パーソナルコンピュータ史(パーソナルコンピュータし)は、パーソナルコンピュータ(パソコン)の歴史である。パーソナルコンピュータ(Personal Computer)登場以前に「パーソナルコンピュータ」という言葉が使われた一例として、1962年11月3日のニューヨーク・タイムズ紙のJohn Mauchlyの記事がある。この記事では、将来のコンピュータに関する見通しとして普通の子供達がコンピュータを使いこなすであろうことを述べている。しかし現実には、個人で使える情報処理装置としては1970年代にIBM 5100やなどの卓上型のコンピュータが発売されていたが高価であり、個人はもちろん大企業でも限られた部門で購入できたに過ぎなかった。1970年代中ごろに普及し始めた8ビットマイクロプロセッサを用いて、ごく限定された機能・性能ながら個人の計算やデータ処理を行うことができ、価格的にも手が届くコンピュータが作られるようになった。エンジニアや好事家などの中にその趣味の一環としてこの大幅に小型化され安価となったマイクロプロセッサを応用して独自にマイクロコンピュータを設計・製作する者たちが現れたが、このような個人向けの市場を開拓したという点で重要な位置付けとなるのが1975年1月にPopular Electronics誌で紹介されたMITSのAltair 8800や、その後互換機として発売されたIMSAIのIMSAI(8080)である。Altairは1974年に発表されたばかりの8080マイクロプロセッサを採用していたが本質的には小型化されたミニコンピュータであり、箱型の筐体にCPUや記憶装置を収容し端末を接続する形態であった。起動にも複雑な操作を必要とし本体単体のみではごく限定された機能・性能しか持ち得ないものであったが、拡張ボード(通称 S-100 バス。後にIEEE-696として標準化された)によって柔軟に入出力装置や記憶装置の増設を可能としていたなどその後のパーソナルコンピュータの発展の起爆剤となった(マイクロコンピュータの記事も参照)。アップルコンピュータを興したスティーブ・ジョブズが1976年に、ガレージで製造したワンボードマイコンのApple I(スティーブ・ウォズニアックによる設計)を販売、ごく少数販売するに留まったが、翌年発売したApple IIは大成功を収め同社の基礎を作るとともにパーソナルコンピュータの普及を促した。これは整数型BASICインタプリタをROMで搭載し、キーボードを一体化、カラービデオディスプレイ出力機能を内蔵したもので、今日のパーソナルコンピュータの基本的な構成を満たしている。Apple IIはオープンアーキテクチャであったため多くの互換機をも生み出すこととなり、同時にシェアも奪われることにつながった。後に互換機メーカーへの警告や提訴を行ったが、互換機メーカーが無くなることはなかった。1980年前後になるとアップル、タンディ・ラジオシャック、コモドールといったいわゆる御三家以外にもアタリやシンクレア・リサーチ(イギリス)など多くのメーカーが参入し、相互に互換性を持たない独自仕様で競合した。1981年に参入したIBMのパーソナルコンピュータ IBM Personal Computer model 5150(通称IBM PC。あるいは単に「PC」、のちの互換機と区別して「Original PC」とも)の登場と共に16ビットCPU時代の幕開けを迎えた。IBM PCは同時代の水準としても既に特別に高性能なコンピュータではなかったが、ハードウェア仕様のオープン化やマイクロソフトとの協調、加えて何よりも大きい同社のブランド力でビジネス市場で大成功を収めた。オープンアーキテクチャにより IBM PC以外のコンピュータ本体や周辺機器などを供給していたメーカーやベンダーもIBM PC互換機を発売し、IBM PC互換機市場は急速に拡大して行った。IBMはハードディスク装置を内蔵したPC/XTに続いて、CPUを高速版の80286にしたPC/ATを発売、他社も互換製品(PC/AT互換機)を発売して、他の仕様のパーソナルコンピュータを圧倒し、PC/AT互換機はオフィスで用いるタイプのパーソナルコンピュータの業界標準になった。一方、アップルが1980年5月に満を持して投入したApple III(Apple3)はApple IIとの互換性が完全ではなかった上に品質上の問題も抱え、市場で受け入れられることなく失敗する。Apple IIIに見切りをつけたアップルは、GUI(GUI)とマルチタスクを備えたLisaを 1983年に発売し注目を集めるが、これも高価すぎて営業的には失敗に終わる。