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安城市

安城市(あんじょうし)は、愛知県西三河地方の市。愛知県のほぼ中央に位置する内陸部の都市で、愛知県では8番目の人口を有する。1906年に碧海郡安城村と周辺8村で町制を施行、1952年に愛知県で13番目に市制を施行した。毎年夏に開かれる安城七夕まつりで知られる。明治時代の明治用水の開通により大規模な開墾が行われ、農業の先進的な取り組みが行われたことから、1920年代から1930年代にかけて、農業先進国のデンマークに譬えて「日本デンマーク」と呼ばれた(現在では「日本のデンマーク」と書いている文書も多くあるが、当時はこの呼称が用いられた)。現在は、自動車工業を中心とする機械工業が盛んである。市名は、ニュースなどでは「あんじょう」と呼んでいるが、地元では「あんじょう」と「じょ」にアクセントをおいて呼んでいる。名古屋市の南東約30kmに位置し、南北に14.7km、東西に10.0kmの市域を有する。岡崎平野の中央、矢作川の西岸に位置し、市域の大半を旧藤岡町から三河湾へと続く洪積台地がなだらかな傾斜を描いて縦断している。一方、市南東部は矢作川や矢作古川によって形成された沖積平野が広がっている。そのため、市内の最高標点が27.7m、最低標点が0.5mと高低差は極めて小さい。河川は猿渡川、高浜川、矢作川の水系から成る。市内には、一級河川が3、二級河川が9、準用河川が29河川ある。市の東には西鹿乗川が流れ、市南東部で鹿乗川と合流する。また、市の各所には明治時代に開削された明治用水の4本の幹線・支線が流れ、それぞれ刈谷市、知立市、西尾市などの近隣都市まで続く。市南西部の碧南市との市境には汽水湖の油ヶ淵があり、長田川や稗田川、朝鮮川などが流れ込む。市街地は安城駅を中心とする市北部に形成されており、それ以外の地域には集落が点在している。交通は、国道1号や国道23号といった幹線道路が東西を横断し、東海道新幹線や東海道本線・名鉄名古屋本線という県内の東西を結ぶ鉄道路線も通る。土地利用では、2009年の統計によると、面積86.01km²のうち、田が32.33km²と市全体の約40%弱を占め、畑は6.30km²で約8%になり、市域の半分弱が田畑に利用されていることになる。しかし、近年は宅地の造成が進んでおり、田畑の減少に代わって宅地の土地利用が増えている。宅地面積は22.75km²で26%を超えている。1976年から2004年までの30年間での1年の平均気温は16.0℃で、最高気温は36.9℃、最低気温は-3.9℃程度を記録し、県内の他市に比べて、夏は暑く、冬は冷え込む内地性の気候である。また、年間平均降水量は1,283mmである。1922年以降に市内で記録された最高気温は40.0℃(1995年8月5日)、最低気温は-10.5℃(1989年12月28日)で、1日あたりの最大降水量の記録は364.5mm(1971年8月30日)である。安城町の発足時には15,000人に満たなかったが、製糸工場の進出により町制施行後5年間の人口増加率が10%を超え、1920年代は製糸業が隆盛で女性の数が増加した。製糸産業の衰退で人口減少に転じるが、紡績業の隆盛で再び人口増加となった。1940年代には軍需工場の進出と疎開、戦後は周辺市町村の合併などにより人口を伸ばした。また、高度経済成長期には工場の進出が相次ぎ、その後の自動車工業の隆盛や、名古屋市への通勤圏ということもあり、人口増加を続けている。2010年度国勢調査によれば、人口は178,691人と5年で5%増えた。昼間人口183,592人で、昼夜間人口比率は102.7%となっている。また、2010年10月1日の統計では、市内の登録外国人は5,719人おり、国籍別ではブラジルが2,387人と最も多く、次いでフィリピン(1,103人)、中国(1,004人)が続く。で示したものが、安城町及び安城市の人口また、を加えたものが現在の市域の人口括弧内の数字は合併前の安城町・市の人口<参考 - #市域の変遷>1950年に開催された愛知国体ではソフトボールの会場に、また1994年のわかしゃち国体では、バスケットボールとソフトボールの会場となった。