緑の革命(みどりのかくめい、)とは、1940年代から1960年代にかけて、高収量品種の導入や化学肥料の大量投入などにより穀物の生産性が向上し、穀物の大量増産を達成したことである。農業革命の1つとされる場合もある。ロックフェラー財団は、1944年結成のノーマン・ボーローグらの研究グループ(1963年に国際トウモロコシ・コムギ改良センターに改組)と1960年設立の国際稲研究所に資金を提供し、緑の革命を主導した。在来品種は、一定以上の肥料を投入すると収量が絶対的に低下する。それは在来品種の場合、倒伏が起こりやすいために肥料の増投が収量の増加に結びつかないからである。そこで、導入された主な高収量品種(High Yield Varieties: HYVs)として、メキシコ・メキシコシティー郊外でアメリカ合衆国の農学者・ボーローグらによって開発されたメキシコ系短稈コムギ品種群や、フィリピン・マニラ郊外の国際稲研究所(IRRI)で開発されたイネ品種IR8などが挙げられる。これらの短稈品種は、植物体全体の背が低くなるが穂の長さへの影響が少ない性質(半矮性)を導入したものである。半矮性の導入によって作物が倒伏しにくくなり、施肥に応じた収量の増加と気候条件に左右されにくい安定生産が実現した。なお、高収量品種を近代品種と近年では言い換えられている。かつては、高収量品種と呼ばれたが、生産環境に関わりなく常に高収量を実現できるわけではないためである。緑の革命に寄与した他の要因として、灌漑設備の整備・病害虫の防除技術の向上・農作業の機械化が挙げられる。『緑の革命』"Green revolution"という用語は、1968年に米国国際開発庁のWilliam Gaudによって造語されたものである。また、緑の革命が広がる中で、前述のロックフェラー財団のほかに、フォード財団や各途上国の政府も緑の革命に関与することとなった。「緑の革命」によって1960年代中ごろまでは危惧されていたアジアの食糧危機は回避されただけでなく、需要増加を上回る供給の増加によって食糧の安全保障は確保され、穀物価格の長期的な低落傾向によって都市の労働者を中心とする消費者は大いに恩恵を受けた。特に消費支出に占める食糧費の割合が高い貧困層には、顕著であった。また、穀物価格の低下は、森林伐採による耕地の拡大へのインセンティブを弱め、環境保全にも大きな貢献をしたという解釈もある。CIMMYTで多収性品種の開発に努め緑の革命に大きく貢献したボーローグは、歴史上のどの人物よりも多くの命を救った人物として認められ、1970年にノーベル平和賞を受賞している。東南アジアに限れば、1950年と比較すると、コメの生産量は約4.5倍にまで増大した。その間、収穫面積は約1.8倍になったが、収量は2.5倍に増加した。つまり、収量の増大がコメの増産の原動力であった。南アジアにおいては、東南アジアと比較すると耕作可能な土地が少なく、水田の生産環境も劣っている。さらに、フィリピンを中心にして開発された品種を、南アジアの生産環境に適合させる為に長い時間を要した。これらの事情により、南アジアにおける収穫面積の増大は東南アジアより緩やかで、収量の増大についても東南アジアのものに劣っている。結果としてコメの生産量の伸びにおいても、南アジアは緩慢であった。しかし、南アジアにおいては、1980年代における収量の加速的増大があった。これは、南アジアにおいては東南アジアに数年遅れて「緑の革命」が本格的に普及したことを表している。遅れて緑の革命が開始されたベトナム、バングラデシュ、インドでは、1990年代に入っても収量が増大し続けている。メキシコは1943年にはコムギ需要の約半分を輸入していた。緑の革命が進んだ1956年には、コムギの自給自足を達成した。さらに1964年には、50万トンのコムギ輸出ができるようになった。1944年からのボーローグの研究グループは前記の成功を受けて、1959年に非公式な国際研究機関となり、さらに1963年には正式に国際トウモロコシ・コムギ改良センター(CIMMYT)となった。フィリピンでは1960年に国際稲研究所(IRRI)が設立され、コムギと同様の研究をイネについて開始した。1966年にはIR8が育成され普及に移された。当時はフェルディナンド・マルコス大統領が政権を握っており、マサガナ99計画が実施された。