その後、より安価なMacintoshを1984年に発売するとようやく一定の成功を収めた。しかしApple IIで互換機メーカーにシェアを奪われる苦汁をなめたことからクローズドアーキテクチャにした。当然、互換機という敵はなかった。一時は様々な思惑のもとにMacintosh互換機事業を開始したが、その時点で既にPC/AT互換機が業界標準となりつつあったため、パーソナルコンピュータ全体の中でのシェアは期待ほど伸びず、逆に互換機メーカーとMacintosh互換機市場を食い合う結果となった。最終的にアップルは互換機ビジネスを中止してクローズドアーキテクチャに回帰し、パーソナルコンピュータ全体の中でのシェア争いは放棄し、アップルとしての利益を確実に確保することを選択した。1980年代から高機能端末としてワークステーションが発達してきていたが、1990年代、パーソナルコンピュータのネットワーク機能が充実し、フル機能のUNIXが動作するようになってワークステーションとパーソナルコンピュータとの境界は曖昧になった。2000年代、MacintoshのOSはUNIXベースのMac OS Xへと移行し、またPC/AT互換機のOSもUNIX同等の機能を持ったWindows NT系へと移行した。1990年代末には、パーソナルコンピュータ市場は多数のメーカーによるPC/AT互換機とWindowsの組み合わせ(Wintel)がほぼ支配するようになった。だが、コモディティ化が進みメーカーによる差別化が困難となったPC市場では、デルなど低価格で製造するメーカーがいくつも乱立、過当競争によって各メーカーは利益率が著しく低下し経営内容は悪化、市場からの撤退や合併・買収など、再編が相次いだ。PCのオリジナルであるIBM PCを開発・販売したIBMも、パーソナルコンピュータ事業の業績不振から、2004年12月にパーソナルコンピュータ事業を中国のレノボ・グループ(聯想集団)に売却すると発表した。ハードウエアのオープンアーキテクチャ化を大きな要因として繁栄したPC/AT互換機であったが、その本家本元のIBMが、最終的にはその互換機同士の過当競争によって市場撤退へと追い込まれてしまうことになったのである。一方、Macintoshは、アップルが他社による互換機を排し、ハードウェア・OS・小売事業の全てをアップル一社で提供する、という垂直統合のビジネスモデルを堅持したおかげで、全パーソナルコンピュータ販売数に占める割合、という点で見かけ上は小さくても、実は好調な利益率を確保することでビジネスとしては成功し、さらには、個人ユーザに焦点を合わせたことが功を奏し、パーソナルコンピュータ全体に占めるシェアまでも再びじわじわと拡大する傾向となった。日本におけるパーソナルコンピュータ(パソコン)はその黎明期においては主に米国からの輸入品とその互換機によって占められていたが、次第に独自アーキテクチャの製品を製造・販売するようになり、発展途上の処理能力に乏しい時期には日本語処理に独自の漢字表示機構を実装した事情から一時代を築いた。しかし、処理能力の向上により漢字表示もソフトウェアにて実現することが可能となったため、1996年にはWindowsおよびPC/AT互換機(いわゆるDOS/V機)の販売シェアが半数を上回り、現在までに至っている。パーソナルコンピュータ登場以前に日本で「パーソナルコンピュータ」という言葉が使われた例として、日立製作所が開発した日本初のミニコンピュータHITAC 10(1969年2月完成)のカタログに「パーソナルコンピュータ」の言葉が使われている。黎明期の初端においては米国と同様にエンジニアや好事家が独自に部品を調達してワンボードマイコンなどを設計・制作し、あるいはもっぱら輸入された評価キットやワンボードマイコンなどが秋葉原の電子デバイス店などの小売店で細々と売られる程度であったが、米国でAltair 8800とその互換機が登場するとこれらの輸入品を主力に取り扱う店舗も登場するようになり「個人向けマイクロコンピュータの歴史」が始まる。日本国内では1976年5月に東芝よりTLCS-12A EX-0(定価99,000円)が発売された。電源装置を別途用意すれば、12ビットのLED表示とディップスイッチを使ってテレタイプ端末などの入出力機器を必要とせずに動作させることができる日本国産初のワンボードマイコンである。のちの「国産マイコン」に連なる最初の製品は1976年8月3日に日本電気(NEC)から発売されたTK-80(定価88,500円)とされる。本機はTK(Training Kit)という名前からも分かるように、元来は8080互換マイクロプロセッサの評価・教育用ツールであった。