愛知国体がきっかけで、安城市ではソフトボール熱が高まり、倉敷紡績安城工場ソフトボール部が国体や全日本大会で優勝。また、安城学園高等学校も1958年の富山国体で優勝するなどした。現在は、日本ソフトボールリーグ女子1部の試合が安城市総合運動公園内のソフトボール場でほぼ毎年開催されている。バスケットボールでは、実業団のアイシン・エィ・ダブリュ ウィングス(Wリーグ)とアイシン・エィ・ダブリュ アレイオンズ安城(ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ)が本拠を置いており、安城市体育館やアイシン・エィ・ダブリュ本社敷地内の体育館でも試合が行われる。1995年に、西尾市・幸田町とともに三河萬歳(三河万歳)が国の重要無形民俗文化財を受けた。安城市内の三河万歳は東別所町や西別所町で伝わる「別所万歳」と呼ばれるものが室町時代から伝えられてきた。明治時代に入ると、榎前町辺りで尾張萬歳の系統の万歳が興った。戦後、別所万歳は万歳師が少なくなって衰退していったのに対し、榎前町では盛んになっていった。1967年には三河万歳保存会が発足。しかし、衰退していた別所万歳が由緒正しき三河万歳であると発覚したことから、保存会会員が茨城県在住の別所万歳伝承者に指導を受け、2つの万歳が合わさったものが現在の安城市の三河万歳の形となった。現在、別所系の「神道三河万歳」、尾張系の「御殿万歳」「三曲万歳」の3つの演目が主に演じられている。このほか、桜井町下谷に伝わる棒の手が1964年に県指定無形民俗文化財に指定されている。桜井町下谷の棒の手は、1560年の桶狭間の戦いで総崩れになった今川方の式部太夫某という侍が、桜井に留まって村人に棒の手を教えたことが発祥と伝えられており、「式部流」と呼ばれる。式部流は26種の演目から成り立ち、すべて口伝による伝承が行われてきた。1956年に保存会が立ち上がり、現在は下谷の小学生高学年が下谷の八幡社や桜井神社の祭礼に向けて指導を受けている。ケーブルテレビ(CATV)は、刈谷市に本社を置くキャッチネットワーク(KATCH)の管内である。またコミュニティFMにおいては、KATCH系列のエフエムキャッチ(Pitch FM)の放送エリアとなっている。市外局番は「0566」である。また、郵便番号は旧桜井町域および旧明治村域が「444」なのを除いて「446」である。郵便の集配業務は、「446」地域は郵便事業安城支店(安城郵便局)、「444」地域は桜井集配センター(桜井郵便局)と明治集配センター(明治郵便局)が請け負っている。安城市の町名を参照。現在の市域に陸地ができたのは、東部の沖積平野が完新世、中西部の台地は更新世最後に海面低下と台地の相対的な上昇が起きたことによる。古代の市域南部は、現在の油ヶ淵から桜井町付近まで深く海が入り込んでいた。このことは、堀内貝塚や東端貝塚の存在から確認することができる。また、矢作川は矢作古川が本筋であり、今日の西尾市とは陸続きになっていた。現在の市域で、初めて人の行動が確認できるのは晩期旧石器時代で、市内15か所の遺跡から30点の有舌尖頭器が出土しているが、定住地というよりは狩猟の場となっていたと考えられている。晩期縄文時代の遺跡では、堀内貝塚や東端貝塚が確認されている。弥生時代中期中葉頃から、豊田市の川原遺跡や西尾市の岡島遺跡など、矢作川流域に大規模な集落が見られるようになる。市内で集中的に遺跡が確認されているのは市域東部の沖積平野で、全長2.5km、幅0.75kmの鹿乗川流域遺跡群と呼ばれる弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺跡群がある。また古墳時代には、市南東部に二子古墳や姫小川古墳などの大規模な古墳も建造され、それらを含めた19基の古墳が2.4kmの範囲に集中する桜井古墳群がある。律令制が敷かれると、市域は三河国の碧海郡となった。『和名類聚抄』には、碧海郡内には15、16の郷があったと記述されているが、そのうち桜井郷(桜井町)、小河郷(小川町)、大岡郷(大岡町)が、現在も地名として残っているため市内と比定されている。このほか、和志取郷なども市内と推定されている。また、別郷廃寺・寺領廃寺といった古代寺院の跡地も確認できる。11世紀には、寄進地系荘園の志貴荘や碧海荘が誕生した。