大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。通称は平八郎。諱は正高、のち後素(こうそ)。字は子起。号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから養子である可能性は否定されている。平八郎の実の祖父・政之丞が阿波国脇町の出身で、与力大塩氏に養子に入ったことから、この祖父と混同されたと考えられる。奉行所時代は、狷介ながら汚職を嫌う正義漢として不正を次々と暴いた。特に、組違いの同僚である西町奉行与力・弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めた。腐敗した奉行所内では大塩を憎む者も少なからずいたが、上司の東町奉行・高井実徳の応援があればこそ活躍できた。この一件と、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自ら三大功績として扱っている。切支丹の摘発は京都町奉行所との連携で行われ、また腐敗役人糾弾と破戒僧摘発は京都町奉行所や奈良奉行所、堺奉行所など上方の諸役所にも波及し、上方の腐敗は一旦は一掃された。文政13年(1830年)の高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲った。学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾・洗心洞で子弟を指導した。江戸の陽明学者・佐藤一斎とは面会したことはないが、頻繁に書簡を交わした。大塩の存命時は寛政異学の禁の影響が続いており、朱子学がもてはやされたため、もともと狷介人である大塩は朱子学者からの不毛な論戦に時間を取られることを避けて、来客にはほとんど面会せず、送られてきた書簡への返信もしなかった。天保の大飢饉は、全国的には天保4年(1833年)秋から同5年(1834年)夏にかけてと天保7年(1836年)秋から同8年(1837年)夏にかけてが特にひどかった。前者の際には大阪西町奉行の矢部定謙が大塩を顧問のごとく遇し、また矢部の配下に内山彦次郎のような経済の専門家が揃っていたため、無事切り抜けた。しかし後者の際には矢部は勘定奉行に栄転しており、大坂東町奉行の跡部良弼は幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に廻米し、また豪商が米を買い占めたため米価が高騰した。大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、跡部に対して、蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定のためのさまざまな献策を行った。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商・鴻池幸実に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたという。幸実が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかったとされる。内山彦次郎は、跡部の指揮の下で江戸強制回米の実務を主導した。跡部は江戸への回米を徹底するため、京から5升1斗程度の米を買いに下る者をさえ召し捕えるほどであったため、京の都は餓死者で溢れた。自ずと流民は大坂に流れ込み、大阪市中の治安は悪化した。儒学は孝と忠を重んじるが、儒者たる大塩が認めた『檄文』からは、大塩が朝廷への忠を念頭に、我が主君たる幕府への諫言を行う意図が明らかに読み取れる。このスタンスは、陽明学徒の主たる特徴である。蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年(1837年)2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。大塩は戦場から離れた後、跡部の暗殺を志してか、淀川に船を浮かべて日が暮れるまで大阪東町奉行所の様子を伺った。その後、四ツ橋のあたりで長刀を川に投げ捨て、河内国を経て大和国に逃亡した。数日後、再び大坂に舞い戻って下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏した。一月余りの後、美吉屋の女中がいつも2人分の食事が余分にあるのを不審に思い、大坂城代(下総国古河藩主)土井利位の摂津平野郷陣屋に密告したことで幕府方に発覚し、役人に囲まれる中、養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決した。享年45。大塩平八郎の乱が鎮圧され、一月後に潜伏先を探り当てられて大塩が養子格之助とともに自害した際、火薬を用いて燃え盛る小屋で短刀を用いて自決し、死体が焼けるようにしたために、小屋から引き出された父子の遺体は本人と識別できない状態になっていた。このため「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が天下の各地で流れた。また、大塩を騙って打ちこわしを予告した捨て文によって、身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年、アメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これらに加え、大塩一党の遺体の磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。幕府の吟味は、乱の関係者が数百人に上ることに加え、未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の二段階の吟味となり、一年以上の長期に渡ることとなった。事件の大きさからすれば吟味が遅延したとはいえないが、天下の注目を集めただけに、町人出身の京の老儒猪飼敬所のように、なかなか仕置が定まらないことに不審を持つ者も多かった。仕置は翌年に言い渡され、大塩以下、主だった者たちの磔が大坂南郊の飛田刑場において行われた。竹上万太郎を除き、塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされるという異様な風景で、さらに生存説に拍車をかけることとなってしまった。ただし、大塩の友人で乱鎮圧の立役者となった坂本鉉之助は、市中引き回しとなった大塩の遺体を見た知人の話として、確かに大塩の面影があったと松浦静山に述べている。大塩父子の終焉地近傍の大阪市西区靱本町1丁目18番12号(天理教飾大分教会の敷地内)に、追悼碑がある。碑文にもある通り、終焉地である油掛町の美吉屋の跡は、この碑がある道路の一本北の道に北面していた。平八郎と格之助の墓は大阪市北区の成正寺にある。戦災で破損した墓を1957年に復元したものであり、まだ新しい。いずれも乱の直後に大坂町奉行所によって禁書とされ、売買を固く禁じられた。現在の出版状況については「関連文献」の項を参照のこと。大塩の主著の概略は「著書」の項を参照のこと。これら以外にも多数の小説がある。
出典:wikipedia
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