本家インテルの評価キットSDK-80はテレタイプ端末を想定したデバッグモニタが付いており、より高機能であったが高価かつ一般には流通しないものであった。これに対しTK-80はボードに16進キーボードとLED表示器がついただけのものだったが、同年9月に秋葉原に開設したBit-Innでサポートが行われ、同月にNECマイコンクラブを結成するなど積極的なユーザ支援体制もあって、企画当初の予想を超えたベストセラーになった。1977年には整数型BASICインタプリタROM、ビデオ表示回路、JISキーボードなどからなるTK-80BS(Basic Station)発売(定価128,000円)。同時に、廉価版としてのTK-80Eも発売された(定価67,000円)。後に実数型BASICも供給され、「マイコン」として使われるようになった。同時期の他社のトレーニングキットとしては東芝のEX-80(8080)、Panafacom(現PFU)のLKIT-16(同社のL-16A/MN1610)、日立製作所(日立)のH68/TR(6800、アセンブラと電卓型のフルキーボードを標準装備していた)などがあった。日本国外ではKIM(6502)やAIM-65(同)などがあった。これらは全ての部品が、剥きだしの裸の基板のまま販売されていたので、ワンボードマイコンと呼ばれた。NECはCOMPO BS/80を1979年春に発売したが、これはTK-80EとTK-80BSを筐体に一体化したものであった。ワンボードマイコンは、実用性には程遠いものだったので、次の段階として商品としての体裁を整えた製品が次々と登場することになる。当初はこれらの製品も引き続き「マイコン」と呼ばれていたが、次第に「パーソナルコンピュータ」(パソコン)と呼ばれることが多くなっていった。本節では便宜上これらの製品を「(8ビット)パソコン」と記述する。1977年9月、ベンチャー企業であるソード電算機システム(現 東芝パソコンシステム)がM200シリーズを発売。これはコンピュータ本体とキーボード・モニタ・5インチFDDなど、必要な周辺機器を一体化したオールインワン・コンピュータであった。BASICを採用していたが、価格は150万円とあまりにも高価でありパーソナルコンピュータ(個人所有の安価なコンピュータ)とはいえないものであった。これ以前にショップブランドではあるが、アスターインターナショナルよりキーボード・モニタ一体型のコスモターミナル-Dが発売されている。また、同年「月刊マイコン」誌が創刊された(当時は隔月刊の出版元への直接注文であったが、創刊号8月、10月号を経て12月号より月刊誌となり、全国書店にて取り扱いを開始した)。この12月号の表紙がコスモターミナル-Dであった。同年11月、精工舎(現 セイコー)からSEIKO5700という業務用コンピュータが発売された。蛍光表示管やプリンタ・キーボード一体型の同機はフォートランを採用。しかし高価であったために、パーソナルという言葉のようには「一般化」はされておらず、研究開発の用途向けであったと思われる。その後、パーソナル用途向けのより安価なコンピュータが各社から発売される(これ以前の物は個人所有にはあまりにも高価でパーソナル用途のコンピュータではなかった)。シャープよりMZ-80K(1978年)、日立よりベーシックマスターMB-6880(1978年)、NECよりPC-8001(1979年)が発売された。当初はこの3機種が8ビットパソコン初期の御三家と言われたが、ベーシックマスターレベル1・2は途中より遅れ気味となり(ただし完全に消えた訳ではなく一定のシェアはあった)1980年前後はPC-8001とMZ-80K/Cが人気を二分したと言っても過言ではない。当時の国産機として主流であったのは、電源を入れればROMに書き込まれたBASICが起動する(立ち上がる)ROM-BASICマシンであった。これらはコンピュータを起動するとBASICインタプリタが起動され、コマンドプロンプトから直接BASICのコマンドを入力して処理を行うことができた。これらの機体の形状は Apple II にも似たキーボード一体型、ディスプレイ別置きであった。一方、シャープのMZシリーズはインタプリタをROMであえて持たずにクリーンコンピュータと称していたほか、ディスプレイも一体化して「オールインワン」として発売された。1980年代初頭にはより高機能な8ビット機が発売された。NECはPC-8800シリーズ(1981年)、富士通がFM-8(1981年)、そのFM-8から周辺機能を削り、音源を搭載したFM-7(1982年)、シャープからはMZシリーズを開発した部署とは別のシャープテレビ事業部が開発したX1シリーズ(型番はCZ、1982年)が登場し市場を寡占化した。