IR8は肥料と農薬を使用しなければならなかったが、伝統的な品種よりかなり高い収量を示した。フィリピンの年間米生産量は普及開始後の20年間に370万トンから770万トンへ増加した。IR8への切り替えはフィリピンを1970年に初めて米の輸出国に変えたが、1971年には病害虫の発生もあって再び輸入国となった。それでも、結果として1978年には、米自給を達成している。IR8の導入は農薬の大量使用に繋がり水田の生物種の減少を招くこととなった。そこで、病害虫に強いIR36などが開発されて、広く普及した。ロックフェラー財団は、メキシコでの成功経験を元に、それらの技術・品種を他の国に広めようとした。1961年インドは大飢饉に瀕した。インド農業大臣のアドバイザーであったスワミナサンによって、ボーローグがインドへ招待された。インドの穀物独占体によって強要される官僚的なハードルにもかかわらず、フォード財団とインド政府はコムギの種子をCIMMYTから導入するために共同して動いた。パンジャブ地方は、給水に信頼があり農業の成功に歴史があるため、インド政府によって最初の実験地として選ばれた。インドは、植物育種・灌漑設備の整備・農薬のための融資を含むインド自身の緑の革命計画を開始した。インドはイネに関しては即座にIR8を採用した。1968年に、インドの農学者S.K. De Dattaは、IR8の収量が無肥料栽培では約5 t/ha、最適条件下では約10 t/haであると記述した。IR8はアジア全体で成功を収め、「奇跡のイネ」と呼ばれた。インドの米の収量は、1960年代は約2 t/haであったが、1990年代中期には6 t/haまで向上した。生産コストについては、1970年代は1トン当たり550米ドル、2001年には1トン当たり200米ドル未満となっている。インドは緑の革命によって世界で最も成功した米生産国の一つであり、2006年には約450万トンを輸出する現在主要な米輸出国になっている。インドの飢饉は、一度は回避不能と考えられたが、緑の革命を導入して以降、再来していない。1970年に継続的な事務局を持つ世界的な農業研究センターの設立が提案された。世界銀行はこれを支持し、さらに発展させた。1971年5月19日、世界銀行と国際連合食糧農業機関・国際連合開発計画を共同後援者として、国際農業研究協議グループ(CGIAR)が設立された。その後、CGIARは多くの国際農業研究センターを設置し、2008年時点で15の研究センターを傘下に持っている。CGIARは緑の革命の方法論的批判に少なくとも一部は対応した。その批判は1980年代に提起され、緑の革命方式を押し付ける組織の圧力への反発として起きたものである。農業生態系分析および農法の研究が、農業の更なる全体論的視点を与えるものとして採用されるようになっている。メキシコおよびインドで成功したプロジェクトの計画を、アフリカに導入しようとする試みが数多く行われてきた。さまざまな理由から、それらの計画の多くは成功に至っていない。指摘されている理由には、広範囲な汚職・政情不安・社会基盤の欠如・政府側の意志の欠如が含まれる。その上、たとえば灌漑用水の利用可能性・地域内の標高や土壌の質のばらつきなどの環境要因がアフリカにおける緑の革命の普及を妨げている。2000年代に入って、アフリカ稲センターが主導するイネ品種群ネリカの農民参加型の品種選択法(PVS, Farmer's participatory varietal selection)を通じて、米の増産の成果が得られている。緑の革命に含まれるプロジェクトは、すでに存在していたが先進工業国以外ではほとんど利用されていなかったテクノロジーを発展途上国に広めた。これらのテクノロジーは、農薬・灌漑事業・合成窒素肥料・その時に利用できる従来の科学に基づいた(つまり狭義のバイオテクノロジーを使っていない)育種法で開発された改良品種を含む。緑の革命での新技術の開発は、「奇跡の種子」と称された物の生産であった。1966年に公開された半矮性イネ品種IR8の育種過程は次の通りである。1962年に半矮性の低脚烏尖と草丈の高いPetaを人工授粉によって交配し、130粒のF種子が得られた。F植物体の草丈は、全て高かった。これ以降の世代は人工授粉を行わずに育種された。F植物体から、約10,000粒のF種子が得られた。F植物体の約1/4が半矮性であり、それらだけが残され、草丈の高いものは廃棄された。