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カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ (客船)

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ(独:'、グロッセと表記されることもある)は、ドイツの北ドイツ・ロイド社所属の客船。船名の由来はドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(「偉大なる皇帝ヴィルヘルム」の意)であり、初めてドイツの船舶でブルーリボン賞を受賞し、初めて第一次世界大戦で撃沈された民間船である。カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセはシュテッティンのフルカン・シュテッティン造船所で建造され、1897年5月4日に進水、同年9月19日にブレーマーハーフェン - ニューヨーク間で処女航海を行った。1897年11月、ニードルスからニュージャージー州のサンディ・ホークへ向かう航海で大西洋横断の新記録を達成し東回りのブルーリボン賞を、その航海の4ヵ月後に西回りのブルーリボン賞を奪った。その後、ハンブルク・アメリカ・ライン社の客船ドイッチュラントが1900年7月に東回りの記録を、1903年9月に西回りの記録を更新し、本船からブルーリボン賞を奪った。こうしてしばらくの間はドイツの船舶がブルーリボン賞を保有していたが、その後はルシタニアとモーリタニアがブルーリボン賞を受賞したため、再びイギリスの船舶がブルーリボン賞を保有することとなった。カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセは初めて商業用に開発された無線機器を搭載した船舶で、マルコーニ社の開発した無線機器を1900年2月に搭載した。この機器のデモンストレーションとしてドイツの灯台、30km北西に停泊した灯台船、イギリスに同じ機器が設置され、交信を行った。本船は初めて4本の煙突を取り付けた船舶でもあった。1900年6月、ホーボーケンの港で大規模な衝突事故が発生し、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセは客船メイン、ブレーメン、セールと衝突した。この事故で161名の乗務員が死亡した。その6年後、1906年11月、ロイヤルメール社の客船オリノコと衝突し、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセの乗客が5名死亡、船体には幅21m、高さ8mの巨大な穴が開いた。この事故の海難審判では、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセに責任があるとされた。第一次世界大戦が始まるとカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセは徴用されて仮装巡洋艦にされ、10.5cm(4インチ)砲6門と37mm機関砲2門が装備された。1914年8月4日にカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセはReymann艦長の指揮の下ドイツから出撃し、大西洋へ進出。8月7日、トロール船Tubal Cain(227トン)を沈めた。8月15日、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセは3隻の船を発見した。女性、子供を多数乗せていたGalician(6762トン)とArlanza(15044トン)は解放することになったが、ニュージーランドおよびモンテビデオから肉を積んでイギリスに戻る途中であったKaipara(7392トン)を沈めた。さらに8月16日にも貨物船Nyanga(3066トン)を沈めた。そのあと、燃料不足となったカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセはリオ・デ・オロで補給船と合流して補給を受けていたが、8月26日にイギリス巡洋艦「ハイフライヤー(")」が現れた。ハイフライヤー艦長は降伏を薦めたもののカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ側は拒否して戦闘になったがそれは一方的なものであり、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセは横転して浅瀬に沈んだ。イギリス側はハイフライヤーが沈めたと考えているが、ドイツ側はカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセは自沈したとしている。戦闘でハイフライヤーでは一人が死亡し6人が負傷した。カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ側の死傷者数は不明である。Reymannなど82人はスペインの港までたどり着き、抑留された。また400人近くが石炭船Bethaniaに救助されたが、Bethaniaはイギリス巡洋艦エセックスに拿捕された。|-

出典:wikipedia

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