この頃には8ビット御三家とはこの3機種を指すようになった。また、後発のソニーは初めて3.5インチのフロッピーディスクを内蔵した機種を発売して話題を集めた。なお、3.5インチマイクロフロッピーディスクの規格とは別に松下電器・日立が3インチのコンパクトフロッピーディスクという規格を策定したが普及するには至らず、最終的にはソニーの推す3.5インチが主流となった。この頃に他のメーカーから発売された機種は以下の通り。この頃の市場では、10万円を大きく切る低価格の機種と10万円を超える機種へと二極化が進んだ。低価格機種の代表としては、などがあった。ポケットコンピュータやハンドヘルドコンピュータと称する(のちのWindowsCE Handheld PCとは異なりA4判程度)携帯PCが一部メーカーから出たのもこの頃だった。この時代、特に日本国内のパソコン市場においては、日本語表示や日本語入力などの諸問題により8ビットパソコンを本格的なビジネス用途に使うには限界があった。しかし、その実用性はともかく趣味でパソコンを購入する人が増え、また来るべきコンピュータ時代に向け、学校教育にもパソコンが導入されたほか、これを買い与えられる児童もあった。この時代において、主に趣味のプログラミングやコンピュータゲームに供されたパソコンをホビーパソコンとも呼ぶ。ホビー用途とは言っても、その価格は実用性の割に「飛び抜けて高価な玩具」でもあり、小中学生の子どもたちはコンピュータに興味があっても親から買って貰える子は少なかった。自ら「ナイコン族」と呼び、当時無料でデモ機を設置し使用させてくれた電器店に日曜日には朝早くから並んでデモ機を借りて遊んでいる子どもたちも多かった。多くは『マイコンBASICマガジン』などのプログラム投稿誌のプログラムを入力してゲームを楽しんでいた。それらのゲームをカセットテープに保存し、データを交換しあいながら保持ゲーム数を競っていた。電器店としては、子どもたちが簡単に使っている姿を見せることで大人たちの購買意欲をそそらせ、お互いに持ちつ持たれつの関係が成り立っていた。このような社会背景に誘われその他の家電・コンピュータ・電卓・時計等の様々な製品を扱うメーカーもマイコン事業に進出したが、後発メーカーは既存のソフトウェア資産という基盤が無かったことから非常に苦戦を強いられることとなった。その中で、各社仕様を共通化することでシステム設計コストの低減とソフトウェア資産の共通化を目指したマイクロソフトとアスキーによるホームコンピュータ MSXの規格(1983年)が発表され、これらの苦戦した各社がこぞって参加した。またホビーパソコンが人気を博した背景には各地に大小のゲームセンターができてギャラクシアンやドンキーコング、パックマンなどのゲームが人気となり、それらのゲームが移植されたことの影響も大きいと考えられる。同時代の日本国産機に採用されていたCPUは、ごく初期においてモステクノロジーの6502やインテルの8080などの採用例が見られるものの、以後は8080の上位互換となるZ80に代表されるザイログ(Z-80A, Z-80B)、68系のモトローラ(6800, 6801, 6802, 6809, 6809E)およびそれらの互換・カスタムCPUが主流であった。ただし、このZ80自体とは8080を独自に拡張した8080の(上位)互換プロセッサである。これは、マイコンブームが日本において成立した時点でインテルの8080系は市場においてその主流を上位互換性を確保するZ80に奪われており、採用例が稀であったことに起因する。現在主流となっているインテルのCPUは国内においては16ビット時代になってパソコンに本格的に採用されることとなる。1982年に後述のPC-9800シリーズが登場する一方で、MSXが出た同じ年の1983年、任天堂からファミリーコンピュータが登場。機能の絞込みによる低価格を武器にアーケードゲームの各メーカーが参入してタイトルが豊富に出揃い、爆発的に普及した。コピーに悩まされていたゲームメーカーは、次第に、コピーが難しいファミリーコンピュータ用に開発するようになった。1984年頃からは独自規格の8ビットパソコンはNEC・シャープ・富士通の3強が主となり、ホビーユースに的を絞ったPC-8801mkIISR(1985年)・X1turbo(1984年)・FM77AV(1985年)の8ビット御三家各モデルの次世代の時代に突入した。