白木 秀雄(しらき ひでお、本名:柏倉 秀康、1933年1月1日 - 1972年8月31日)は、日本のジャズ・ドラマー。東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)の酒屋に生まれる。錦城中学校を経て東京芸術大学音楽学部打楽器科に入学(のちに中退)。白木が入学した年の芸大打楽器科の新入生は2名だけで、もう1人は指揮者の岩城宏之であった。芸大在学中にキジ西村(西村喜次)の勧めでブルーコーツに参加し、ジャズ・ドラマーとしてのキャリアを開始した。レイモンド・コンデとゲイ・セプテット、河辺公一とゴールデン・チャリオティアーズを経て、1953年に初のリーダーバンド、白木秀雄トリオを結成するが間もなく解散。小野満とフォアブラザーズ、与田輝雄とシックス・レモンズを経て渡辺プロダクションに所属し、1957年4月に白木秀雄クインテットを結成した。同年に制作された石原裕次郎主演の映画「嵐を呼ぶ男」では、石原のドラム演奏シーンにおいてドラムのアテレコを担当し、映画の主題歌「嵐を呼ぶ男」のシングル盤ではバック演奏も担当した(「白木秀雄とオールスターズ」名義)。1959年には水谷良重と結婚し(1963年離婚)、時代の寵児としてマスコミを賑わせた。1961年、アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズの初来日の際、ブレイキーとの初競演(ドラム合戦)を果たした。同年6月にスタートしたテレビ番組「シャボン玉ホリデー」には、所属する渡辺プロの共同制作番組であったこともあり、白木は頻繁に出演している。この番組の企画でクレージーキャッツのハナ肇とドラム合戦も行った。1962年5月、米のドラム・メーカーの招きで渡米。その際、以前から親交のあったホレス・シルヴァーとの共演を果たした。1965年10月、の招きに応じて白木秀雄クインテットとしてに出演するが、帰国後、白木のわがままに耐え切れなくなったメンバーが次々に脱退した。新メンバーを迎えたものの仕事は激減し、クインテットは1968年5月に解散となり、同時期に白木は渡辺プロダクションから解雇された(メンバーチェンジ以降赤字続きだった)。クインテットの解散後はジャズ界から離れる。1972年9月1日、赤坂のアパートの自室で腐乱死体となって発見された。死因は睡眠薬中毒で、晩年はかなり荒れた生活を送っていたという。上述した脱退の影響もありメンバー経験者は多い。トランペットでは福原彰、小俣尚也、仲野彰、日野皓正、テナーサックスでは宮沢昭、松本英彦、村岡建、稲垣次郎、ピアノでは八城一夫、世良譲、大野雄二、ベースでは栗田八郎、稲葉国光などが参加していた。2000年代半ばに再評価の機運が高まり、主要盤はほぼ再発売された。
出典:wikipedia
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