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大木 (守谷市)

大木(おおき)は、茨城県守谷市の大字。旧北相馬郡大木村。郵便番号は302-0107。当地域の人口は577人(2010年1月1日現在、常住人口調査による。守谷市調べ)。守谷市北部に位置する。地域の中央を鬼怒川が流れ、地域の東部を県道野田牛久線・県道58号取手豊岡線が通る。また、地域内に県立守谷高等学校がある。東は薬師台、緑、西は野田市木野崎、南は野木崎、北は板戸井と接している。大木には50の小字が存在する。以下の小字のうち高崎、高崎下、前田、薬師堂の各一部は、緑一・二丁目に編入された。廃止された小字以下の小字は、緑一丁目・緑二丁目の一部となり消滅した。当地域は、古くは守谷郷に属し、全域が下総国相馬郡大木村となっていた。元は鬼怒川は流れていなかったが、鬼怒川掘削のために働いていた内守谷村の人夫が1625年(寛永2年)に土砂崩れで死亡した記録があることから、それ以前に鬼怒川の掘削が始まっていたと推測され、1634年(寛永11年)ごろ掘削が完成したと考えられている。また、その頃は隣の板戸井村同様に一色氏の知行所であった。寛永年間に行われた鬼怒川の掘削以後、西岸の三角州低地の入植が行われ大木新田が成立した。しかし、河川に囲まれた低地であることから洪水の被害に遭うことが多く、人々は「流作場」と称するようになり、現在でも「大木流作」の呼び名が残っている。流作場での農業は洪水を覚悟の上で行わねばならなかったが、領主も状況を考慮して平年でも年貢を少なくするなどの措置を取り、三年に一度収穫があれば暮らせると言われた。また、大木流作地区の開発は近隣の相馬郡鹿小路村(現:常総市内守谷町字鹿小路)、葛飾郡目吹村(現:野田市目吹)、葛飾郡保木間村(現:野田市)の三家によって始められたと伝えられ、その三家はそれぞれ「上の家(かみのうち)」、「中の家(なかのうち)」、「下の家(しものうち)」と称され、それぞれ地域の北・中・南部に居を構えた。その後も入植が行われ、江戸時代末期には17戸となった。1877年(明治10年)には大木村と合併し、再び大木村の一部となり、明治、大正を経て、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)になると、山形県出身者を中心とした満州からの引揚者が「大八洲(おおやしま)開拓農業協同組合」を組織し、当地の開墾をさらに進めた。大木流作地区は近代的に整備された田園地帯となると共に、酪農も行われるようになった。そして、2006年(平成18年)には、田畑が約370ha、牧草地約70ha、酪農血約20ha、居住戸数21戸を数えたが、水害が懸念されることから住民の利根川東岸への住居移転が進められ、2007年(平成20年)には完了した。現在では当地は無人地帯となっているが、周辺地域が市街化する昨今においても広大な田園地帯が広がり、畑作や酪農が今なお続けられている。また、江戸時代には洪水対策のために住居を建てる土地は盛土が行われるなどの工夫が行われていた。台地と谷戸が入り組んだ土地であることから、大木新田とは対照的に台地に住宅、谷戸や低地を水田として土地利用が行われていた。また、鬼怒川掘削後は舟乗りを家業とする者が多く、男は常時家にいる者が少なくなっていたので、壬申戸籍作成のための人口調査時には人口調査の延期を願い出ている。「旧高旧領取調帳」によると、幕末には田安領(484石6斗2升)と幕府領(31石6斗4升9合)となっており、幕末より下総野鎮撫府、下総知事県の管轄となり、1869年(明治2年)には葛飾県、1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1877年(明治10年)には大木新田が再度大木村へと編入され、1878年(明治11年)の郡区町村制では大区小区の区分けが廃止。同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡大木村となる。1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の板戸井村、大山新田、立沢村と合併し、大木は大井沢村の大字となり、1955年(昭和30年)3月1日には同じく北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字となる。1983年(昭和58年)には守谷市内初の高等学校である県立守谷高等学校が地域内に開校。1988年(昭和63年)11月22日より、地域の一部を工業団地とするために(もりや工業団地)開発が始まり、1993年(平成5年)10月29日には緑一・二丁目として分離した。2002年(平成14年)2月2日の守谷市の市制施行により、守谷市の大字として現在に至る。地域内にある大円寺の大椋の樹が大木であったことから「大木」とした。守谷市コミュニティバス「モコバス」が地域内を走っている。モコバス地域内には「大木」停留所がある。また、当地域内は右回り、左回り共に同じルートである。市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

出典:wikipedia

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