これらはグラフィックを高速・多色化し、音についてはPCM音源・FM音源化、外部記憶装置はフロッピーディスクドライブ内蔵が標準的となり、BASICもDISK-BASICとなった。ROM-BASICは互換性のために残されていた。もっとも8ビットCPUの非力なパワーや狭いメモリ空間でこれらの機能を活用することは難しく、開発コストや人員の問題もあって市販のゲームソフトなどでは3機種の全てでの発売と引き換えに画像などのデータの使いまわしが行われ、多色機能等はあまり活用されなかった。初代ベーシックマスターで先鞭を付けた日立はこのころ、高速なグラフィック機能や、独自のメモリコントローラにより8ビット機ながら1Mバイトのメモリ空間を持つ、MB-S1(1984年)を出したりMSX/MSX2に参入するなどしたものの、結局ホビーユースからは脱落している。また、シャープのMZシリーズはMZ-2500(1985年)を最後に16ビットパソコンのビジネス路線に移行した。1987年、シャープとNECは16ビットのホビーパソコンを発売し、またNECはPCエンジンを出した。1989年に富士通も32ビットのホビーパソコンを、NECがPC-98DOを出して、8ビット御三家の時代は終焉を迎えた。この隙をついてMSX2(1985年)が低価格路線に踏み切り、参加企業は減少したものの8ビット御三家とファミリーコンピュータの中間的な存在として一部で人気を得た。低価格でフロッピーディスクドライブ内蔵のモデルも発売されたが、MSX2+(1988年)になるとソニー、松下電器産業(現 パナソニック)、三洋電機以外は完全に撤退した。それもつかの間、1990年のMSX最終形態のturboRが16ビット機という触れ込みで登場するもののそのまま終焉することになる(同時期に任天堂も16ビットのスーパーファミコンに移行した)。8ビットパソコンは、ビジネスユースとゲームという2つの市場の要望に、前者を16ビットパソコンに、後者をコンシューマーゲーム機に奪われるという形でその幕を閉じることとなった。その一方で、各マシンともBASIC言語を標準装備していたことからプログラミングを趣味として楽しむ人々を増やし、一部のパソコン雑誌の誌面ではBASICで組んだプログラムを発表するなどのコミュニケーションの場が形成され、市場撤退後も使い続ける根強いファンを生むこととなった。1978年に科学技術計算および計測制御用途として16ビットパソコンC-15がパナファコムから発売された。1981年、業界初の16ビット業務用パソコンをうたうMULTI16(OSはCP/M-86)が三菱電機より発表されるが、コンシューマ向けに意図されたものではなく、一般にはほとんど普及することはなかった(製品としての寿命は長かった)。この頃からパーソナル・コンピュータは「パソコン」と呼ばれるようになった。「オフコン」は、2000年代以降はあまり見聞きしなくなったが、「パソコン」はポピュラーな代名詞となり、今日も使用され続けている。1982年には16ビットCPUを採用して長くベストセラーとなったPC-9800シリーズが登場した。PC-9800シリーズはBASIC言語レベルにて従来の8ビット機と互換を持たせる方法を採った。その他の(主にビジネス向けの)国産機も16ビット化が始まっていた。既存の8ビット機でも16ビットCPU搭載の拡張カードを発売した機種もあった。ここで、IBM PCが採用したPC DOSのOEM版であるMS-DOSと、8ビット時代からのOSであるCP/M-86のどちらを採用するかといった問題が起こった。後者を選択したメーカーも三菱電機、富士通など複数社が存在したが、1983年にIBM PC/XTでPC DOS 2.0が採用されその日本語OEM版であるMS-DOS 2.1日本語版が登場するとほどなく市場を制した。その後はMS-DOSを採用したPC-9800シリーズの独走態勢となった。8ビットパソコンと違って黎明期の16ビットパソコンはその対象となる市場が法人中心であり、かつ高価だったこともあってPC-9800シリーズも含めて家庭用としてはまだ普及せず、雑誌でのBASICなどの投稿プログラムも少なく、市販されたソフトウェアもゲームよりもビジネス向けソフトやユーティリティが中心であった。また、システム販売用途としてカスタマイズされたソフトウェアが組み込まれてシステムとして発売されるケースがほとんどであった。各社の主な16ビットパソコン(企業用および家庭用。後に32ビット化したシリーズを含む)は以下の通り。16/32ビットパソコンは出現当初はビジネス用として位置付けられている機種がほとんどであった。ワードプロセッサ(ワープロ)・表計算・CADと大型機の端末が主な用途で、解像度は高かったが多色表示やサウンド機能が充実した機種はあまりなかった。