志貴荘は藤原氏や平氏などによって支配され、今日の安城市域のほとんどと碧南市・高浜市域や岡崎市域の一部を領地としていた。一方、碧海荘は豊田市南部から岡崎市西部・南部にかけて支配下に置き、一部が安城市域にかかっていたとみられている。13世紀後半の鎌倉時代には、浄土真宗が伝えられた。矢作川流域には、円善の嫡子や弟子による和田門徒と呼ばれる集団が形成され、各地に道場を創設した。戦国時代には、蓮如の布教により本願寺派に改宗する寺院が急増し、信徒を増やした。室町時代中期の1440年には、安祥城が畠山一族の和田親平によって築城されたが、1471年に松平信光が攻め取り、三男・親忠を置いた。親忠と長親・信忠の安祥松平家(徳川本家)3代に渡る経営により、加茂郡南部・額田郡・碧海郡・幡豆郡北部を支配権とする体制を確立した。安祥松平家時代の家臣は、安祥譜代と呼ばれ徳川最古参の家臣とされている。また、長親の子は福釜・桜井・藤井といった市域の村々を領した。この頃、松平親忠に臣従した玄海、大行日吉法印によって三河万歳が創作・伝承されている。1524年には清康は、安祥城から山中城そして岡崎城へ居城を移す。安祥城は、1540年に今川・松平連合軍と織田氏との争奪戦(安祥合戦)が繰り広げられた結果、織田氏の手に落城し、織田氏の三河進出の前線根拠地となったが、1549年に再び今川・松平によって奪取されている。そして、織田氏と徳川氏の間で清洲同盟が結ばれた後の1562年に廃城となったとされる。1563年には、三河における浄土真宗3か寺のひとつだった本證寺が三河一向一揆の拠点となり徳川家康と戦い、家康を苦しめた。江戸時代には、主に市域の東部は岡崎藩領、西部に刈谷藩領となった。残りは、旗本や御家人の知行地で、寺社領も一部あった。しかし、江戸時代を通して同じ領主に支配され続けた村はほとんどなく、領主の変動は激しかった。市域の村は東部の沖積平野に3分の2が集中し、台地上の村々は集落間の距離が長かった。また、1575年に今川家の家臣によって東海道と大浜街道の交点には大浜茶屋が設けられた。碧海台地上には溜池が多く作られ、各地で新田開発が進んだ。1605年には矢作新川(現在の矢作川)の開削が行われて油ヶ淵が造成され、1666年に伏見屋新田が開発された。17世紀後半から18世紀にかけては綿作が発展した。18世紀後半になると、寛政一揆の影響で、市域西部の8村が一部を除き刈谷藩から福島藩に領地替えされ、重原陣屋により支配された。18世紀末になると、東海道の人馬の往来が盛んになり、池鯉鮒宿や岡崎宿の助郷を担当している村々の負担が厳しくなった。19世紀には、和泉村の豪農・都築弥厚によって、安城が原に矢作川から用水路を引いて土地を開墾する計画が立てられ幕府の許可を得て測量まで着手されたが、村々・領主の反対や都築の病死により頓挫した。同時期には、鹿乗川延長工事が竣工した。また、五箇野ヶ原の一部が検地されて石井新田が開発された。1869年の版籍奉還により、重原藩や静岡藩が成立した。廃藩置県を経て1871年に額田県が成立し、市域の村々が初めて同じ支配下に入った。明治時代に入ると、石井新田の岡本兵松が都築弥厚の計画を再び実現に向けて動き出した。一方で、阿弥陀堂村(現在の豊田市)の伊豫田與八郎が、現在の豊田市南部の低湿地の水害対策として矢作川から衣浦へ至る排水計画を練っていた。それぞれの計画は、愛知県の誕生した後の1875年に一本化。1878年1月には建設が着手され、4月に一部開通した。用水路は1881年に明治用水と命名された。明治用水は1885年までに280kmが開削され、それまで生産性の低かった碧海台地が大きく開墾されることとなった。また、1889年には東海道本線の岡崎駅と刈谷駅の中間に位置した安城村内に安城駅が誘致され、駅前集落が形成された。安城駅は、近隣の箕輪村や榎前村などと道路で結ばれ、それまで結びつきの弱かった村とのつながりが生まれた。1901年、愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)を誘致した。1906年には安城村と周辺8村を合併して町制が施行され、碧海郡で人口最大の都市となった。