半矮性植物体の分離比より、半矮性は一遺伝子支配の劣性形質であることが分かった。この時点で劣性ホモ接合として半矮性形質は固定されたが、他の形質は固定されていなかった。そこで、更に自家受粉によると考えられる後代をとって他の形質も固定する作業が行われた。F植物体から得られた多数のF種子由来の、多数のF植物体から優良な298系統が選抜された。この298系統から、それぞれF種子が得られた。F植物体の中から第288系統の3番目の植物体IR8-288-3が選抜され、そこからF種子が得られた。このF植物体が、単にIR8とよばれる品種のもととなった。この育種過程を通じて、IR8で様々な形質が固定された。イネやコムギの近代品種はF品種であるという誤解が一部にあるが、トウモロコシとは異なり、イネやコムギの近代品種にはF品種はほとんど存在しない。トウモロコシのように雄花と雌花が分かれている作物と異なり、イネやコムギのように両性花で自殖性の強く、かつ、種子が利用される作物の場合では、F品種の種子を大量に供給するためには、雄性不稔(male sterility)系統、雄性不稔系統の維持系統(maintainer)、雄性不稔形質からの稔性回復系統(restorer)の品種が必要とされる。これらの系統では、ほぼ全ての個々の遺伝子座が高度にホモ接合している、つまり高度に純化され、形質が固定化されている必要がある。一方、高収量、病害虫耐性を付与するために交配し、それらの形質を固定する育種過程にある系統(つまり、まだヘテロ接合の遺伝子座が多い状態)に、雄性不稔形質や稔性回復形質を個々に付与する意味がないからである。また、もし、イネやコムギがF品種であったとすると、半矮性形質は劣性ホモ接合でしか発現しないため、種子親も花粉親双方とも半矮性でなくてはならない。つまり、イネの半矮性品種・低脚烏尖やコムギの半矮性品種小麦農林10号がイネとコムギに半矮性形質を導入するために用いられたが、これらの品種と半矮性ではない他のイネやコムギの品種との間のF世代では半矮性は現れない。前述のイネのIR8の育種過程のように、これらのF世代を用いて自家受粉や戻し交配を繰り返し行い、それらによって形質が固定された後代から選抜されたものが近代品種となっている。在来品種の多くは、雑草などの競合に強く、肥料が乏しい環境下でもある程度の生育を示す生育期間が長く、草丈の長いものであった。しかし、施肥、除草などの栽培管理技術が進歩すると共に、更に多肥下で生産性が高まるように肥料に対する反応性が高く、栽培管理の労力が少なくて済む生育期間の短い品種が求められた。そこで、農学者たちがトウモロコシ・コムギ・イネで作り上げた系統は、「高収量品種群」(HYVs)と呼ばれる。それらの品種群は以下の形質を持っている。これらの形質の結果、高収量品種群は適切な灌水・農薬・肥料が施されるとき、伝統品種よりかなり多収となる。もしそれらの投与がなければ、伝統品種の方が多収となることもありえる。近代品種は単一の品種を指すのではなく、長期間にわたって開発され続けてきた品種群である。イネに関しては、IRRIの理事長(2004-2007年)を務めた農業経済学者の大塚啓二郎らによると、近代品種は第一世代、第二世代、第三世代に大別される。その分類に従うと、となる。1961年から1985年の間に開発途上国における穀物生産量は少なくとも2倍以上になっている。イネ・トウモロコシ・コムギの収量は、その期間に着実に増加した。アジアの米の場合、生産増加は灌漑・肥料・種子の開発におおよそ等しく起因していると考える人もいる。一方、収量の増加の主因は高収穫品種の普及とそれに伴う肥料の増投であり、灌漑面積の増大は従であると考えるものもいる。なお、フィリピンとインドネシアのように早い時期から近代品種を導入した国では、1980年代中期以降は収量が目立って増加していない。これは最近の近代品種IIIが近代品種Iや近代品種IIと比較して、収量性において大きな優位性を持たないことをあらわしている。遅れて緑の革命が開始されたベトナムや南アジアでは、1990年代でも収量が増大し続けているが、フィリピンとインドネシアと同様に緑の革命の潜在力が使い尽くされ、収量の停滞傾向が始まると考えられる。そのため、別の機構による生産性の向上の研究が進められている。