ブライアン・カウエン(, ; 1960年1月10日 - )は、アイルランドの政治家。同国第18代首相 (")。2008年5月8日に自らが率いるフィアナ・フォイル(共和党)と、緑の党、進歩民主党で連立を組み、また無所属のドイル・エアラン(下院)議員から支持を受けて首班指名を受けた。1984年にリーシュ=オファリー選挙区で当選して以来、ドイル・エアラン議員を務める。また閣僚として、労働相(1992年 - 1993年)、エネルギー相(1993年)、運輸・エネルギー・通信相(1993年 - 1994年)、保健・児童相(1997年 - 2000年)、外相(2000年 - 2004年)、財務相(2004年 - 2008年)を歴任し、また2007年から2008年にかけては副首相 (") も兼務した。また2008年4月9日にはバーティ・アハーンの後任としてフィアナ・フォイル党首に選出される。2008年5月7日、ドイル・エアランは前日にアハーンが首相を辞職したことを受けてカウエンを新首相に選出した。ブライアン・カウエンは1960年1月10日にオファリー州クララにおいて、バーナードとメイの間に生まれる。父バーナードはフィアナ・フォイルに所属し、ドイル・エアラン、シャナズ・エアラン(上院)議員を務めていたが、1984年に死別する。一家はクララでは、住んでいた家の近くにパブを所有しており、バーナードはオークショニアとして、ブライアンも幼いころから父親のパブでバーテンダーとして働いていた。ブライアンにはクリストファーとバリーの2人の兄がいる。バリーも政治の世界に足を踏み入れており、フィアナ・フォイルに所属してオファリー州評議会の議員を務めている。1番上の兄クリストファーは一家が所有するパブを経営している。ところが一家が所有する旧家とパブは町の開発のために取り壊されることになっている。カウエンはクララの国立学校、シトー会系の Ard Scoil Naomh Chiárain で学び、12歳のときに寄宿生としてティペラリー州ロスクレーにある Cistercian College of Mount St. Joseph に入学する。その後ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンに進み、法学を学ぶ。その後ダブリンの Incorporated Law Society of Ireland の事務弁護士の資格を取得する。カウエンはメアリー・モロイと結婚し、2人の娘をもうける。カウエンはゲーリック体育協会の会員となり、現在もクララにある同協会支部の会長を務めている。また1980年代初頭にはオファリー州のゲーリックフットボールチームにも参加していた。カウエンは地元オファリーの選挙区ではパブで有権者と交流を深めることが多い。2003年5月にはタラモアの 'The Brewery Tap' パブが進めていたチャリティCD計画にも参加している。このCDの収益金は寄付されたが、計28曲が収録され、その中にはカウエンが歌ったフィル・コウルターの "The Town I Loved So Well" も含まれている。2007年5月にカウエンは Hot Press 誌のジェイソン・オトゥーレに対して、学生のころに「友人の間でマリファナがまわっていたことがあって、私はクリントン大統領とは違って吸っていた」と話した。1984年、ドイル・エアランの現職議員だった父バーティがなくなったことを受けて、リーシュ=オファリー選挙区での補欠選挙が実施された結果、カウエンは当選を果たす。当時のカウエンは24歳で、第24期のドイルのなかで最年少の議員となった。また同じ年にオファリー州評議会議員にも選ばれ、父親の議席を引き継ぐこととなった。その後カウエンは1992年まで両方の職を兼ねることになった。カウエンは初当選から7年間、一般議員として経験を積み重ねてきた。1989年の総選挙でフィアナ・フォイルが進歩民主党と初めて連立政権を組んださい、カウエンはその連立に対して猛烈に反対した議員グループに加わった。その2年後の1991年11月、当時財務相だったアルバート・レイノルズがフィアナ・フォイル党首選挙で現職のチャールズ・ホーヒーに挑む。カウエンはレイノルズと結束してただちに "Country & Western wing" を結成する。この名称は、レイノルズの支持者の大部分が地方出身議員であったことや、レイノルズが1960年代にダンスホール事業で財を成したことに由来する。レイノルズは今回で2度目の挑戦であったが、結果党首に選出され、これを受けてホーヒーは1992年に首相の座を追われることになった。レイノルズは32歳になったばかりのカウエンについて、労働相として初入閣させた。ところがカウエンは閣僚に選ばれたにもかかわらず、連立を組んでいた進歩民主党に対して厳しい態度をとっていた。このことは1992年3月のフィアナ・フォイル党大会 () で顕著となる。党首レイノルズの演説で会場が盛り上がりを見せていたなかで、カウエンは連立に対する自らの態度を率直に示し、「進歩民主党はどういうものなのか。いったいいつになったら連立からはずすことができるのだ?」 ("What about PDs? When in doubt leave them out.") と述べている。1992年の総選挙でドイルは多数を占める政党が現れず、そのためすべての主な政党の間で連立協議が行われた。カウエンはノエル・デンプシーやバーティ・アハーンとともにフィアナ・フォイルを代表して労働党との連立協議に臨む。両党との間で合意がまとまり、カウエンは運輸・エネルギー・通信相に任命される。在任中、カウエンは議論を呼ぶことになるシャノン空港における途中降機規制を緩和する決定を行い、これによりシャノン空港への途中降機はダブリン空港発の大西洋横断航路に限られることになった。この決定については意見が分かれ、下院議員のシーレ・デ・ヴァレラが抗議のためにフィアナ・フォイルを離党した。