松平 親長(まつだいら ちかなが、生没年不詳)は、戦国時代の武将。松平親忠の長男。松平信光の長男とも。修理亮。和泉守。享年79。兄弟は、松平乗元(大給松平家祖)、松平長親(安城松平家、宗家)、存牛、松平乗清(滝脇松平家祖)など。子に松平忠勝、松平忠定室、松平重吉室。信光が岩津城を攻略後に松平氏は本拠地を松平郷から岩津城に移した。その岩津城を継承したのが親長である。本拠地を継承したことから、本来の惣領・宗家であった可能性が高いが、のちに彼の家(岩津松平家)は16世紀初頭に今川氏に攻略され没落したらしく、安城松平家の隆盛に伴い次第に分家扱いになった。松平泰親・松平信光期の松平氏は、京都における活発な活動が研究者によって指摘されている。親長についても、諸史料により、寛正3年(1462年)から永正17年(1520年)に及ぶ京都での活動が、主に室町幕府の政所執事代であった蜷川氏関係の史料中にその名が散見されることにより解る。京都における親長の職務は室町幕府政所での被官としての職務(「直垂着通衆」・「使い」・「御物奉行」)と政所執事・伊勢氏の被官としての両職務に分類されるが、親長は兼務していたとする。また、親長は文明13年には京都西院小泉庄(京都市右京区)で同庄の職掌とその給田をめぐる係争の訴訟当事者にその名が挙がっており、勝訴している。この事は蜷川親元の「親元日記別録(下)」に収録の「政所賦銘引付」に記されている。親長の死没時期については、延徳元年(1489年)正月死去ともいうが異論があり不明である。平野明夫によれば、永正元年(1504年)10月16日付けの観修寺雑掌宛の松平親長の訴状が存在するため延徳元年死去説は誤りとしている。また、新行紀一は永正17年までに親長が死去していたとする。すなわち、「三條宰相中将雑掌宛室町幕府奉行人連署奉書写」において、三条西公条が借用した松平親長(当時、和泉守)への債務を破棄することを承認した内容から、債権者であった親長がこの時既に死亡していた為であると推定している。あるいは弟の松平親忠が文亀元年(1501年)に63歳で死去している事で、兄親長が永正17年には相当の高齢になることも根拠としている。しかし、平野は債務破棄の承認の原因が債権者の死去とは限らないとし、また80代まで長命する例は当時もあったとして永正17年死去説も否定している。岩津松平家は滅亡・没落したため親長以降の子孫の正確な記録はない。ただし『三河物語』では、1506年頃に今川方の伊勢新九郎(北条早雲)軍が岩津城を攻めた際、「岩津殿」が迎え撃ったとする。この「岩津殿」は親長かその子孫かは不明である。また、三河小栗氏を親長の系譜的末裔とする説がある。
出典:wikipedia
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