カカ(、本名:リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ、、1982年4月22日 - )は、ブラジル・首都ブラジリア出身のサッカー選手。メジャーリーグサッカー・オーランド・シティSC所属。ブラジル代表。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。2007年2月にはイタリア国籍も取得した。ブラジルの首都ブラジリアで生まれ、生後すぐにクイアバに移り、7歳の時にサンパウロへ移る。父がサンパウロFCのクラブ会員だったことから、9歳でサンパウロFCのクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものを持っていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後クラブでのトレーニングの成果でビルドアップに成功、弱点を克服した。17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている。18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打し頸椎を損傷する重傷を負い、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。カカは、これを神のおかげであるとし、十分の一税を行った。なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている。また、事故からわずか4ヶ月後には2001年2月のボダフォゴ戦でサンパウロのトップチームデビューを果たした。途中出場ながら2得点を決める活躍を見せると、以降サンパウロのトップチームに定着する。2003年、850万ユーロ(約12億円)の移籍金でACミランへ移籍。サンパウロでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾとマッシモ・アンブロジーニがそれぞれの背番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった。入団時のメディカルチェックでは特にずば抜けていた加速値と絶対スピードの項目をはじめ、それまでの選手とはかけ離れて高い数値を記録。ミランラボの担当者は「こんな数字は見たことがなかった」と証言した。移籍初年度である2003-04シーズンの開幕戦から驚異的な活躍でスタメンの座を確立し、同シーズンはセリエAで30試合に出場、チームのスクデット(リーグ優勝)、UEFAスーパーカップ獲得に大きく貢献した。2004-05シーズンはアンドリー・シェフチェンコの後ろの位置でプレーし、36試合で7得点を決めた。この年、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝でリヴァプールFCにPK戦で敗れたものの、カカは投票による大会最優秀ミッドフィールダーに選ばれた。イスタンブールの悲劇ともいわれるリヴァプールFC戦の敗北について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている。また、2004年には国際連合世界食糧計画における最年少大使となった。ACミランとは当初2009年6月までの契約であったが、2005-06シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブのセリエB降格の危機が報じられ、カカの元にも複数のクラブから移籍のオファーが舞い込んだ。プレミアリーグのチェルシーFCから7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、ミランは受け入れなかった。このとき本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う」と発言。その後2006年7月15日にミランは降格を免れる判決を下された。2006-07シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグにて10得点を決めブラジル人としてはリバウド以来の得点王となり、チャンピオンズリーグ優勝の原動力となった。また、FIFAクラブワールドカップ2007では1得点3アシストの大活躍を見せ、UEFA年間最優秀選手に輝くと共に、欧州代表として初となるFIFAクラブワールドカップ優勝に導いた。これらの活躍を評価され、2007年はバロンドール、FIFA年間最優秀選手賞、FIFPro年間最優秀選手賞、英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手賞をいずれも初受賞した。