ポール・オサレス(Paul Aussaresses、1918年11月7日 - 2013年12月3日)は、フランスタルヌ県サン=ポール=キャップ=ド=ジュ生まれのフランス陸軍軍人で、対反乱作戦の専門家。2000年にフランスの新聞ル・モンド紙によるインタビューで、フランスを守るために拷問を行ったことを告白し、物議をかもした。1941年、Telerghma(アルジェリア)にて、士官候補生として1年間勤務。翌年1942年に、彼は占領下にあるフランスへの潜入工作任務に志願する。1944年8月には、ジェドバラ作戦に参加。これはドイツ軍後方地域地域に潜入し抵抗組織(マキ)を支援するクライスラー隊による空挺作戦である。オサレスは占領地域に降下し、現地指揮官との調整と情報活動にあたった。1946年9月1日に、オサレスは第11電撃落下傘大隊(1955年10月に第11電撃落下傘准旅団に改編)を編成し、1946年から1948年まで大隊長として部隊の先頭に立ち指揮を執った。その後は第1植民地落下傘連隊に転属、そのままインドシナ撤退まで勤務した。1955年、コンスタンチーヌ県フィリップヴィルに駐屯する第41准旅団の情報将校として赴任した。同年8月20日、FLNによるピエ・ノワールに対する一斉襲撃事件が発生した。オサレスはこの襲撃について事前兆候を察知していたとされる。この襲撃事件においてオサレス指揮下の部隊は叛徒を徹底的に鎮圧し、この際に民間人も犠牲になった。1956年5月、スエズ危機が発生。これに対処するため秘密裏にイギリスソールズベリーの演習場においてイギリス陸軍と1ヶ月間に及ぶ合同訓練を実施した。6月1日に落下傘降下の訓練中、着地に失敗し背骨の骨折によりアルジェリアに帰還することとなる。フィリップヴィル虐殺事件での功績に着目したジャック・マシュ将軍は、アルジェにおける叛徒鎮圧のためオサレスを呼び寄せた。1957年1月8日、アルジェに出頭したオサレスはただちに組織壊滅の為に作戦に着手、1月28日には一斉摘発に乗り出した。この摘発活動は苛烈を極め少しでも疑わしい容疑者を次々と逮捕・拘留し、略奪を恐れて閉店していた商店の扉を強制的に破壊した。この過程において、3月2日には逮捕したFLNの幹部ラルビ・ベン・ムヒディが監房内で「首吊り自殺」を、3月3日には弁護士アリ・ブーメンジェルが収監していたビルの6階から「投身自殺」をしたと発表した。オサレスは2000年にこれらが暗殺であったことを認めた。その後バリケードの1週間や将軍達の反乱といった騒乱事件には距離をおき、秘密軍事組織には参加しなかった。1961年、オサレスは10人の退役軍人を伴いワシントンD.C.の在米フランス大使館を訪問した。その後、ノースカロライナ州フォート・ブラッグに駐屯する第10特殊作戦群()の教官となる。そこではアルジェの戦いにて使用された拷問のテクニックについての教育が行われた。既にアメリカ陸軍では南ベトナムの不穏な動きに対処する為ロジェ・トランキエ退役大佐の著書『破壊的な戦争』 "subversive warfare" の研究を開始しており、トランキエの意向を受けたオサレスが教授するという体裁をとっていた。ベトナム戦争におけるフェニックス計画()はオサレスの講義をうけた学生により発案された。1973年、軍事独裁政権下にあるブラジルに赴任し、軍部との親密な関係を維持した。マヌエル・コントレラス()チリ国家情報局()局長の発言によれば、チリ国家情報局の幹部はオサレスのもとで訓練を受けた。その中においても南米の軍事政権下における対反乱作戦を実行する際には拷問の使用を示唆したとされる。(この教えはアルゼンチン、パラグアイに波及し、特にアルゼンチンでは汚い戦争として現れ、現在でも死の部隊として問題となっている)2001年に出版した『特殊任務 アルジェリア1955-1957』 "Services spéciaux, Algérie 1955-1957" の中で、アルジェリア戦争で拷問を行ったことを告白している。さらに、アルカーイダを筆頭とするテロリズムとの戦いにおいて拷問を用いてでも情報を引き出し、テロ事件の未然防止に寄与すべきだと主張し、問題となった。ジャック・シラク大統領は処罰するように軍に要請し、軍籍と勲章が剥奪された、しかし、刑事責任については追及されていない。
出典:wikipedia
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