アンカラの戦い(アンカラのたたかい、英語:Battle of Ankara)は、1402年7月20日にアンカラ近郊において、バヤズィト1世率いるオスマン朝軍とティムール率いるティムール朝軍の間で行われた戦闘。オスマン帝国は1299年の建国以来、西に向って大発展し、1389年、ムラト1世はコソボの戦いで、当時バルカン半島に君臨していたセルビアを破った。1396年、その後を継いだバヤズィト1世はハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ連合軍をニコポリスの戦いで破り、「雷帝」と恐れられた。一方、モンゴル帝国の支配の弱まった中央アジアでは、ティムールが大国家を建設し、、1370年にはティムール朝を建設していた。ティムールとバヤズィトが対決した直接の原因は、ティムールに追放された黒羊朝(トルクメン)の族長をバヤズィトが援助したこと、及びムラト1世とバヤズィトに滅ぼされたベイリクの君主たちをティムールが援助したことであった。ティムールはアナトリアに向けて進軍し、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲していたバヤズィト1世はこれを聞いて、そこから急ぎ戻った。ティムール軍は、オスマン帝国に支配権を奪われた小アジアの元君主たちの勢力を加えて約20万人、バヤズィト軍は約12万と推定される。この時、ティムール軍には象軍もあったとされている。両軍はアンカラ北東で激突、戦闘は朝から夜間まで続いたという。オスマン軍中の小アジアの勢力が、ティムール側に寝返ったのを機に、戦況はバヤズィト側に不利になった。バヤズィトは退却しようとしたが落馬して捕虜となった。敗戦によって、オスマン帝国は一時壊滅的な状況となり、滅亡の寸前まで追い詰められていた東ローマ帝国は救われた。バヤズィトは翌年に捕虜のまま病死し、息子らの間で帝位を巡り争われるなど、オスマン帝国は空位状態となった。その後、バヤズィトの子メフメト1世により再建されたオスマン帝国は、1453年にメフメト2世によって東ローマ帝国を滅ぼし、大きく発展した。一方、ティムールはこの戦いの余勢を駆って、明の永楽帝の朝貢の要求に対して遠征を決意。1405年、68歳のティムールは20万の大軍を率いてシル河畔のオトラルまで来たがそこで病死した。ティムール朝はその後1世紀ほど存続したが、ウズベク族のシャイバーニー朝によって1500年にサマルカンド政権が征服され、1507年にヘラート政権が降伏し、滅亡した。
出典:wikipedia
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