時代が進みPC-9800シリーズが普及するとホビー用としても用いられるようになり、多数のゲームソフトが登場するようになった。またソフトウェアへの要求度合が上がるにつれ、ホビー用途でも8ビット機のパワーでは物足りなくなった。PC-9800シリーズでも途中からGRCG/EGCの搭載や16色対応・FM音源などの強化がされたが、よりホビー色を強めた16ビットパソコンとして1987年にシャープからX68000、またNECからPC-88VA、1989年には富士通から32ビットパソコンFM TOWNSが発売された。これらの機種は既存のパーソナルコンピュータと比較するとホビー用のハードウェアが強化されていた。当時はソフトウェア上で処理するよりもハードウェアで処理することにより高速化が計られる時代であった。X68000シリーズのスプライト機能の搭載が良い例である。同様のアプローチは海外でもなされており、画像関係に強いAmiga(1986年)、音楽系に強いATARI-520STが製造されていた。1990年頃にはFM TOWNSのように日本国産機も32ビットCPUを採用する機種が現れた。同じ頃PC/AT互換機で日本語の取り扱いが可能になるOS「DOS/Vが登場し、また1991年にはGUIを使ったWindows 3.0が発売され、世界的な標準機である「PC/AT互換機」が上級ユーザを中心に日本に流入し始めた。この頃にOADGも結成され、日本国内独自のビジネスパソコンやAX機を発売していたメーカーはPC/AT互換機路線に転換した。1993年に改良されたWindows3.1が発売されると、統一された規格に沿った部品が世界的に豊富に流通し、コストの面でも有利なPC/AT互換機が売れるようになった。また、CPUやバス、グラフィックカード、ハードディスクの高速化とメモリの低価格化により、日本国産機が特殊なハードで実現していた機能をソフトによる「力技」でも実現できるようになった。Macintoshは漢字Talk7が発売された頃からハードウェアの値下げと日本語処理機能の充実によりマルチメディアに優れたパソコンとして認知され、シェアを伸ばしていった。NECはWindows向けに性能を上げたPC-9821シリーズ(1992年)を発売したが、これらの影響を受けて次第に部品の大部分がPC/AT互換機と共通になっていった。FM-Rで唯一PC-9800に食い下がっていた富士通は既存の機種の機能強化と並行してPC/AT互換機FMV(1993年)の販売を開始し、次第に独自路線を縮小していった。1995年にGUIを大改良したWindows 95の発売が開始されると、日本でも新聞やTVのニュース番組で大きく取り上げられたため新規のパソコンユーザを増やす起爆剤となった。さらに98互換機のエプソンもPC/AT互換機に転換し日本国内独自パソコンはホビーユースを含めて終焉へ向かった。残ったNECも1997年ついにPC/AT互換機であるPC98-NXシリーズへの転換を表明した。この頃までのパソコンは、主にワードプロセッサ、表計算ソフト、データベースなどのオフィスアプリケーションを利用するツールとして普及していった。1998年にiMacが発売された頃からパソコンがインターネットを利用する端末として台頭する。また、Windows・Macintoshのほか、Linux・BSDなどのUnix系OSも新たに台頭した。これらの普及はワークステーションやオフィスコンピュータの領域をも侵食し、クライアント用途だけでなくパソコンでネットワークのサーバを組むことも普通に行われるようになった。なおWindowsにはNT系列と95系列とふたつの系列があったが、Windows XP以降はNT系列に統合されている。2003年9月、NECはPC-9800シリーズの出荷停止を表明し、ついに日本国内独自パソコンの歴史は完全にピリオドが打たれた。2004年以降も日本の市場に出ている独自規格パソコンはMacintoshだけとなり、あとはすべてPC/AT互換機となった。Pentiumシリーズ・PowerPC・XScaleなど高性能なCPUが搭載されて高速化が進んだ各パソコンやPDAでは、かつてのパソコンやビデオゲーム機のエミュレータソフトを作ることが盛んに行われるようになった。初期の8ビットパソコンが登場。シャープ、日立など。8ビットパソコンの最盛期。8ビットパソコンの出荷台数がピークに。この後、ビジネス用途を中心に16ビットパソコンへと転換していくが、8ビットパソコンもホビー用途を中心に1980年代は全盛時代となった。