河内山 宗春(こうちやま そうしゅん、? - 文政6年7月22日(1823年8月27日))は江戸時代後期の茶坊主およびそれをモデルとした講談・歌舞伎などの創作上の人物。歌舞伎・映画・テレビドラマなどの創作物では、名前を「宗俊」と表記する。また「宗心」とも。宗春は江戸出身で、11代将軍徳川家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主(若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる)であった。文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。文政6年(1823年)捕縛された後、程なく牢内で獄死した。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し捕らえられたとされるが、詳しくは分かっていない。墓所は東京都港区北青山の高徳寺。宗春は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)が残っておらず、具体的にどのような罪状で捕らえられたのかは不明である。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、上記の説のように、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては『河内山実伝』があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談『天保六花撰』としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩松平家への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874年)には二代目河竹新七(河竹黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の『雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)』が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている。また、松林伯圓の講談は浪曲に影響を与え、木村重友、初代木村友衛、木村若衛の木村一派のお家芸となった(現在は途絶えている)。歌舞伎の筋立てや翻案小説などを原作とした作品が制作されている。
出典:wikipedia
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