若松 只一(わかまつ ただかず、1893年3月8日 - 1959年11月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。終戦時の陸軍次官。陸軍工兵中尉・若松八弥の長男として福島県で生まれる。名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。歩兵第33連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1930年(昭和5年)8月から1932年(昭和7年)10月までドイツに駐在した。1932年10月、歩兵第33連隊大隊長となり、参謀本部員、欧州出張、陸軍省軍務局課員(軍務課)、参謀本部付などを歴任し、1937年(昭和12年)6月、オーストリア大使館兼ハンガリー公使館付武官となり、1938年(昭和14年)3月、「ドイツによるオーストリア併合」(「アンシュルス」)以降、ハンガリー公使館付武官を経て帰国。1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し留守第3師団司令部付となる。1939年10月、第38歩兵団長に就任し日中戦争に出征。広東付近での諸作戦に参加した。1940年(昭和15年)2月、第22軍参謀長に転じた。同年11月、第22軍が廃止され参謀本部付となる。太平洋戦争を参謀本部総務部長として迎え、1942年(昭和17年)12月、陸軍中将に進級した。1942年12月、参謀本部第3部長となり、翌年10月、第46師団長に就任。1944年(昭和19年)11月、南方軍総参謀副長に転じた。1945年(昭和20年)4月、本土決戦に備える第2総軍参謀長に就任。同年7月から10月まで陸軍次官を務め終戦を迎えた。同年11月、予備役に編入となった。
出典:wikipedia
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