陶 謙(とう けん、陽嘉元年(132年) - 興平元年(194年))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は恭祖。揚州丹陽郡の人。『後漢書』と『三国志』魏志に伝がある。幼い頃から好んで学問に励み、やがて太学に行った。地方に戻ると郡・州の役人となり、やがて茂才に推挙された。以後は、廬県令に任命されたのを皮切りに、幽州刺史に昇進した。中平2年(185年)、中央に召還され議郎となり、韓遂らを討伐するため張温の指揮下で涼州に派遣された。徐州で黄巾党の残党が蜂起したため、徐州刺史に任命され、その討伐にあたった。初平元年(190年)、董卓に反対する義兵が近隣の州郡で蜂起したが、陶謙は事態を徐州から静観した。黄巾の残党が再び活発化すると、陶謙が孫堅に援軍を依頼したため、孫堅軍の朱治が援軍を率いてやって来たこともあったという。董卓の死後、李傕・郭汜が長安の朝廷を牛耳るようになると、陶謙は朱儁に太師となることを勧め、諸侯同盟の復活を目論んだが、孔融・鄭玄など一部の太守や学者の賛同しか得られず、まもなく朱儁本人が長安の朝廷への帰順を決めたため、 陶謙の目論見は頓挫した。陶謙は間道を使って長安に貢物を送ったため、安東将軍・徐州牧に任命され、溧陽侯の爵位を得た。関東の諸侯が互いに争う中で、陶謙の推挙した王朗が会稽太守に任命されるなど、陶謙は揚州にもその勢力圏を伸ばすようになった。この頃の徐州は豊かな土地であり、流民が戦乱を避けて身を寄せるほどだったといわれる。しかし、その中にあって陶謙は次第に道義へ背くようになり、感情に任せて行動するようになっていった。袁紹・曹操と袁術・公孫が争うようになると、陶謙は公孫瓚に呼応して発干に出陣し、袁紹を圧迫しようとしたが、曹操に打ち破られた(魏志「武帝紀」)。初平4年(193年)、下邳の闕宣が勢力を振るうようになると、陶謙は闕宣と同盟して泰山郡の費県・華県において略奪を働いた。しかしやがて仲違いが起こったため、闕宣を殺害しその軍勢を吸収した。また、同時期に曹操の父曹嵩が、陶謙の勢力圏内で殺害されるという事件が起きた。一説には陶謙が殺害したともいわれ、陶謙は兗州を治めていた曹操の仇敵となった。同年秋、陶謙は曹操の侵攻により領内の十数城を奪われ、彭城での大戦や曹仁率いる別働隊と戦った傅陽戦を始め、取慮・雎陵・夏丘の各地で敗退した。陶謙は郯の地でようやく侵攻を押し留めたという。一方の曹操は兵糧を切らしたため撤退した。この一連の軍事行動の中で、曹操は各地で男女合わせ数十万人規模の住民を殺戮し、さらに犬や鶏まで残らず殺したため、泗水の流れが堰き止められるほどであったという。これによって、中央の戦乱からの避難民で豊かとなっていた徐州は、壊滅的な打撃を受けた。この戦いでは、公孫瓚軍の田楷・劉備が陶謙側の援軍に来ていた。陶謙は劉備を引き留め、豫州刺史に推挙し小沛に駐屯させ、丹陽兵4,000人を与えるなど厚遇した。興平元年(194年)、徐州に曹操が再侵攻した。五城が陥落させられ、さらに瑯邪を越え東海まで攻め込まれた。郯の東に曹豹・劉備を駐屯させていたが、曹操は帰還途中に郯を通過した時、両者を撃破した。曹操は通過した地域で多数の者を虐殺したという。陶謙は、瑯邪・東海の諸県を曹操が蹂躙していることに怖気付き、故郷の丹陽へ逃げ帰ろうとしたが、曹操の本拠地である兗州で、張邈・張超兄弟と陳宮らが呂布を引き入れ反乱を起こしたため、曹操軍が撤退することになり、危機を脱した。しかし陶謙は病で重篤に陥り、子の陶商・陶応が揃って不出来であるという理由から、糜竺に徐州を劉備に譲るよう遺言を託し、間もなく死去した。齢63だった。
出典:wikipedia
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