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帆足長秋

帆足 長秋(ほあし ちょうしゅう、宝暦7年12月8日(1758年1月17日) - 文政5年1月14日(1822年2月5日))は、肥後国山鹿郡三玉村久村(現・熊本県山鹿市久原)に鎮座する天目一神社(あめのまひとつじんじゃ、薄野 一ツ目神社)及び 靈仙 二宮神社(りょうぜん にのみやじんじゃ)の神官、国学者で遠祖は豊後の帆足氏。姓を清原真人、名を政秀とも長秋とも称す。字は徳甫、通称を式部、号を抱月、徇精錦渓主人老槃洞屋号を考槃洞または抱月洞とも号した。長秋は地元の小さな社家の出で生活は質素であったが若きより学問に対する志が深く、明和9年(16歳)の秋から近郷の先生に従って教えを学び、安永9年~天明元年(24・25歳)の頃には更なる向学の心に燃え、守山八幡宮の守山河内守廣豊について橘家神道を学んだ。すでに長秋は天明元年の頃には『鈴録』、天明2年に『南留別志』及び『絶句解』、天明3年に『文章一貫』を借覧して写してをり、また天明5年冬には廣豊の宅で『風水草管窺』を写しているが、これは当時長秋が漢学に於いて荻生徂徠の学問を学び思想的には垂加神道の中にいたことを示している。此の神道は、山崎 闇斎(やまざき あんさい)が提唱した伊勢神道や他の神道に朱子学を統合した独自の学問で、崎門学もしくは崎門神学とも称される。既存の神道思想とは趣の違う国学の思想にたいしては羨望の眼差しを抱いておられた長秋ではあるが、本居宣長の学問に触れる契機や切っ掛けが何であったかは定かではないと云われている。その時節の頃、宣長は既に古事記上巻の傳を了へており、『直毘霊』『詞の玉緒』等の著述をなし更に『葛花』を著して、市川匡麿の論難に応へるなど、古学者として活発な活動を展開していた。そのような矢先、長秋は天明6年(30歳)4月27日三度目の伊勢参宮の途次、伊勢松坂在住の本居宣長の下を訪ねて入門し九州人としては最初の鈴屋入門者であった。宣長の許可の下、直筆稿本の「直毘霊」を手始めに筆写している。しかしこの逗留は諸般の事情もあつて、永く滞在することも儘ならず、後ろ髪を惹かれる思いで帰郷し、宣長宅で筆写した和綴じの本の奥書には、天明6年丙午夏四月於勢州松坂書 肥後清惟馨と懐かしむが如く記しておられる。この直毘霊を紐解く事によって古典の新しい解釈に接した長秋は、学問的にも思想的にも急角度の転回をした。郷里に戻ってからも彼は常に心を松坂に馳せ遊学の念しきりなるものがあったが、神官としての務めや貧窮の為に思うにまかせなかった。しかし寛政3年(35歳)になって、いよいよその志を遂げる時がやって来た。長秋は鹿本郡分田村八幡宮の神職杉谷参河氏を相伴って五月二日に出発六月二十日一旦松坂に着いて友である杉谷氏の鈴屋入門を済ませ、八月には東行し、十月上旬再び松坂に戻り、それから翌年二月上旬まで滞在し、古典や歌文の研究に孜々として励み、その間十月二十八日から十二月二十八日までの日子を費やして、宣長の書き入れ本萬葉集から、その書き入れの部分を書き抜いて『萬葉集諸説』を編んだ。かくて7年後寛政10年(42歳)になって妻と娘の京(みさと)を伴って伊勢参宮の後に松坂へ長期滞在し三度宣長宅を訪れ「古事記伝」全44巻他師の大部分の著作を借覧して模写し習得、写本は肥後に持ち帰って郷里の国学の普及に努めた。因みにこの古事記傳を父子が全巻書き写し終えて、長秋一家は九月二日に松坂を立ち伊勢神宮に参拝して再び松坂に立ち寄り郷里に辿り着いたのは十一月廿五日のことであったが、宣長宅から二人の愛弟子を見送った宣長は、その後暫くして逝去されてしまい、帆足父子とはこれが永久の別れとなってしまった。現在長秋の著作は数種遺されており紀行文や和歌への嗜みもあったと言う。松坂から写し持ち帰った古事記傳全巻揃いの写本類は、松坂の本居宣長記念館以外では熊本県山鹿にある市立博物館に唯一展示されていると言う。昭和30年松阪殿町松阪市役所内から本居宣長顕彰会により、非売品として「鈴屋読本」なる冊子が発行されている。この中で長秋について触れている部分を抜粋させて戴く。『宣長には門人が全国にわたつて四百余人ある。鈴木梁満(やなまろ)のように破門された者もまれにはあつたが、どの門人も学問を尊び、研究に熱心な人ばかりであつた。肥後国山鹿郡久原村一目明神の社司帆足長秋もその一人である。長秋は、寛政三年の冬、同じ肥後の学友杉谷参河と共に松坂に来り、何十日も泊り込んで「万葉集」書入れ本の写本を行つた。両人ともに家がまづしく、宿をとらずに部屋を借り、食事も自分で作つて鈴屋へ通学した。長秋はこの時ご飯をたべずに毎日おからを食つてはげんだが、帰るころにはその価が一貫文にもなつた。とうふ屋の主人は長秋の熱心さに感じてその代価を受けなかつたと言う。享和元年には十五才になるむすめの京(みさと)をつれて、長秋は第四回目の勉学に松坂へ来た。