また、同年にはレアル・マドリードから8000万ユーロ(約130億円)の移籍金と手取り1200万ユーロ(約20億円)のオファーがあったが、本人は「レアルは僕が欲しいなら、ベルルスコーニ会長の首を縦に振らせればいい」と言い、パオロ・マルディーニ引退後にキャプテンを継ぎたいと語った。そして、2008年には2013年までACミランとの契約を延長した。2009年1月、プレミアリーグのマンチェスター・シティFCがカカ獲得にサッカー界史上最高額の1億ユーロ(約120億円)以上ともいわれる移籍金をミランに提示したことによる移籍騒動が勃発。カカにも年俸1500万ユーロ(約20億円)を提示し、ミランもカカの移籍を容認したものの、本人は残留を希望し、同月19日、ミランに残留することが決まった。また、多くのサポーターは移籍に大反対し、中にはカカの自宅周辺などに集結したサポーターもおり、カカは窓からユニホームを掲げ、笑顔で応えた。この残留により翌日の練習で監督のカルロ・アンチェロッティは、「今冬の補強はカカがこのミランというクラブに残留したことだ」と語った。2009年6月9日、フロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したレアル・マドリードの最初の新加入選手として移籍金6800万ユーロ(約92億円)の6年契約で移籍。なお、この移籍金は2001年にジネディーヌ・ジダンが同じくレアル・マドリードに移籍したときの7696万ユーロ(約103億円)に次いで当時史上2番目に高額な移籍金となった。 紆余曲折の末の移籍であり、カカ本人はこの移籍について会見で「(裏口ではなく)玄関から去る」と語った。また、レシフェで行われた会見では、あくまで最高の形はミランへの残留であったとしながらも、移籍は財政難に苦しむミランのことを思えばこそであり、移籍をするのであればレアル・マドリードしかないと語った。入団発表では5万人のサポーターがエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに集まった。レアル・マドリードでは当初、かつてジネディーヌ・ジダンが着けていた背番号5番を着けることが噂され、ジダン自身もカカが5番を背負うことに好意的な発言をしたものの、最終的には本人の希望で8番を背負うことになった。親善試合のトロントFC戦でレアル・マドリードでのデビューを飾り、同じく親善試合のボルシア・ドルトムント戦で初得点を決め、更に9月23日、ビジャレアルCF戦でペナルティーキックからレアル・マドリードでの公式戦初得点を記録した。しかし、恥骨炎の影響もあってか以前のような活躍は出来ておらず、その年のリーガワースト移籍ランキングで10位に選ばれ、更に2010 FIFAワールドカップ後には半月板の手術を行い、4ヵ月程度の離脱が発表された。翌年1月3日のヘタフェCF戦で238日ぶりに招集を受け、後半77分にカリム・ベンゼマとの交代でピッチに立った。翌週のビジャレアル戦でも71分から途中出場すると、復帰後初得点を挙げ、4月23日のバレンシア戦では2ゴール2アシストを挙げた。しかし、新加入のメスト・エジルの台頭などもあってレギュラーの座を奪うまでには至らず、シーズン終了後には移籍報道が加熱し、スペイン紙アスが行ったアンケートでは、78%が「カカを放出すべき」と答えた。しかし、カカ自身は一貫してレアル・マドリード残留を明言した。2013年冬のメルカートにミランは再びカカの獲得に乗り出した。カカ自身も復帰を希望しており、移籍騒動が起きたもののサラリー面で復帰はほぼ不可能となった。その後、カカは「1年はレアルでいいシーズンを過ごしたい」と改めて残留を強調した。2012-13シーズン後、レアル・マドリードはイスコやガレス・ベイルといった攻撃的なMFを獲得した。これまで十分な出場機会がなかったことや、2014年にブラジルで開催されるワールドカップにむけた出場アピールの機会を求めて、移籍を志願。2013年9月2日、古巣のACミランへの復帰が決定。大幅に減俸した2年契約である。ミランが欧州カップ戦の出場権を逃したため、2014年6月30日に契約解除オプションを行使して退団、7月1日に2015年からメジャーリーグサッカーに新設されるオーランド・シティSCへの加入と古巣サンパウロFCへ半年間へのレンタル移籍が発表された。2002年のボリビアとの試合で代表戦初出場を果たす。2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選ばれ、出場機会はコスタリカ戦での25分のみと少ないながらも優勝を経験した。翌年のCONCACAFゴールドカップではU-23ブラジル代表のキャプテンを務め、3得点を挙げて準優勝に貢献した。FIFAコンフェデレーションズカップ2005でブラジルは優勝し、アルゼンチンとの決勝で得点も決めた。2006 FIFAワールドカップではロナウジーニョ、ロナウド、アドリアーノと共にカルテット・マジコ(「魔法の4人」)を形成し世界中で話題となった。しかしチームは機能せず、個々の選手がバラバラに活躍するのみで優勝候補筆頭といわれた前評判を見せられぬまま、準々決勝でフランスに敗れベスト8で敗退した。