このことから、知立町から1910年に警察署、1914年に郡役所が移転し、郡の行政中心地としての機能を持つようになる。また、1923年に愛知電気鉄道(現・名鉄名古屋本線)が開通し、今村駅(現・新安城駅)が開業。1926年には、碧海電気鉄道(現・名鉄西尾線)が開通した。1934年、都市計画法が小都市にも適用されることとなり、安城町全域が適用範囲となった。安城町には農林学校の他にも、多くの農業指導機関が移転・設置され、農業の多角化・共同化が実施されたことから、日本の農業先進地域として1920年代から1930年代にかけて「日本デンマーク」と呼ばれた。また、1910年頃より製糸工場が次々と建てられたことから、製糸業が発展したが、製糸業の衰退とともに工場も廃業していった。替わって1930年代に紡績業が隆盛したが、1940年代に紡績工場は軍需工場へと転換していった。1943年には明治村(現在の市南西部)に海軍の明治航空基地が設置された。また、矢作町(現在の岡崎市。一部は安城市に編入)から上郷村(現在の豊田市南部)にかけては岡崎航空基地が設置された。太平洋戦争中の1944年には東南海地震が、1945年には三河地震が発生し、桜井町や明治村では大きな被害を出した。また、戦争末期には岡崎と明治の航空基地の中間地点に安城が位置していたことから、たびたび銃撃や焼夷弾を落とされることはあったものの、被害はほとんどなく、大都市からの疎開児童数は安城町内で515人に達した。戦災を逃れて工場を移転する企業もあった。戦後は、戦災被害のなかった安城町には工場が移転してきたが、軍需工場の閉鎖などにより不況が訪れた。そこで安城町は復興のために、1951年に名古屋大学農学部、倉敷紡績を誘致した。名古屋大学は1966年に名古屋市に移転している。1952年には人口が3万5千人に達し、市制を施行した。その後、「昭和の大合併」により、1955年に明治村・依佐美村の一部を、1960年に岡崎市の一部を編入合併し、同年5月5日に市章を制定した。しかし、合併した村の赤字を引き継いだことや、合併した地域のインフラを安城市と同等にまで引き揚げようとした結果、1960年に地方財政再建促進特別措置法の適用を受け、財政再建団体となった。安城市は4ヶ年計画を提出したが、同年に施行された工場誘致条例による工場増加などで市民税・固定資産税が大幅に増加し、1962年に計画より2年早く財政再建を果たした。1967年には桜井町を合併し、現在の市域が確定している。工場誘致条例で多数の工場が誘致されたことにより、安城市は工業都市として発展していくこととなる。また、都市化の流れを受けて、農村人口が減少する一方で、都市人口が増加するようになった。農地も次々と潰され、市営住宅や市内企業の社宅などが建てられた。都市化は国道1号や名鉄名古屋本線、東海道本線が通る市北部で急速に進み、人口増加は「北高南低」だった。人口は増加の一途を辿り、1972年に10万人を突破した。1969年の都市計画法の改正を受け、安城市でも安城駅周辺から今村(市北部)、二本木(市西部)に至る範囲を市街化区域とし、根崎、東端(市南西部)を工業用市街化区域とした。これを受けて、市は1971年に安城駅前の駅前改造事業を行い駅前を整備、1988年には市西部に東海道新幹線の三河安城駅が開業した。市では、安城駅前を中心市街地とし、三河安城駅を広域拠点、新安城駅や桜井駅周辺を地域拠点として土地区画整理事業を進めるなどの開発を進めている。地名は安祥→安静→安詳→安城(読みはいずれも「あんじょう」)と変わったという。存覚の『袖日記』によれば、1255年に朝円が親鸞の肖像画を書き、「参河国安城照空房」が所蔵していた。これが「安静御影(安城御影)」と呼ばれることから、既に鎌倉時代初頭には安静(安城・安祥)と呼ばれていたことが分かる。地名の由来は定かになっていないが、一説には京都の安祥寺の荘園があったからと言われている。安城市政の特徴は、農業関係者が大きく関与していることである。1952年の市制施行時、市議に占める農業関係者の割合は77%で、当時の市の人口に占める割合の32%を大きく上回っていた。1970年代頃から減少するも、1999年でも43%が農業関係者だった。また、歴代市長も6人中4人が愛知県立安城農林高等学校およびその前身校の出身者で、残る2人も岩月が農業補習学校、神谷が東京農業大学出身であり、歴史的に農政関係者が市長に就任している。