また、パソコンには含まれていないが8ビットゲーム機ファミリーコンピュータも1983年に登場した。8ビットパソコンと16ビットパソコンの出荷台数が逆転。ビジネス用途を中心に 16ビットパソコンの出荷台数が増加し、8ビットパソコンの出荷台数を追い越した。日本では、パソコンよりも一足先にワープロ専用機が普及した。ワープロ専用機の出荷台数は1989年に271万台でピークとなった。この頃まではまだパソコンの出荷台数の方が少なかった。16ビットパソコンの出荷台数がピークに。32ビットパソコン時代への転換がはじまる。16ビットパソコンとの逆転時期は不明。注:以後現れる出荷台数は JEITAの統計による。統計に参加していないショップブランドなどの台数が含まれていない点に注意。また、デルの出荷台数は2004年から含まれている。日本国内のパソコンの出荷台数が初の減少に。前年1990年に出荷台数がいったんピークを記録し206万台となった。1991年は190万台に減少し停滞時期となった。翌1992年も減少が続き 176万台。日本国内のパソコン出荷台数が急増。前年1992年秋に AT互換機の大手コンパックが日本国内市場に参入し、パソコンのコストパフォーマンスの急上昇がはじまった。また1993年5月に Windows3.1日本語版が発売され、性能の向上したパソコンとの相乗効果で日本国内でも MS-DOS の時代から Windows 時代への本格的な転換がはじまった。1993年には日本国内のパソコン出荷台数は 238万台、1994年には 335万台と急増し、Windows95が発売された1995年には 570万台と500万台の大台を突破、1992年の底からわずか3年で約3倍の増加となった。また、出荷金額も1995年には1兆円を突破した。1996年には出荷台数は 753万台にまで増加した。1997年は前年までの急増が一段落し出荷台数が 685万台に減少した。その後再び急増に転じ、液晶デスクトップパソコンや14インチ超の大型液晶を搭載したデスクノートパソコンの普及が本格化した2000年には日本国内出荷台数が1,210万台と 1,000万台の大台を突破した。1996年のピークから約1.7倍の増加である。出荷金額も 2兆円を超えた。また、2000年には初めてノートパソコンがデスクトップパソコンの出荷台数を上回った。以後、ノートパソコンがやや上回る程度でほぼ半々で推移している。パソコンの出荷台数はいったん減少に転じ2002年には1000万台割れとなったが、その後は回復し、2005年度は2000年度に記録した国内出荷台数のピークを上回った。一方で出荷金額はパソコンの低価格化の流れを受けて減少し、1兆6000億円台から1兆7000億円台で推移している。パソコンの低価格化が一段と進み、平均販売価格の下落は底が見えず、平均価格の下落とともに、出荷金額も減少している。この頃よりノートPCの販売割合が増え、ネットブックが大流行した。シェアを失ったデスクトップPCは、大手メーカーの生産縮小やモデル数減少、販売店の販売スペースの縮小や販売からの撤退が進んだ。また、eMachines・Gateway・シャープ・日立製作所・ソーテック・飯山電機など、メーカーの撤退や買収などの再編が進んだのもこの時期である。パソコンの低価格化は円安やパーツ価格の高騰の影響で下げ止まった。2013年まではWindows XPのサポート終了に伴う駆け込み需要で販売台数を維持していたものの、2014年からはそれがなくなり、パソコンの販売台数が急減。スマホやタブレットの台頭などもあり、販売台数の減少に歯止めがかからなくなっている。※2007年度は集計参加企業が16社から13社へ減少。2007年度の集計対象企業:アップルコンピュータ、NEC、シャープ、セイコーエプソン、ソーテック、ソニー、東芝、日立、富士通、松下電器産業、 三菱電機インフォメーションテクノロジー、ユニットコム、レノボ・ジャパン。DELL、HP、Acerなど集計に参加していない企業も多いため日本国内総出荷台数とは異なる。デスクトップの割合が高い自作PCやショップブランドが含まれていないため、特にデスクトップの台数は少なめに見積もられている(ただし、パソコン工房系列のショップとエプソンダイレクトは調査対象に入っている)。また、ノートPCについても、H25(2013)年度以降はノートPC全体の1~2割を占めると言われるMicrosoft Surfaceシリーズが含まれてないことにも留意する必要がある。
出典:wikipedia
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