FIFAコンフェデレーションズカップ2009では背番号10を背負い、ブラジルの優勝に貢献すると共に大会最優秀選手(ゴールデンボール)に輝いた。2010 FIFAワールドカップでは、前回大会のカルテット・マジコから唯一代表に選出された。しかし、結果は前回大会と同じベスト8でオランダに逆転負けを喫し、カカは大会アシスト王となるも無得点に終わった。南アフリカW杯以降は代表に招集されず、コパ・アメリカ2011でもプレーすることはなかった。親善試合の11月10日のガボン戦、同14日のエジプト戦で南アフリカW杯以来となる代表招集を受けたが、ふくらはぎの負傷により代表復帰は見送られた。2012年10月におよそ1年ぶりに代表に招集されると、10月11日のイラクとの親善試合で約2年ぶりとなる出場を果たし、1ゴール1アシストの活躍をみせた。ブラジル人サッカー選手に多い貧困層出身ではなく、どちらかというと中流階級の育ちであるが、その事を鼻にかけたりせず誰とでも気さくに付き合うようで人間的にも評価が高くチームメイトの信頼も厚い。彼自身、白人であるが人種の坩堝であるブラジル育ちということもあり黒人や黄色人種への人種差別には強固に反対し発言もしている。2008年、2009年とアメリカのタイム誌による「世界で最も影響力のある100人」に唯一のサッカー選手として選出された。アメリカという決してサッカー人気が高いとは言えない国による選出には本人も大変感動し、それと同時に正しい価値観を伝えていく責任や義務も感じたという。しかし、2008-09シーズンはクラブにおいて監督の戦術などを批判することもあった。2005年12月、長年の遠距離恋愛を経て5つ下のブラジル人女性カロリーネ・セリコと母国ブラジルにて結婚した。彼女の母親はディオールのブラジル支社の幹部。2008年6月10日に長男ルーカスが、2011年4月23日に長女イザベラが誕生した。完璧とも言えるカップルであったが、2014年11月に離婚、9年間の夫婦生活に終止符を打った。離婚理由についてはブラジルを拠点とするカロリーネ夫人とカカのオーランド・シティ移籍によるすれ違い生活と報じられている。しかし、離婚から2ヶ月後の2015年1月に一転してカロリーネ夫人がSNS上で復縁を発表するなど、再婚に向けた動きも見られたが結局、2015年8月に再び破局を発表している。実弟のロドリゴも2005年にACミランへ入団、ジゴン()の名で選手登録されている。ジゴンは2007年夏にレンタル終了でミランに復帰し、兄と共にプレーしていた。また、呂比須ワグナーとは仲がよく、オフの時はゴルフに行く。カカにとってのアイドルは、ブラジル代表やサンパウロFCなどでプレーしたライー。キリスト教の福音主義の一派「キリストの再生教会」(本部サン・パウロ)の信者である。愛読書は聖書、好きな音楽はゴスペル、座右の銘は聖書の言葉の「神に忠実なれ」。無人島に3つ物を持っていくとすればサッカーボール、聖書、iPodを持っていきたいと語っている。FIFAクラブワールドカップ2007決勝戦のボカ・ジュニアーズ戦などの試合でゴールを決めた後に「私はイエスのもの」という意味の「I BELONG TO JESUS」という文字が書かれたシャツを見せた他、The Prizeというクリスチャンのサッカー選手の話を集めたDVDに出演した際に、「SEXは結婚してからの祝福」と発言し、結婚するまで童貞だった事も告白している。同性愛についても否定的に考えており、ブラジルのゲイ雑誌が彼のそっくりさんのヌードを掲載すると知った際には、「その企画に何らかの形で「カカ」の名前が載った場合、名誉毀損で雑誌を告訴する」と強く主張した。前述の事故の影響で近視になったカカは、試合中はコンタクトレンズを使用し、普段は度の強いメガネをしていたが、2007年6月に極秘でレーシック手術を受けた模様。用具等はアディダス社と契約している。アルマーニの広告モデルを務めたこともある。また、エレクトロニック・アーツのゲームソフト、FIFA11のカバーにも選ばれた。「カカ(Kaká)」という名前は、幼い弟が本名の「リカルド」を発音できずに「カカ」と呼んでいたことに由来する。そのため何の意味も込められたものではない。しかし、イタリアやポルトガルなどのラテン語圏において、「カカ」と言う呼び名は発音によっては汚物(CACCA)を意味するため、ACミランへ移籍する際は愛称を変えなくてはならないというような議論もされたようで、またミランより先にオファーしていたユヴェントスFCがこのような理由で獲得を断念したという。「Kaká」は2番目の「á」にアクセントをつけて発音するため、「カ(ッ)カァ」という感じで聞こえることが多い。なお、イタリア語などでは、そのアクセントの表記法に従いKakàとなることがある。ミランでは「リッキー」という愛称で呼ばれていたとのこと。
出典:wikipedia
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