緑の革命の結果として農業生産物が増加する間に、プロセスに入力されるエネルギー(つまり穀物生産に消費されるエネルギー)もまた更に大きな比率で…生産される穀物と投入されるエネルギーの比が時間が経つほど減少するように…増加してきた。緑の革命の技術もまた化学肥料・農薬(除草剤を含む)に大変依存している。それらの中には化石燃料から開発されなければならないものがあり、農業を更に石油製品に依存させるようにしている。石油ピーク説の支持者たちは、将来の石油・ガス生産の減少が食糧生産の低下や、更にはマルサス学派のいう破局にまで繋がるのを恐れている。世界的な食糧安全保障に対する緑の革命の影響は、食物供給体系に関係する複雑さのため理解が困難である。世界人口は緑の革命が始まった時(1960年代)から2000年代までに30億人以上も増大したが、もしも緑の革命がなければ飢餓と栄養失調が実際以上に引き起こされていたであろう。インドの年間小麦生産高は、1960年代の1,000万トンから2006年に7,300万トンまで引き上げられた。発展途上国では、緑の革命以前に比べると1日当たりのカロリー消費量が一人につき25%増加している。1950年から1984年の間に緑の革命が世界中の農業を変革したので世界穀物生産は250%に増加した。緑の革命は確かに産業としての農業の大増産を達成したが、一方でそれは化学肥料や農薬といった化学工業製品の投入なしには維持できなくなり、持続可能性が問われている。また、1970年代に入った頃から一部では生産量増加が緩やかになったり、病虫害や塩類集積によって逆に生産量を減らす例が出てきた。東南アジアの稲作地帯では、多収量の短稈品種が導入されることで、それまで農村で様々な生活必需品の重要な素材であった稲藁が使用に適さなくなったため、農民は代替としてプラスチックなどの石油化学製品の購入を強いられたほか、農地農法の改良つまり化学肥料と農薬の使用などによる土壌汚染で、水田が淡水魚の繁殖地として機能しなくなり、農民の副食の自給力をそぐことになった。このように緑の革命には、収量の増加や都市住民に安価な穀類の供給という正の側面とは裏腹に、農民達の貧困を少なからず助長する結果を招いたという負の側面も指摘されている。ただし、これらの負の側面の指摘に対する反論もあり、このような批判とそれに対する反論を列挙する。以上の反論を纏めると、東南アジアや南アジア諸国では、緑の革命によってコメを始めとする穀物の生産性が飛躍的に向上し、結果としてそれが以下のように経済全体の発展を支えたということがいえる。もし仮に緑の革命が起こらなかったとすれば、穀物価格は上昇し、労働者の生活水準は低下し、農村には多くの労働人口が滞留し、結果的に経済発展にブレーキがかかったであろうと推定される。その他の批判として、それぞれの土地に古くから定着してきた栽培種が失われることにもなり、在来品種の保存も急務となっている(遺伝資源・遺伝的多様性の保全)。ただし環境は一様なものではなく、在来品種には様々局面に適応し得る有益な遺伝子やゲノム構造性を持つものもある、多様な遺伝子の存在は将来の育種において貴重な選択肢になるので、その保全は重要である。緑の革命の欠点を反省材料とし、自然農法の普及に努める人々が多く出ている。ただし、有機農産物には法律に基づいた定義が存在するが、、自然農法とは栽培者や栽培団体の独自の基準に基づくものである。一方、穀物の供給増加と価格の低下によって、森林を開墾して耕地化する動機付けが低下したために環境保全に役立ったという意見もある。これは、緑の革命がほとんど導入されていないため、既存の耕地からの食糧生産が停滞し、耕地拡大のために森林が伐採され、過剰放牧によって砂漠化が進行しているサハラ砂漠以南のアフリカの状況と、東南アジアや南アジアの状況は対照的であることからいわれている。ボーローグは、緑の革命へのいくつかの批判点については真剣に懸念しているが、批判のいくつかは退けている。彼は自分の仕事について、「正しい方向である。しかし世界をユートピアにするものではない」と述べている。 緑の革命に批判的な環境ロビイストに対しては、以下の様に反論している。以下の文献はの参考文献であり、日本語化の際には必ずしも参照していない。
出典:wikipedia
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