目の節目の年に当たり、この年の仏誕の日(4月8日)に合わせて開眼会を実施したとする説が有力となっている。開眼会は、実際には1日順延されて旧暦4月9日に実施されているが、順延の理由は定かでなく、天候のためかとも言われている。大仏の台座には奈良時代当初の部分が比較的多く残っている。台座は大小各14枚の蓮弁からなり、表面には釈迦如来像を中心に、蓮華蔵世界を表した図様が線刻され、奈良時代仏画の遺品としても貴重である。蓮弁の図像については、華厳経に基づくとする説、梵網経に基づくとする説、華厳経・梵網経の両方の要素を取り入れているとする説がある。平安時代後期に東大寺を訪れた大江親通は、『七大寺巡礼私記』(保延6年・1140年頃成立)の中で、大仏の台座は天平勝宝4年(752年)から同8年(756年)にかけて造られたものだと書き残している。これが正しいとすれば、大仏は像本体が初めにでき、台座は後から鋳造されたことになる。最初にこれを取り上げたのは足立康で、彼は昭和9年(1934年)、台座後鋳説を主張した。以後、技法面から考えて台座が先に鋳造されたはずだとする説(香取秀真など)と、台座後鋳説が対立しており、台座内部の本格的な調査が行われていないこともあって、結論は出ていない。大仏の坐す蓮華座は、仰蓮とその下の反花からなり、ともに28弁(大小各14)の花弁を表す。仰蓮にはそれぞれにタガネで彫った線刻画がある。2度の兵火にもかかわらず、台座蓮弁の線刻画にはかなり当初の部分が残り、奈良時代の絵画資料として貴重である。なお、現在、銅の蓮華座の下に石造の円形の台座があるが、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があった。『信貴山縁起絵巻』には治承4年(1180年)の兵火で焼ける以前の大仏の姿が描写されているが、そこにも銅と石の二重の蓮華座が描写されている。蓮弁の線刻画はいずれの蓮弁にも同じ図柄が表されているが、細部の寸法を計測すると完全に同じではなく、一枚一枚異なっている。これは同一の原図をもとに、フリーハンドで作図したことによると考えられている。蓮弁の上部には釈迦如来と諸菩薩が描かれ、下部には7枚の蓮弁をもつ巨大な蓮華がある。これらの中間の部分は26本の水平線を引いて25段の層に分かれている。これらは全体として『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」のありさまを表したものである。『華厳経』の世界観によれば、「香水海」という清い真水の大海の上に一輪の巨大な蓮華がある。その上は大地になっており、そこにはまた無数の香水海があって、そのそれぞれに一輪ずつの大蓮華がある。その上には無数の世界が積み重なり、それぞれの世界に無数の仏国土があるという。前述のとおり、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があり、蓮華を重ねることによって「蓮華蔵世界」を表していた。なお、蓮弁の画像については、『華厳経』の説く「蓮華蔵世界」ではなく、『梵網経』の説く「蓮華台蔵世界」に基づくものだという説が、小野玄妙によって1915年に提出された。『梵網経』の説く「蓮華台蔵世界」とは、盧舎那仏の坐す千弁の蓮弁のそれぞれに一つの世界があり、そこには盧舎那仏の化身である釈迦如来がいて、一つひとつの世界には百億の須弥山(世界の中心にあるとされる山)と百億の閻浮提(われわれが住むとされる世界)があるというものである。蓮弁の画像が『華厳経』と『梵網経』のいずれによるものかについてはその後論争があったが、現在では、『華厳経』、『梵網経』、『大智度論』などの説を合わせて用いたものと考えられている。各蓮弁の線刻画の図様をくわしく見ると以下のとおりである(説明の都合上、線刻画を「上段」「中段」「下段」に分ける)。上段は中央に説法相の釈迦の坐像をひときわ大きく表し、その左右には各11体ずつ、計22体の菩薩像を表す。これらの周囲には雲上の化仏が飛翔している。中段は26本の水平線を引いて25段の層に分けられている。このうち、上から1段目から3段目までには何も描かれていないが、4段目から下には菩薩の頭部、楼閣などが描かれる。11段目までは水平線が蓮弁の幅一杯に引かれているが、12段目から下では左右の幅がしだいに狭まっていく。19段目から25段目までの計7段分は、縦方向に6つの切り込みが入って、7つの部分に分かれている。これはその直下にある7弁の蓮華に対応している。この25段に、上段の釈迦と諸菩薩のいる区画を加えて26段となるが、これは仏教の世界観で、須弥山の上にある26の世界(境地)を象徴している。下段の7つの蓮弁にはそのそれぞれに須弥山世界を描く。具体的には、須弥山を中心に、その周囲にあるとされる七金山や四大洲が表されている。その四大洲のうち、われわれが住むとされる南の閻浮提は手前に大きく描かれている。蓮弁の線刻画は全体として、仏教の説く「三界」(欲界、色界、無色界)を表している。三界については『倶舎論』という経典に説かれているが、松本伸之は大仏蓮弁線刻画は『倶舎論』ではなく『大智度論』に依拠したものだと解釈した。『大智度論』によれば欲界は六天、色界は初禅、二禅、三禅、四禅の4つに分かれて計十八天、無色界は四処に分かれるとされ、以上を合計すると28になるが、欲界の六天のうち最下部の二天(地居天)は須弥山上にあるとされており、これを除いた残りの26の世界(境地)が蓮弁線刻画の26段に対応すると解釈されている。