黒須 光男(くろす みつお、1947年5月3日 - )は、日本の政治家。宮城県石巻市出身。1966年宮城県石巻商業高等学校卒。旧石巻市職員を経て宮城県議会議員に。現在は石巻市市議会議員。スローガンは「信頼と実行力」。義をみてせざるは勇なきなりを信条としている。石巻市職員在職中、青年団活動に傾倒。1971年に石巻市青年団連絡協議会会長、その後は上部組織の県青年団連絡協議会会長を務めた。1979年、当時の千葉堅弥石巻市市長の推挙により石巻選挙区から宮城県議会議員に出馬し、県政史上、当時最年少で13,313票の支持を得てトップ当選を果たした。県議時代は自由民主党に所属。1989年保守系無所属の新人衆院候補の政策集団自由連合旗揚げに参加、1990年に県議を辞任して、2月の第39回衆議院選旧宮城2区に無所属で立候補したが、落選。翌1991年の県議選で返り咲きを果たした。1995年の改選は無投票当選。1997年7月から1999年4月まで副議長を務め、同年同月、6選を果たした。県自治功労に浴するも、2001年1月、競売入札妨害事件で辞職した。2003年4月、県政への再起を目指したが、再選ならず、2004年に石巻市議会議員に鞍替え。石巻市議選史上最高となる4,000票台の支持を得て当選。2005年、自治体統廃合に伴う改選で2,832票を獲得し、再びトップ当選を果たしたが、本選で無効票の扱いを巡る不正が発生、当落上にあった菅野昭雄が選挙の無効を求めた。本選挙では、旧河南町議会議長を務めた三浦總吉が当選後、急死(焼死)。菅野と2票差であった青山久栄が欠員補充で繰り上げ当選した経緯があった。同年8月15日、宮城県選挙管理委員会は同選挙を無効とし、やり直し選挙が実施された。県議会議員失職の原因となった競売入札妨害事件は、後に宮城県庁を舞台とした官製談合の闇を世に知らしめる一端となった。一説には、黒須の逮捕は官製談合隠蔽のための犠牲だったとされる。同事件では、官僚主導による天下り先への随意契約といった行政運営が明らかになった。随意契約先には、副知事が理事を兼務する組織団体もあり、直後に松木伸一郎宮城県副知事が辞任した。政治家として活動する一方で宮城県下の政治経済を主眼としたローカル紙『ザ仙台ニュース』を創刊。宮城県政に対する辛辣な批評から、県庁職員の間では『Mr.k』と恐れられた。その後、『石巻コミュニティ放送』通称『ラジオ石巻』を開局、当時の県知事、浅野史郎もパーソナリティーを買って出るなどし、宮城県初のコミュニティFMとして注目された。一方で、政治色の強いコミュニティFM路線を歩むことになり、後に黒須は経営から手を引くこととなった。
出典:wikipedia
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