(2013年12月1日現在)会派の構成は、2011年の統一地方選挙後、21議席を占めて最大会派だった「市政クラブ」が3会派に分裂。市政クラブから分裂した「安政会」が11議席を持つ最大会派となった。税収は西三河地方の自動車産業を中心とした好景気を背景に市民税収入が増加して高水準を維持しており、歳入に占める自主財源の比率が高く、地方交付税の普通交付税不交付団体である。市債の残高は、2001年度に653億6800万円ほどに達したものの、それをピークに減ってきており、2008年度には531億6400万円にまで減少し、公債費比率は4.0%になっている。2010年度の一般会計決算では、歳入608億2368万円に対して、歳出560億5427万円を計上した。2004年度に策定された、2005年度から2014年度における第7次安城市総合計画では「市民とともに育む環境首都・安城」を目指す都市像に据え、環境資源を最大限に活用したまちづくりを掲げ、全国12の環境NGOが主催する「持続可能な地域社会をつくる日本の環境首都コンテスト」で「環境首都」と認定されることを目標としている。そのなかでも主要なプロジェクトとして以下の3つをあげている。知立市、刈谷市、碧南市、高浜市と本市の5市で衣浦東部広域行政圏を構成し、協議会では事業の連携についての計画が策定された。現在実施している事業は以下の2つ。1948年に自治体警察の安城町警察(1952年の市制施行以後は、安城市警察)が発足して、警察署には国家地方警察愛知県本部碧海地区警察署が併設されたが、1954年の警察法改正で愛知県警察に吸収された。現在は市内全域と知立市が愛知県警安城警察署の管轄となっており、市内には交番が8軒、駐在所2軒ある。1959年に安城市消防本部が組織されて消防業務が行われてきたが、2003年より広域連合の衣浦東部消防局によって運営されている。市内には、安城消防署と北・南分署及び西出張所が設置されている。市内には、安城簡易裁判所、安城区検察庁が設置されている。以前は、名古屋法務局安城出張所があったが、統廃合で名古屋法務局刈谷支局に移転した。地方裁判所・家庭裁判所は、名古屋地方裁判所岡崎支部・名古屋家庭裁判所岡崎支部の管轄になっている。愛知県議会議員衆議院議員参議院議員(安城市内在住者)北部・南部の各浄水場と中部配水場によって、それぞれの地域に水が送られる。愛知県水道用水供給事業で供給された水と、浄水場の敷地内の深井戸で取水した水を給水している。上水道の人口普及率は99.89%(2009年度)。市内を3つに区分けし、矢作川、境川、衣浦東部の各処理区の流域下水道として処理される。それとは別に、福釜町や榎前町などの福釜東部地区では農業集落排水が行われている。また、各処理区によってマンホールのフタの意匠が異なっている。現在の人口あたりの下水道普及率は69.5%で、整備面積は1,968haである(いずれも2009年度)。安城市のごみ処理量は人口の増加にともない急増し、1997年に1日240トンのごみ処理能力を持つ環境クリーンセンターを開設して以来、リサイクルプラザや資源化センター、また市内各所にリサイクルステーションを設置するなどして3Rによるごみ減量に取り組んできた。しかし、近い将来にごみ処理量が限界を迎えることが予測され、市民1人当たり20%のごみ減量を呼びかけている。安城市では、JA愛知厚生連が運営する安城更生病院が市民病院として位置づけられている。市も積極的に財政支援を行い、2002年に新築移転した。また、市は更なる医療の充実を図るため、市北部に位置する八千代病院を第2市民病院と位置付けて財政支援を行い、2005年にマキタ第3工場跡地に新築移転した。2003年に碧海5市により「衣浦東部広域連合」が発足、消防が50万人の人口を擁する組織となった。市域は東海地震・東南海地震による被害を受けるとされており、2002年に大規模地震対策特別措置法の「地震防災対策強化地域」、2003年に「東南海・南海地震防災対策推進地域」に指定された。市としても、2004年の新潟県中越地震を契機に東海北陸自動車道の全通を見据えて、日本海側の富山県砺波市および石川県加賀市と災害時相互応援協定を結んだ。