NHK東京放送会館(エヌエイチケイとうきょうほうそうかいかん)は、日本放送協会(NHK)が1938年(昭和13年)から1973年(昭和48年)まで本部として使用していた施設である。所在地は、東京都千代田区内幸町であった。日本初のラジオ放送局として、1925年(大正14年)3月22日に当時の社団法人東京放送局が仮放送を開始した場所は、東京府東京市芝区(現・東京都港区)の東京高等工芸学校内(仮局舎)であった。同年7月、同区愛宕山に本局舎(現在はNHK放送博物館)が完成、移転し本放送を開始した。その後、社団法人であった大阪・名古屋の両放送局と合同し、1926年(大正15年)8月20日に社団法人としての日本放送協会となると、全国にネットワークを展開した。これにより、愛宕山局舎は手狭となった。加えて、1940年(昭和15年、皇紀2600年)に開催を予定していた東京オリンピックに合わせ、テレビジョン放送を開始する計画を立てることとなり、そのために本格的な施設が必要となったため、当時の東京市麹町区日比谷内幸町に大規模な局舎の建設が計画された。局舎の設計は指名設計競技方式により行われることになり、1933年(昭和8年)初に西村好時、堀越三郎、渡辺仁、横河時介、高橋貞太郎、山下寿郎、福田重義、石本喜久治、長谷部鋭吉、渡辺節、村野藤吾、安井武雄の12名を指名し、各人より2種以内の図案提出を求め、1934年(昭和9年)1月の締め切り期日までに、1人1種及び2種合計19種の図案提出があり、審査員は専門家側、中條精一郎、大熊喜邦、和田信夫、佐藤功一、岸田日出刀の5名、協会側、小森本部常務理事、中山関東支部常務理事にして、審議の結果、同年3月7日に山下寿郎建築事務所案の当選が決定した。そうして1935年(昭和10年)10月20日に起工され、1938年(昭和13年)12月20日に竣工し、同年運用を開始した。建設は竹中工務店が担当。オリンピックは結局第二次世界大戦により返上を余儀なくされ、日本敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部が一部を接収。民間情報教育局が入り放送の検閲や指導を行ったほか、現在のAFNの母体となる駐留軍向け放送(コールサイン:WVTR)が行われていた。1953年(昭和28年)2月1日の地上アナログテレビ放送が開始されたのもこの建物からであった。1955年(昭和30年)に増築が行われ、NHKホール(初代)も併設された。 所在地は内幸町であったが、都電の田村町一丁目停留所からも近く、当時は「田村町」と呼ばれることも多かった。東京オリンピックは戦後、1964年(昭和39年)に実現することとなり、それを機に現在のNHK放送センター(渋谷区神南)が五輪放送センターとして建設・運用されることとなった。この建設地は、日本の敗戦後にアメリカ軍の兵舎・住宅施設「ワシントンハイツ」の一部だったものであり、これが1964年に日本に全面返還されたものである。その後、内幸町の敷地10,550平方メートル及び本館・新館・第2新館の3建物は、1972年(昭和47年)12月8日に行われた公開入札によって三菱地所が354億6,312万700円で落札し、その益金の一部で放送文化基金が設立された。そして、1973年7月31日の放送終了を以って35年にわたる運用を終えた。三菱地所所有となった建物は「日比谷国際ビルヂング」と改称され、貸事務所として暫定的に利用するため、スタジオを貸室に改造するなどの改修が行われ、1974年(昭和49年)3月よりオフィスビルとして運用される運びとなった。その後、道路を挟んであった港区の物産館との一体再開発が図られるも、結局各社別々でされることとなり、当建物は三菱地所による再開発のため1978年(昭和53年)に取り壊され、跡地には日比谷シティが1981年(昭和56年)に竣工した。同地の日比谷通り沿いには小さな放送記念碑が建てられており、「日本放送協会は1938年から1973年までこの地にあった」と書かれている。余談だが、日比谷国際ビルのモニターには、内幸町のNHK放送会館が建てられた名残で、受信料にかかわらず、NHKのテレビが受信されたこともある。
出典:wikipedia
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