1994年10月、担当閣僚として自らが鉱掘権の交付審議中だった Arcon 社について、カウエンが同社の株式1000株を保有していたことが発覚した。カウエンはただちに株式を売却し、ドイルで事態について謝罪した。その後1994年にアルバート・レイノルズが首相職とフィアナ・フォイル党首職を辞任する。バーティ・アハーンが代わって新党首となるが、当時のフィアナ・フォイルは野に下っていた。カウエンはフロント・ベンチ(影の内閣)のひとりとして、農業・食糧・林業(1994年)や保健(1997年)について活動していた。1997年の総選挙でフィアナ・フォイルが政権に復帰し、カウエンも新設された保健・児童相に就任する。カウエンは保健・児童相に在任していた期間について、地雷がなんの前触れもなく爆発しそうでアンゴラにいるかのようだった、と表現している。在任期間中、カウエンは1999年の長引く看護士のストライキや病院のベッド数不足と患者の混雑といった難題に取り組まなければならなかった。その後カウエンは2000年1月に保健・児童相から外相に転任された。カウエンの外相在任中には、北アイルランド和平プロセスやそのほかの国際関係、とくにアイルランドが国際連合安全保障理事会非常任理事国となったことなど、難しい外交課題が山積していた。2003年にカウエンは外相として、アイルランド共和国および政府に対して厳しい態度をとってきた北アイルランドの民主統一党党首イアン・ペイズリーの批判の標的とされた。党支持者の群集やテレビカメラ、ラジオレポーターの前で、ペイズリーはカウエンの外見を罵倒し、またカウエンの母親をも侮辱する発言を放った。2004年にアイルランドが欧州連合理事会議長国となり、また欧州連合が拡大していったなかでカウエンは重要な役割を担った。2004年9月、財務相を務めていたチャーリー・マクリービィが欧州委員会委員となることを受けて、その後任にカウエンが選任された。2004年12月1日にカウエンの下で初めて組まれた予算案が発表され、その内容は歳出を9%増やすという積極的なものと受け止められた。2005年のカウエンの2度目の予算案では、新たな児童福祉のための総合政策向けのものが多くを占めるものとなり、また2007年以降は課税の抜け道となっていた制度を厳格化し、「税金逃れの金持ち」を税制の網にかける施策を盛り込んだ。また所得税制の見直しで、52,000人の低所得者層を課税対象からはずし、また90,000人の中間所得層についても従来高課税としていたものを取りやめた。2007年度の予算編成では、同年に行われる総選挙を見越して、同国始まって以来最大規模の歳出を取りまとめた。総額37億ユーロの歳出には最高所得税率を42%から41%に引き下げたほか、年金や社会福祉手当の増額、環境保護対策といったものが含まれている。これらの政策を打ち出すものの、2008年1月には経済の見通し不安に対して無策であるという批判を受けている。閣僚に在任してきた間、カウエンはメディアの間で、バーティ・アハーンの後継の筆頭候補として取りざたされてきた。2002年にメアリー・オルークの後任としてフィアナ・フォイルの副党首に就任したことで、カウエンの立場は強化され、さらにその後、首相候補が就くと言われる財務相にも任命された。2008年4月5日、カウエンは前日にブライアン・レニハンとメアリー・コクランの後押しを受けてフィアナ・フォイル党首選挙に立候補した。その4日後にカウエンは第7代党首に選出され、5月6日に就任した。2008年5月7日、カウエンはドイル・エアランから首相指名を受ける。指名選挙の投票結果は88対76であり、指名を受けた後に大統領メアリー・マッカリースから首相に任命され新政権を発足させた。その後アイルランドは経済危機に瀕し、カウエンも非難にさらされることとなる。2011年1月18日に党首信任選挙を行ない信任は得たものの、続投に反対する閣僚6人が内閣を去ったため、同年3月11日までに解散総選挙を行うことを表明。1月22日には党首を辞任すると発表した。首相職には総選挙の時点までとどまった。2009年1月に来日している。タブロイド紙や大衆メディアではカウエンを "Biffo" と表現することがある。"Biffo" とはオファリー州出身者に対する蔑称で、 "Big Ignorant Fellow From Offaly" (オファリーからやってきた図体の大きい無知なやつ)の頭文字に由来している。これに対してカウエン自身は、"Biffo" とは "Beautiful Intelligent Fellow From Offaly" (オファリー出身の秀麗で知的な人間)だと反論している。またアイリッシュ・インデペンデント紙は新たに "Gruffalo" (Grumpy Rude Uncensored Fellow From Around Laois Offaly: リーシュ・オファリーあたりからやってきた、無愛想で品がなく、発言に注意をはらえないやつ)というアクロニムを作り出した。カウエンはドイルにおいて「品格がない」ということで批判を受けている。ドイルでの激しい論戦が終わってカウエンが席に着き、副首相のメアリー・コクランと代わったさいに、議場内のマイクが "fuckers" というカウエンの声を拾っていたことから、「品格がない」と評されることになった。この発言について直後にカウエンは謝罪している。2008年6月12日の国民投票でリスボン条約の批准が拒否されたことについて、一部メディアや政治評論家はカウエン政権に対する反発という見方を示している。アイリッシュ・インデペンデント紙は国民投票の結果を、「ここ数十年で最大の政治危機」と表現した。コラムニストのブレンダン・オコンナーは投票結果について「カウエンとその支持者にとって屈辱的な失敗」と評している。この結果はカウエン自身が惹き起こしたものという見方もあり、2008年5月12日にラジオのインタビューで、カウエン自身もリスボン条約をまだ読んでいないと発言していた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。