『倶舎論』では色界を1つ少ない十七天とするため、段数が合わなくなるという。前述のとおり、線刻画の中段では上から19段目から25段目までの計7段分の幅が狭くなっているが、この7段は六欲天のうち上の方にある四天(空居天)と、色界初禅の三天に相当する。欲界は須弥山と同じ広さ、色界初禅は須弥山と四大洲を合わせた広さとされる。色界二禅はその千倍の広さ(小千世界)、三禅はそのまた千倍(中千世界)、四禅はそのまた千倍で、これらを合わせて「三千大世界」という。線刻画の中段で、下の方の段ほど幅が狭く表されているのは、こうした世界観に基づく。線刻画のうち、釈迦と諸菩薩のいる上段と、その直下の何も描かれていない3段とが、無色界に相当する。天平勝宝4年(752年)に、大仏の鋳造が終了し、天竺(現在のインド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が盛大に挙行された。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことである。だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、聖武太上天皇が没する。その翌年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。旧暦7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いはないし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実に「東大寺建立」が利用され、反乱に加担した者たちもその名目を了解していたという事実そのものが、東大寺造営の実情──すなわち天皇の理想を実現させるためだけに、実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した無謀なプロジェクトであったことをも、白日の下にさらしたのである。大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震では首が落ちるという事故があったが造東大寺所に属していた斎部文山らの活躍によりほどなく修理され、貞観3年(861年)朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行っている。その後大仏および大仏殿は、平安時代末期と戦国時代に兵火で焼損、焼失している。1回目は治承4年(1180年)の平重衡の兵火によるもので、この時には興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失する大惨事となった。この時、大勧進職として重源が再興に奔走した。「勧進」とは仏と縁を結ぶように勧めることで、転じて寺院の再興などのために寄付を集めること、またその役を担う僧のことを指した。重源は当時来日していた宋の鋳工陳和卿らの協力を得て、大仏を再興、文治元年(1185年)に開眼法要が営まれた。この時、開眼の筆を執ったのは後白河法皇であった。また、大仏殿の落慶法要は建久6年(1195年)、後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席の下行われた。大仏と大仏殿の2回目の焼失は永禄10年(1567年)、松永久秀の兵火によるものであった。この時は時代背景も違い、復興事業はなかなか進まなかった。大仏殿はとりあえず仮堂で復興したが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊した。大仏の頭部は銅板で仮復旧されたままで、雨ざらしの状態で数十年が経過した。貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得て、ようやく再興が始まった。こうして元禄4年(1691年)完成、翌元禄5年(1692年)に開眼供養された大仏と、宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存の物である。これは752年当時の物と比較して約3/4の規模になっている。大仏のどの部分が天平当初のものであるかについては、資料によって小異がある。『奈良六大寺大観 東大寺二』によれば、右腋から下腹にかけての部分、両手の前膊と袖の大半、両脚のすべてが奈良時代のものであるとする。『週刊朝日百科 日本の国宝』の解説(1998年)は、右腋から腹、脚部にかけての部分が当初。蓮肉、蓮弁は台座後方に当初のものが残るとし、体部の大半は室町時代末期の補修、頭部は江戸時代のもので、鎌倉時代の補修部分は背中の一部に残るのみだという。これまで像の螺髪は、平安時代に編纂された『東大寺要録』に基づき966個と言われてきたが、東京大学生産技術研究所准教授の大石岳史の研究グループが行ったレーザー光解析により、実数は492個(うち9個は欠けている)である事が判明した。

出典:wikipedia

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