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第59回東京優駿

第59回東京優駿は、1992年5月31日に東京競馬場で行われた競馬競走である。1番人気ミホノブルボンが皐月賞に続き逃げ切り、皐月賞と合わせて二冠を達成した。年齢は全て旧表記にて表記。1992年の牡馬クラシック戦線はミホノブルボンが圧倒的なスピードで席巻しまず皐月賞を逃げ切って優勝した。その競走内容に対する評価は高く、東京優駿における最有力馬と目されていた。しかし血統からくる距離不安、逃げという脚質、逃げ馬には不利な15番という外枠発走により、皐月賞より人気を落とすこととなった。同馬の対抗馬としては皐月賞で2着に入りNHK杯を優勝したナリタタイセイのほか、そのNHK杯で2着に入り重賞戦線で善戦しているマチカネタンホイザ、すみれステークスと青葉賞を連勝したゴールデンゼウス、弥生賞、NHK杯で共に3着に入ったサクラセカイオーなどがいた。しかし皐月賞4着のアサカリジェントのように故障によって戦線離脱を余儀なくされた馬も少なくなかった。その中で皐月賞8着から巻き返しを図ろうとしていたのがライスシャワーである。雨が降ったため稍重の馬場の中、全馬揃ったスタートからまずはミホノブルボンが不利とされた外枠発走をものともせず、スピードの違いでするすると馬群の先頭に立つ。2番手には人気薄のライスシャワーとマーメイドタバンが続く。ミホノブルボンは17頭を従えて終始1ハロン12秒台前半の緩みのないラップを刻み、後続に脚を使わせながら2番手に2~3馬身の差をつけて逃げる。後続勢が追い始めたため最終コーナーでやや差が詰まったものの、直線坂上で鞍上がゴーサインを出すと一気に加速し約4馬身引き離す。そのままライスシャワーとマヤノペトリュースの壮絶な2着争いを尻目に、ミホノブルボンは他馬に影を踏むことすら許さず、危なげのないレース運びで無敗の二冠を達成した。またミホノブルボンは逃げたにもかかわらず、全出走馬中2番目に早い上がりを記録している。※優勝馬ミホノブルボン。門別原口圭二産。父マグニチュード。母カツミエコー。母の父シャレー。ここまで6戦6勝。生涯通算8戦7勝。この後、11月8日菊花賞3000m2着。惜しくも三冠を逃す。その後、脚部不安で引退。以後は種牡馬として日高軽農門別種馬場へ。※戸山為夫調教師は2勝目。初勝利は1968年(第35回)タニノハローモア。小島貞博騎手は初勝利。※皐月賞・日本ダービーの二冠を制したのは史上12頭目(三冠馬を除く)。前年のトウカイテイオーに続き無敗の二冠馬はトキノミノル・コダマ・シンボリルドルフ・トウカイテイオーに続く史上5頭目。日本ダービーの逃げ切り勝利は史上10頭目(皐月賞と日本ダービーを共に逃げ切った馬としては史上3頭目)。※ミホノブルボンの馬番15番の馬が優勝するのは史上初。また以降2013年まで新たな勝ち馬はいない。※2着ライスシャワー。この後、秋の菊花賞でミホノブルボンを直線で抜き去り菊花賞を制す。その後天皇賞(春)を1993年・1995年に2勝。3000m以上のG1競走3勝はメジロマックイーンとライスシャワーの2頭のみ。※この前年秋から馬番連勝馬券が発売される。日本ダービーもこの年から馬番連勝が馬券発売の中心となった。※ミホノブルボンは坂路の申し子と言われた馬。坂路(この1992年当時は500m)を4本上がるスパルタ調教で、デビュー前の坂路追い切りで1本目にタイム29秒4を出して坂路の調教コースレコードを樹立したこともあった。当時は500mの走破タイムが自動計測されており、オープンクラスの古馬でも30秒を切る馬はめったにいなかった。

出典:wikipedia

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