相かわらず貧しいので、戸屋氏の古家を借りて居たが、のきはかたむき屋根は破れて居た。ある日同じ松坂の門人笠因直麿(かさよりなおまろ)が長秋をたづねて来て居た。時に雨がふつて来て雨水がたたみの上に漏って来た。長秋は「京、何かで雨水を受けなさい。」と言いつけたが、京は「たらいもありません。おけでははばが足りません。」と言つて、雨はもり放題にして半紙へ次の歌を書きつけた。☆この宿は海にらなくに雨ふればたたみの上に波ぞたちぬる. 「これはおわかいに似ず立派なお歌、私が家主に代わってお答えしましょう。」直麿はこう言って次の歌をしたためてこれに和した。☆波のたつたたみの上はつらくとも里の名にめでまたも来ませよ.  里の名とは「またも来るのを待つ(松坂)」という意である。そのうち旅費はつきて来た。写本のためにはまだ二十日ばかりは泊る必要がある。さあこまつた。処がこの事を稲縣(いなき)大平が聞き「これは気の毒だ、旅費の不足はおぎなうから最後までつづけなさい。」とはげまされたので、長秋大きに感謝し一そう勉強につとめた。この時、長秋は次の歌をよんで、学問を奥深く学ぶことの悦びをうたつている。☆はてもなきまなびの道をたづぬればとはに旅ゆくここちこそすれ.  こうして六十日余り泊りつづけて勉強し、九月一日にやつと学業を終り、国に帰ることゝなつた。宣長は常に長秋の苦学に感心して、親切に導きはげまして居たが、父子が松坂を去るにおよび、別れをおしんで歌を送られた。またむすめの京がわかくて学才にすぐれ、歌文の道に熱心な様をほめて居られたが、次の歌をおくつてはげまされた。☆わか葉より香ことなる白ぎくの末長月の花ぞゆかしき. こうして長秋親子が宣長に別れて松坂を去つたが、これは師弟一生の別れとなつた。宣長はその月二十九日に死んだのである。長秋の苦心篤学の思いは後に報いられて、熊本に於ける鈴屋学の開祖とあがめられるに至つた。』宣長28歳の頃に帰郷後、松坂魚町一丁目の自宅内で内科・小児科医を開業し、その余暇には宅にて古典講釈塾を開き「源氏物語」等を町人に教えていた。宝暦13年(1763)年江戸の国学者賀茂真淵と松坂に於いて一夜対面し、翌年入門文通で指導を受け約6年間交流が続いた。入門の弟子も増え、宣長の家の二階を53歳のとき改造して新しい書斎を作った。この工事は天明2年の冬に出来上がり、静かに勉学に打ち込めて学問の出来る書斎となつた。明くる年の3月9日、門人らとともに初めて歌会が催された。その時宣長は、この部屋に鈴をかけてこれを鳴らし、その清い音にむかしをしのぶことを歌に詠んでいる。そして、この家の書斎を鈴屋と名付けた。大変鈴を愛でておられた宣長は珍しい鈴を集めておられた。現在松坂の鈴屋遺跡保存会には八角型鉄鈴・三つ独胡鈴・巾着型古鈴・茄子型古鈴・駅 鈴・人面の古鈴・八面型古鈴など7種類の鈴が保管されている。○「鈴屋集」五に鈴屋をよんだ長歌の後に次の記事を書きその由来の次第を明らかにしている。「鈴の屋とは、三十六の小鈴を、赤き緒にぬきたれて、はしらなどにかけをきて、物むつかしきをり引きなして、それが音をきけば、こゝちもすがすがしくおもほゆ、そのすずの歌は、☆とこのべにわがかけて いにしへしのぶ 鈴がねさやさや☆ かくて、此屋の名にもおほせつかし。」長秋は読書家であったが、貧しい生活の為に本も碌に買えず、蔵書家などからしばらく書物をかりては読み、模写していた。長秋の書写した書物は約千巻近くに上ったと言われている。奥書集や紀行文や和歌なども数多書かれているが、代表的な著作としては、『本名草』『勧学譚・続編』『盈嚢集』『遺文集』etc.がある。著述をする傍ら、師宣長の教えを広め、肥後国学の隆盛の基を築いた功労者でもある。例えば、肥後の国学者長瀬真幸は、帆足長秋の書物を通じて本居宣長を知り、宣長の門人となった。さらに真幸の門人には、中島広足、林桜園、和田厳足らがいる。帆足 京(ほあし みさと、天明7年(1787年)12月22日 - 文化14年(1817年)2月12日)は、日本の国学者、歌人。長秋三十路の時の息女である。幼名を八潮、美佐登、御郷とも称し幼少より聡明な娘であった。若き頃より父の教えを受けて国学に関心を抱き詩歌や書道を嗜む。享和元年(1801年)の4月、京15歳の折に父母に伴われて山鹿より上京して約80日に及ぶ長旅の末に松坂の本居家に約80日間滞在した。松坂では父と伴に本居宣長の講演や歌会にも列席し、また長秋と伴に「古事記伝」をはじめ宣長の書かれた多くの書物を筆写した。その後、肥後熊本藩士岡小平太の弟貞亮を養子に迎えたが、長秋と些細な事で不仲になり、京夫婦は出奔して諸国を流浪し、文化14年(1817年)2月12日長門国二見浦に京は歿した。31歳の若さであった。著書に享和元年の旅日記「刀環集」がある。

出典:wikipedia

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