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臨済院

臨済院(りんざいいん)は、1701年から明治時代まで、陸奥国宮城郡芋沢村吉成(現在の宮城県仙台市青葉区臨済院)にあった黄檗宗の寺院である。山号は河北山。江戸時代には仙台の黄檗宗の有力寺院であったが、明治時代に廃寺になった。境内の建物としては弁財天堂だけが残り、「臨済院地内弁財天堂並びに堂地」の名称で仙台市の有形文化財に指定されている。黄檗宗に傾倒した仙台藩主伊達綱村が、元禄14年(1701年)に仙台の北西の外れにある角五郎丁に作らせたのが始まりである。綱村が筆をとって額の字を書き、仙台城内の万善堂にあった如意輪観音像を本尊とした。開山は、仙台近郊にある大年寺の第4世鳳山であった。鳳山は、大年寺の役僧を1か月交代で臨済院に派遣して管理した。寺には料具金13両と、人足扶持8人分が与えられた。綱村の後を譲られた伊達吉村は、正徳4年(1714年)2月9日に、栗原郡一迫畑岡村で4貫700文、志田郡下中野目村で5貫300文、合計10貫文(100石)の寺地を与え、かわりに料具金・人足扶持を停止した。正徳5年(1715年)9月に、吉村は臨済院を芋沢村の吉成に移した。その頃は綱村も隠居として存命で、家臣をやって祝儀の品を届けさせた。享保元年(1716年)10月には吉村が参詣して、鳳山が70歳になったことを賀す歌を詠んだ。鳳山は、その年の8月に五社明神社を、翌年3月には疱瘡神社を境内に建てた。他に、いつ作られたか不明な弁財天堂があった。臨済院は、安永3年(1774年)頃には塔頭を10、末寺を23持つ大寺院で、仙台藩の寺の序列で着座格とされていた。安永2年(1773年)1月21日に、寺内の木を盗伐しようとした樵夫(きこり)の頭と背を副寺の龍田が杵で打って殺した。行方不明になった樵夫を捜しに来た親戚に、龍田は樵夫を追い出したと答えたが、後に死体が見つかったため殺人事件になった。龍田には斬罪、住職には捜索に非協力的だったことにより蟄居の判決が下った。明治になって、寺領と藩の保護を失うと衰退し、明治20年(1887年)頃までにすべての堂宇を失い、廃寺になった。境内にあった弁財天堂だけが地元の人々に守られて残った。昭和60年(1985年)に発掘調査が実施された。寺の東にあった山門跡、本堂跡と思われる石垣遺構、鐘楼の基壇、性格がはっきり確定できないが寺の石垣遺構、井戸跡が確認された。また、遺物としては江戸時代の陶磁器が多数出土した。方三間、宝形造、銅板葺の仏堂。建立年代は様式から江戸時代中期とみられ、解体修理時に「宝永」の年号を墨書した板(棟札か)が発見されたことから、宝永年間(1704 - 1711年)の竣工とみられる。臨済院直属ではなく、塔頭の慈峯院が別当として管理した。臨済院が廃寺となり、建物がすべて失われても、このお堂だけは地元の住民が守って維持された。昭和62年(1987年)9月に宮城町が町の有形文化財に指定し、これを受けて修理のための河北山臨済院弁財天堂修復奉賛会が作られた。宮城町は同年中に仙台市に合併したため、仙台市の文化財となり、市の補助を受けて修復奉賛会が平成元年(1989年)に堂を修理した。弁財天堂の裏には湧き水があり、小さな池からあふれ出る細流は下って梅田川に注ぐ。かつて周辺には湿気を好み木に着生するカヤラン、モミランが生えていたが、周辺の宅地化が進むと見られなくなった。以上、「安永風土記書出」による。以上、「安永風土記書出」による。

出典:wikipedia

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