治水面では、都市化に伴う保水力の低下を補うために、調整池や遊水池の整備がされている。トヨタ自動車の工場が集積する豊田市に隣接することや交通が至便なことなどから、自動車工業を中心とした第二次産業が市の中心産業となっている。多くの大工場が集積し、中京工業地帯を構成する都市のひとつである。製造品出荷額等は、1986年から県内の自治体で上位5番以内に入っており、2010年は1兆4559億1562万円だった。一方、安城の発展に大きく寄与した農業もさかんで、県下有数の農業地帯となっている。水稲のほかにも、果樹や花きの生産、畜産などの多角的な農業が営まれている。しかし、農業人口や農地面積の減少が続いており、農業生産も減少傾向にある。2006年の農業産出額は96億7000万円だった。明治用水開通以前、碧海台地は安城ヶ原や五箇野ヶ原、猿町ヶ原、長洗原などと呼ばれるやせ地で、台地を流れる川の谷間に水田が作られていた。台地上に水田は2,300haあり、このうち延べ488haの溜池を利用した水田の面積は約1,200haだった。主な農作物は木綿やサツマイモだったという。1879年に明治用水の開通した3年後の1883年に水田面積は4,300ha、1907年には8,100haに拡大した。安城町には農業関連機関が集中し、愛知県立農林学校、愛知県立農事試験場、愛知県立農業補習学校、満鉄飼料研究所、愛知県立種鶏場などが置かれた。農業関連機関の集中は安城町の発展に大きく寄与した。また、農林学校校長兼農事試験場長の山崎延吉により農業の多角化・共同化が提唱され、実施されたことから1920年から30年代にかけて農業先進国のデンマークにあやかり「日本デンマーク」と呼ばれた。この背景には、明治以降に切り開いた土地だったために寄生地主制がそれほど強くなく、自作農、特に大経営の農家が多かったことがあげられる。ただし、農業の多角化といっても米麦・蔬菜・養鶏の三角形栽培が最も多く、梨や西瓜の栽培も多かった。農業の共同化は失敗したものの、協業経営は成功して産業組合が設立され企業化されるに至ったものまであった。1923年、碧海郡購買販売組合連合会(丸碧)が設立され、米や鶏卵の協同販売に乗り出した。そのほか、安城町農会が文化活動に積極的に関与し、農村文化の向上のために啓蒙誌『安城』の発刊や、農業図書館を設置した。また、丸碧により碧海郡唯一の総合病院として更生病院が設立された。こうして、産業組合・農会・農民が一体となって町を発展させていった。しかし、昭和恐慌によって大都市市場は縮小。さらに満州事変に端を発する戦争の悪化で、不要不急の作物として果実栽培や養鶏などの統制が始まり、多角形農業から米作中心の普通作物に重点を置く農業へ転換された。丸碧は解散、産業組合も統合されていった。戦後の高度経済成長期に入ると農地の工場敷地・宅地化が進み、専業農家が減少していった。1996年、安城市農協が合併し、あいち中央農業協同組合となった。2000年の統計では2,980戸の農家が存在し、うち専業農家が255戸で9割以上が兼業農家となっている。農業従事者は減少が続いており、2005年の統計では従事者数5,351人で、2000年の7,525人から大きく減らしている。また耕地面積も縮小傾向にあり、2012年で3,760haだった。2006年度の農業産出額は96億7000万円で県下第6位である。(作付面積、県内順位は2004年度のデータ)江戸時代以前は、三河木綿を利用した綿糸業と、製瓦業が行われているのみだった。明治時代になると、ガラ紡を利用した製綿が行われたが、明治用水の完成による綿花栽培の減少によって衰退していった。その後、碧海郡が繭の生産地だったことから、1910年に愛三製糸が、1911年には安城山丸製糸場が設立され、製糸業が発達した。1920年・21年には三州社、帝国製糸がそれぞれ工場を置き、製糸業は隆盛を極めることとなるが、大正末期には衰退していき、工場の閉鎖が相次いだ。中心産業を失った安城町は昭和初期に一時的に景気が停滞するものの、1933年に内外綿(現・新内外綿)を、1934年に辻紡績を誘致し、紡績業を中心産業に据えることに成功した。また、1936年に森永食品(現・森永製菓)、1939年に中央精機、1941年に明治乳業など、食品・機械の工場も進出した。しかし時局の悪化を受けて、内外綿は大同製鋼(現・大同特殊鋼)に、辻紡績は愛知航空機となり、軍需工場への転換が進んだ。1945年には名古屋市の空襲激化とともに、牧田電機製作所(現・マキタ)などが市内へ移転した。戦後の1950年には倉敷紡績の誘致に成功し、再び紡績業を中心に発展していく。更に、1960年に既存工場の設備増強と誘致を目的に工場誘致条例が制定され、国道1号や東海道本線といった大動脈が通過する地理的条件も加わり安城市には多数の工場が設立された。この頃から繊維工業に代わり、機械工業を中心に発展していくことになる。特に、1967年に日本電装(現・デンソー)安城製作所が進出してから、トヨタ系企業を中心とする自動車工業の集約が顕著となった。(上位3位のみ、2010年・経済産業省工業統計調査)(上位3位のみ、2010年・経済産業省工業統計調査)商業は、明治時代に安城駅が設置されてから、駅の南にできた商店街を中心として発展をしてきた。安城町制施行後に中心部と周辺町村を結ぶ放射道路が整備されたことや、愛知電気鉄道(現・名鉄名古屋本線)や碧海電気鉄道(現・名鉄西尾線)の開通などにより商圏を拡大した。戦後は1954年から安城七夕まつりが商店街で開かれ、商店街には1968年に西川屋(現・ユニー)が、1973年にダイエーが進出した。1990年代頃から市内外に郊外型の大型商業施設が次々と開業した。市内では、1996年にザ・モール安城、1997年にイトーヨーカドー安城店、2006年にアピタ安城南店が開業している。これにより、中心市街地の集客力は低下し、中心市街地の大型スーパーは次々と撤退。1998年にトポス安城店(旧ダイエー安城店)、2003年にユニー安城駅前店が閉店している。それに加えて2002年の更生病院が郊外に移転し、空洞化はより深刻なものとなった。現在は、目抜き通り沿いに空き店舗が目立ち風俗店が入居するなど、問題も生じつつある。2007年の統計では、年間商品販売額は6859億4100万円である。2005年に開催された愛知万博で、愛知県内の市町村(名古屋市を除く)が120の万博公式参加国をそれぞれ「一市町村一国フレンドシップ事業」としてフレンドシップ相手国として迎え入れた。Tajimi、Anjo、Shinshiro、Kakegawa、Idaの5都市の頭文字から「TASKI」公共交通機関が発達していないため、市内や近隣市町村への連絡は自動車が多く利用される。市ではこうした現状に対し、「エコサイクルシティ」構想を発表し、公共交通の充実とともに自転車の利用を促進している。鉄道は東海道新幹線や東海道本線、名鉄名古屋本線といった幹線が通っている。また、名鉄西尾線が市東部を南北に縦断しているが、一部単線で運行本数が少ないために十分な市内移動の手段とはなっていない。1899年、現在の東海道本線に安城駅が開業、1906年には愛知電気鉄道岡崎線(現・名鉄名古屋本線)の今村駅(現・新安城駅)が開業した。1926年には碧海電気鉄道(現・名鉄西尾線)が今村〜米津間で開業した。1988年には、東海道新幹線の三河安城駅が開業し、東海道本線にも駅が開設された。また、2008年には名鉄が輸送力増強のため名鉄西尾線の桜井駅付近で高架複線化を実施し、藤井町付近の工場群の通勤ラッシュによる道路渋滞の緩和のため南桜井駅が設けられた。名古屋市に直通している新幹線を除く路線は東海道本線と名鉄名古屋本線の2本あり、両線の安城駅と新安城駅の各駅が市の中心駅となっている。名鉄は市北部、JRは市中部を通っており、両駅の間は離れている。現在、名鉄は名鉄名古屋〜新安城間が540円、金山〜新安城間は490円の運賃体系なのに対し、JRは名古屋・金山〜三河安城・安城間に特定区間運賃を採用し、運賃を従来の570円から460円にしている。安城駅を中心として名鉄バスの路線が整備されているが、2000年頃より始まった名鉄バスの路線再編を受けて、現在は新安城駅と安城更生病院を南北に結ぶ安城線、東岡崎駅の東部方面へ向けた岡崎・安城線が運行されているのみで、決して便利とはいえない状況にある。そのため、2000年より名鉄バスが廃止を表明した安城・高棚線を引き継いだうえに新たに市街地を回る市街地線を加える形で市運営のコミュニティバス「あんくるバス」の運行が開始された。その後、名鉄バス安城線への補助を打ち切って南部線を開設するなど運行系統・本数は順次拡大され、現在は10路線が運行されている。北部線以外の路線は、すべて安城更生病院へ向かうため、交通弱者のための病院への足として重要な役割を担っている。2009年からは、碧南市の「くるくるバス」が、市内の榎前町にバス停を設置し、あんくるバスとの乗り継ぎを行っている。一方、現行の名鉄バス路線も、赤字から廃止が言及されており、市が補助金を出して支援を行っている。高速バスは、2005年の中部国際空港開業に合わせて知多乗合(知多バス)が南安城駅から空港連絡バスを運行している。また、2009年に新宿駅から東名高速道路を経由して名古屋駅を結ぶ「新宿ライナー三河・なごや号」(2012年から「ドリームなごや・三河号」)がJRバス関東とJR東海バスの共同運行により始まり、三河安城駅に停車している。市内を東西に貫く道路は、国道1号やそのバイパス道路の国道23号といった幹線道路がそれぞれ市の北端・南端を通っており、市の中心部は愛知県道48号岡崎刈谷線が整備されている。一方で、市内の南北を結ぶ主要道路では慢性的な渋滞が発生し、特に朝夕の通勤・帰宅ラッシュ時には大渋滞となる。そのため、一部の道路では国道1号や名鉄名古屋本線との立体交差事業を進め、渋滞緩和に向けて道路環境整備が行われている。自転車専用道路として明治用水緑道が市内を通っている。明治用水の水路を地下に暗渠化し、その上部利用として自転車道(歩道も並走)として整備したもので、全長22kmの豊田安城自転車道など5つの道が設置されている。鉄道・道路はほとんど立体交差しているため分断されることが少なく、幅員もゆったりしているため、使いやすい緑道として普段は中高生の通学やジョギングなどにも利用されている。バイクは通行不可の看板があり、自動車の危険から隔離された安全地帯となっている。また、安城市内外の人に無料でレンタサイクルを行っている。安城駅南口、安城市役所、デンパーク、桜井公民館など9ヶ所に貸し出し拠点があり、どのサイクルポートでも返却可能。自転車はノーパンクタイヤを使用しており、かごにはスポンサー企業広告が掲示されている。戦前には、愛知県立農林学校をはじめとした多くの農業指導機関が設置された。農林学校内に設置された農業補習学校教員養成所は、青年学校教員養成所などをへて1944年に愛知青年師範学校となった。戦後に青年師範学校は県内にあった他の師範学校2校と合併し、愛知学芸大学安城分校となるが、1952年に岡崎市の本部に統合、廃止された。一方で、1951年に名古屋大学農学部が、安城町の積極的な誘致により、統合計画のあった愛知学芸大学の敷地内に開設され、東山キャンパス(名古屋市千種区)へ移転する1966年まで安城キャンパスとして使用された。また、1950年から2007年にかけて愛知学泉短期大学(旧・安城学園女子短期大学)が桜井町にキャンパスを構えていた。小中学校数は、市制施行時には小学校4校、中学校2校だったが、その後の合併や人口増加により、現在は小学校21校、中学校8校まで増えている。また、ブラジル人の子どもの学校として、エスコーラ・サンパウロ安城校がある。毎年8月の第一金土日曜日に開催される安城七夕まつりは、安城市で最大の観光資源となっており、開催期間の3日間で100万人を超す人が訪れる。2007年の愛知県の観光統計では、行事・催事としては県全体で4位、三河地方では最も多くの動員を記録している。地元では仙台、平塚と並ぶ日本三大七夕まつりのひとつとされている。また、堀内公園や安城産業文化公園デンパークなどが年間約50万人の利用者がある観光施設となっている。特産は県下で最大の生産高をあげるイチジクが有名である。イチジクは1930年頃から碧南市などとともに出荷目的での栽培が始まり、昭和40年代後半から水田の転作用作物として急速に栽培されるようになった。1985年頃からはジャムやワインなどに製品化がされている。このほか、ナシが市全域で栽培されている。また、市南西部の和泉町で作られる「和泉そうめん」が手延べ半生めんとして有名。

出典:wikipedia

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